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私の恋人Beyondを見た雑感




能年玲奈さんこと、のんさんが出演する音楽劇を見ました

この演劇は3年前、2019年の9月に初演をしているものの再演である。自分は今回が初めての観劇。
パンフレットにある渡辺えりさんのコメントを読むと、初演後3年の間に世界は、いや人類はコロナ感染症やウクライナ戦争を経験している、そして今もう一度この演劇をやる意味がある。
ということが書かれていた。
初演を観た方々からはSNS等で「難解」であるとの感想が多かった。
そのため、どんな意味が込められて今回再演に至ったのかも興味が湧いていたので事前の情報インプットをしながら楽しもうと思う。


■原作本
この演劇には原作本があるとのことで、まずはそれを読むところから予習をしてみた。
原題「私の恋人」 上田岳弘著 2015年著 第28回三島由紀夫賞を受賞。
自分は三島賞がどんな賞なのかはあまりよく知らないが、三島由紀夫が残した著作から想像するに格式のある文章と熱い魂がこもった文学作品が選ばれるのかなと勝手な想像。
その想像通りとても読み応えのある、独特の世界観を持つ、そして読む人を考えさせる小説であった。
10万年前の原始時代から第二次世界大戦を経て現代の令和の時代に通じる壮大な「人類」の歴史物語。
その10万年の節目で生きた3人の「私」である、クロマニヨン人、ユダヤ人、日本人の井上由祐が物語の主人公。
その3人がそれぞれに熱烈に追い求め、しかし今だに出会えていない「私の恋人」。
この「私の恋人」とは一体何なのか? この演劇の大きな枠組みは原作本を読むことで大きな手掛かりとなった。


■出演者の皆さん
-のんさんのYouTubeである「のんやろがチャンネル」でも事前に情報を流していたのでそれも見た。
まずは、渡辺えりさん、小日向文世さん、のんさんの3人の会話。ゲネプロという本番前の最終リハーサル後のインタビューから。
3人で30役をやるということで、とても大変な舞台であることも伝わってきたし、えりさん、小日向さんも既に還暦を超えている中で体力的にも相当きつかったようである。
それでも今回の再演では、深い意味でのセリフの理解や、気持ちの面で少し余裕が出てきた部分があったようで「とにかく楽しみながらやりたい」ということであった。
小日向さんが初演では余裕が無くてのんさんの顔をよく見ていなかったけど、今回はじっくり顔を観れるようになって、そしたらのんさんがすごく可愛くてびっくりしたというのには笑った。

-さらに、天使役である4人の動画も見た。
松井夢さん、坂梨磨弥さん、関根麻帆さん、山田美波さんとの会話から、天使役の皆さんとのんさんの仲の良さが伝わってきた。
やはり同世代の女子トークはお化粧法の話なんかもあっておもしろかった。
松井さんと山田さんは初演でも天使役をやられていたようで、松井さんは今回は振付も担当されました。
今回初出演の坂梨さん、関根さんもいろいろな舞台で主役をやられたり大活躍されている方でした。
そんな4人に支えられて主役の3人が輝くのだなと改めて感じる。

-そしてこれだけは事前に見るの避けていたのだが・・・・我慢できなくなって見てしまった。
ゲネプロの5分のサマリ動画です。
これを見るだけでも3人の役柄の変化も判ったし、これは音楽劇であることを改めて再認識しました。
そして、この劇の見せ場というのもここに詰まっていたのです。

-また、既に公演が始まって1週間経過していたので、TwitterなどのSNSからの情報もかなりアップされていた。
皆さん結構よい評価をしていたが、同時に内容が難しくてよく判らなかったという感想も多かったのは事実。この高度に昇華された超難解な小説を演劇にしたら一体どうなるのだろう。
そんなかんだでかなり事前のインプットをしていたので、いやが上にも期待が高まった。


■そして35年ぶりに下北沢へ
-大学時代にはよく行っていた下北沢。友人との飲み会、中古レコード探し、そして自身のバンド活動でライブもやった所でもある。
何と35年ぶりに下北沢に降り立った。記憶を頼りに当時の名前で「かたりてい」というライブハウスを探したが発見できず。

-あのごちゃごちゃした街並みを健在であったが、駅前はだいぶ綺麗になっていた。
大学時代に演劇部だった友人の誘いでいわゆる「アングラ劇」を何度か見たことがあったものの本田劇場には入ったことはなかった。

-その後、自分は演劇よりは音楽の方にのめり込むんだので、あまり演劇には行けていない。
その後は劇団四季の超有名な公演や地方に来るファミリー向けの演劇は何度か足を運んだ程度。
演劇の見方も素人同然なので、恐る恐る本田劇場に入ると今回の席はほぼ正面やや左2列目、本当にすぐそこに演者の皆さんがいる感覚であった。


■のんさんの役者魂
-ファンであるのんさんは、その存在感、スター感はさすがでした。彼女が最初に一升瓶を抱えて出てくるシーンから拍手が起こった。彼女には人を惹きつける何かがあるのかなと思う。
また、のんさんを見て思ったのは、背の高さや手足の長さが舞台上での表現力に生かされていること。
それぞれの役と場面での表情の微妙な変化。スポットライトが当たっていない時でも一寸のスキもない集中力。
どんなシーンを切り取っても本当に輝いているという表現が当てはまる。
そして、男役もよく似合う。井上ユウスケのジャケットとメガネをまとった姿はとにかくかっこいい。

-あと、この劇は音楽劇なので、当然のんさんにも歌うシーンがある。こんなことを言うと叱られるかも知れないが、のんさんは決して歌が上手いというわけではない。
よくミュージカル女優が歌うシーンで発するクラシック系の発声はしていない。
しかし、ストレートに高い音域ものびやかに歌う独特のスタイルは、何故かのんさんの素直な気持ちが伝わってくるような気がする。
それは表現することや演技することの延長線上に自然に歌があるというイメージである。
これが彼女が唯一無二の表現者と言われるゆえんであろう。

-歌うシーンで楽しみにしていたのはもう一つ。
のんやろがチャンネルで、盟友ひぐちけいさんと選んだギブソンのギターでの弾き語りの場面。
自身でギターを弾きながら歌う場面を作ってくれたえりさんのおかげなのだが、
サーカス団の一員としてコスチュームを着て歌う姿は何とも凛々しい。
ギブソンは良く鳴るギターでした。

-猫のたまのシーン、これ、自分の目の前、ほんの3メートル位前で拝見することができた。
そのまま直視することがはばかれるような、見てはいけないものを見てしまったような、異次元の愛おしさだった。

-最後のクライマックスの1つに、のんさん演ずる井上ユウスケがキャロラインホプキンスに変身する場面がある。このシーン、ある意味のんさんの最大の見せ場の1つだったのだが、私が見た回はハプニングがあったようだった。それでものんさんは、表情には出さず、何事もなかったように乗り越えた。
もちろんご本人はかなり動揺していたとは思うが、生の演劇ならでは緊迫感と、流れを絶やさずに乗り越えていく姿が生の演劇の醍醐味にも思えた。


■音楽劇として
-音楽が好きなこともあるが、音楽劇は自分に合っているなと思う。会話劇だけでは自分は多分2時間は無理かもしれない。

-初演の時には歌わなかった小日向さんが、今回は最初の場面で歌ってくれた。初演では小日向さん1人が唄わなかったというのも面白い。まあ、小日向さんはそのひょうひょうとした自然な演技で我々を魅了してくれたので唄は他のメンバーに任せても全く問題ない。そして唄うのが全て女性であったのもこの音楽劇が柔らかい印象を与える要因の1つになっているのは間違いない。その中でも渡辺えりさんの歌、これは本当にすごい。見てる人を演劇の世界から一瞬にして歌の世界に引き込んでしまう。

-音楽劇にも色々あるが、今回の「私の恋人Beyond」は三枝伸太郎さんが舞台の脇でピアノを弾いてくれており生音の伴奏がすばらしい。そのピアノの伴奏が舞台進行の旗振り役になっていたのも面白い。

-楽曲は全部で12〜13曲あったが、作詞はすべて渡辺えりさん、作曲は三枝伸太郎さん。
「恋よ」や「翼をつけた猫」「あなたに恋してる」「ブルーカナリア」など1回聞いただけで印象に残る楽曲もあるのだが、初演DVDを見て、そして台本にある歌詞を見て、改めて素晴らしい楽曲の数々が蘇ってきた。

-音楽劇は、2度、3度見ると、楽曲がすっと体に入ってくるようになり、全く違う感覚を持てるように思う。
会話だけでなく楽曲の歌詞やメロディが重要なシーンの背景を浮かび上がらせ見ている人の感情を揺さぶる。これが音楽劇を何度も観る醍醐味だと思う。
特に自分はのんさんが歌う「恋よ」、えりさんが歌う「あなたに恋してる」は頭から離れない。

-4人の天使役の皆さんは、事前に紹介されていたので親近感があった。4人ともにダンスの切れがすばらしいし歌うシーンも安定感抜群でプロフェッショナル。
またあれだけ複雑な小道具の出し入れに不自然さを感じさせない4人の連携プレーも素晴らしい。


■自分なりの解釈
-とても深く重たいテーマを扱っている演劇ではあるが、渡辺えりさんは至る所にユーモアのエッセンスを散りばめていて、クスっと笑ってしまうシーンも沢山ある。
小日向さんはもちろん、のんさんもコメディアンとしてのベースをお持ちなのでえりさんの意図は3人の劇の中でうまくミックスされている。

-重厚壮大な原作の枠組みにある人類の3度の旅を頭に入れておくと多少の理解しやすいかも知れない。

-1人目の「私」であるクロマニョン人に代表されるアフリカを起源とする我々の直接の祖先の1度目の旅。
約10万年前から数万年の間に地球上のあらゆる所に広がっていったことを指すようだ。
諸々学説があるが当時は氷河期であり海面が現在より100メートル程下がっていたために、ロシアの北方から北米アラスカまでが陸続きだった時に渡ることができたり、東南アジアからオセアニアまでにも移動することができたのだという。
その間、既に各地で生存していた北京原人やジャワ原人、そして今回の劇でも出てくるネアンデルタール人とも共存した時期があったようだが、結果的に生き延びたのは我々の祖先であるホモ・サピエンスであったこと。これが1周目の人類行きどまりの旅。

-そして2度目の旅。
氷河期が終わり、海面が今と同じ状況となったために、各地に展開していたホモサピエンスは、それぞれの土地で独自の成長と発展を遂げる。中には世界の4大文明と呼ばれる中国やインド、イラク、エジプトなどの高度に発達した地域もあった。
そこに1400年代から始まった欧州各国を中心とした大航海時代が2度目の旅の始まりである。スペインやポルトガルが全世界を航海する中で、アメリカ大陸、オセアニア地域などを開拓。現地に住んでいた原住民を侵略していく時代である。私の恋人では、この時代の象徴としてタスマニア人の滅亡を取り上げている。
この2度めの旅の終わりの1つがナチスによるユダヤ人の虐殺であり、ナチスに殺されるハインリヒ-ケプラーが2人目の「私」である。そして広島長崎に投下された原子爆弾によりこの2度目の旅の終焉を迎える。
 

-そして令和の時代は3度目の旅が始まっている
そこに生きるのは3人目の「私」である井上ユウスケ。人類はこの3度めの旅で、一見平和に秩序を保ってきているように見えるが、ここ数年の出来事を見ると愕然とする。
2週目の旅とまた同じように国家の元首が覇権を争い、戦争を起こし、多くの弱者を死に至らしめている。人類は10万年前のクロマニョン人が生きる時代から、物質を「操作」する「術」は、原子爆弾を作ってしまうほどに学習しているのだが、その国家レベルの指導者となる人の思考はほとんど進化していないのは驚くべきことである。
いかに覇権を獲得するか、いかに世界の秩序をリードする人物になるか、そんなことのために何万人もの人を平気で殺害できてしまう、10万年前と何が成長しているのだろうか。我々ホモ・サピエンスはやはり他の動物と同じなのか?

-私の恋人とは何か?
この問いに対する答えは、この原作本、この演劇の重要なメッセージなので、ガイドブックにも書かれていることではあるが自分自身の言葉で書き出しておくべきだと思っている。
こえは、「人類の平和への願い」、さらにもっと抽象化すると「人類の自由や希望の光」であると自分は考えている。
時には純少女のように、または熱烈な女性のように、時に堕落した女のように、その姿を変えているということも当てはまるように思う。
1周目と2周目の2人はともに34歳という年齢で死去している。「私の恋人」を追い求めた結果だと。それは時の覇権者に対し、「自由や希望」を熱烈に求めた結果、多くの若者が命を失っていることの象徴であるのかも知れない。それでも3周目の井上ユウスケは既に34歳を越えた。
未来の井上ユウスケはキャロラインホプキンスに変わり、過去の自分に長生きしたければ「私の恋人」を追い求めてはいけない、その連鎖を断ち切るために来たのだという忠告を与えるのだが、井上ユウスケはそれを断固として拒否。
いつも未来から過去を軌道修正できる無数のサインがあるのに、人類はそれを整理して受け取れていないのだと言う。

-「私」こと井上ユウスケは、我々人類の遺伝子、DNAであるとも言える。
それは過去の人類の記憶を脈々と後世の人類に伝えるべくして、死んでもまた。生まれ変わってしまう。人類の行きどまりの旅はどんな形になるのかはわからないがこれからも続いていくだろう。そのたびに生まれ変わる「私」は「私の恋人」、そう「平和への願い」「自由や希望の光」を追い求める運命にある。
「あなたに恋している」の歌詞の中にも込められている思い、生まれてこなかった子供達の肉や思いも私たちの中にいるのである。

-そしてもうひとつ考えなければならないのは「トキオ」の存在である。
井上ユウスケの弟である「トキオ」は、いわゆるいじめに会っていて、そして家に引きこもり状態になっている。そして兄である井上ユウスケに憧れ、そして恨みを持っている。
トキオは自宅にあるお父さんが貯め込んでいる家財が邪魔だと言い「断捨離」しろと言い出す。父は、これはおじいちゃんの時代から引き継いだ大事な思い出であると断固反対。
彼の存在は、ある意味現代社会の闇の部分であり、弱者として社会からつまはじきにされている存在である。壮大な人類3度目の旅の中にあって、一見して超現実的なダメ人間である「トキオ」の存在が実は社会からの弱者への虐待を比喩しているようにも思えた。井上ユウスケが「明」のDNAを引き継いでいることとは反対に「暗」のDNAを引き継いでいるのかも知れない。そのような明暗が実際の人類全体のDNAの中に深く刻み込まれていることを表しているとも思えた。それに目を反らせてはいけないという暗示か。トキオにこれから救いがあるのかは判らなかった。


これらのことを忘れないで欲しい。 というメッセージが込められているのかと、自分なりの勝手な解釈でした。