「科学する心」











オーディオ関係のWebなんぞを見回したり、雑誌なんか読んでると、「なんじゃ、こりゃ?」と思うことが少なくありません。本質的な問題は、基本的な工学や物理学的な知識の不足以上に、「科学する」ということの意味を知らない方が多すぎるように思います。

私は、なにも「WE礼賛」や「JBL崇拝」の宗教話をしているわけではありません。
そういうのは論外としても、「大口径ウーハーはゆとりがある」だとか、「真空管でなければ出ない音」だとか言った、科学的な思考過程とは何かを知らない例が目に付くのです。

「科学する心」を、HP全体を貫くメインテーマとして掲げている Webmaster としては、この点を掘り下げておきたいと思います。


科学的な思考過程には、基本的なルールがあります。
このルールから逸脱したものは、一見して如何に科学的に見えても科学ではありません。
その「科学のルール」について説明します。

1.ポパーの検証理論

これは、現在の科学の最も基本的な考え方の一つです。先ず例をあげて、これを説明します。

アインシュタインの相対性理論は多くの観測により確認されています。特に有名なものは「水星の近日点移動」とか、「皆既日食での観測」等です。
これが意味することは、ニュートン力学が否定されたと言うことに他なりません。

しかし、だからと言って相対性理論が「完全に証明された」と考えてはいけません。科学的推論に基づく予言が確認されただけです。

当の否定されたニュートン力学は、100年以上に渡って確認されて来ました。しかし、たった一つの「反証」によって否定されました。

どういうことか解るでしょうか?

例えば、「犬は四本足である」という命題を考えてみましょう。
この一見して自明の命題は、今までに二本足の犬は居なかったというだけです。
だからと言って、絶対に将来現れないとは言えません。それがチベットの山奥で一匹でも見つかれば、この命題は否定されるのです。

これを、証明と反証の非対称性と言い、完全な証明というのは極めて困難ですが、反証は極めて容易です。
つまり、否定する事の方が簡単になっています。だから愚にもつかない仮説は、即座に否定できるのです。

今なお生き残っている物理学的な法則や仮説は、そうした厳しい生存競争を勝ち抜いてきたもので、疑似科学者が寝言を ほざいたぐらいで簡単に否定できるものでは無いのです。
 

では、相対性理論によって「否定された」ニュートン力学は、科学では無くなったのでしょうか?
「否」です。それは依然として科学的な理論です。いや、科学的な理論であったからこそ、例外を示すことで否定する事が出来たのです。

逆に、反証不可能なものはそもそも「科学的な理論」では無いのです。「言い逃れ」が出来ない様な「モデル」を作って、そのモデルが実際に正しいのか否かを検証する形で「確認」をするのが、科学的な検証作業なのですから。

これを「ポパーの検証理論」と言います。全ての科学理論が基本とする概念です。

例えば「××方式アンプは優れている」という仮説を提出したいのならば、それを使った優れたアンプを作るだけでは十分ではありません。まず明確で反証可能なモデルを作る必要があります。
科学に於ける「仮説」とは、モデルの提示なのです。
 

2.モデル化

日本ではしばしばお茶の間のテレビに出現する「超能力」を例に挙げてみましょう。

今の所、明らかにこれは科学たりえませんが、これは、べつに「うさん臭いから」ではありません
それ以前に、「超心理学者」などと科学者であるかのように自らを標榜する擬似科学者が、科学的なモデルを作成していないからです。

博物学的に超能力者のトピックを集積することは、「モデル化して仮説を立てる為の基礎データ」にはなるでしょうが、それをもって「科学的な超能力の確認」等と言うことは出来ません。
そのデータを元に、反証可能な(言い訳の出来ない)モデルを作り、検証可能な「科学的予言」が必要です。

「××方式のアンプ」でも同じです。「こういう点で、○○方式に比してこれぐらい優れた特性が期待できる」と言えるだけのモデルが必要です。

モデルはシンプルな物ほど優れています。世に言う「コペルニクス的転換」を考えてみましょう。
地動説は天動説に比してシンプルですが、しかし「マッハの原理」に於いて言うなら両者は同等です。
それでも当時の科学者達が、教会の意向に反してまで地動説をとったのは、シンプルだからです。
同じ事を言うのに、よりシンプルに説明できるのであれば、面倒な理論は必要ありません。

但し、それは「科学的な意味でのシンプルさ」です。
極端な例で言えば、「妖精が作った」とか「神の意志」とか「霊能力」なんてモノは、簡単ではあっても科学的な意味でのシンプルさではありませんよね。

理論を記述する数式が複雑であるか否かは、科学的なシンプルさとは無関係です。
一般相対論の数式は、リーマン幾何学という非ユークリッド幾何学理論に基づくテンソル解析で記述されていますが、科学的にはシンプルな理論です。それで全ての観測結果が説明できたからです。

そして、数学は科学における世界共通の「言葉」です。「言葉」無くして解説は勿論、理解も出来ません。
 

3.アプリオリとアポステリオリ

博物学的な知識の集積がそれ自体では意味を成さない事を理解した上で、経験的には明らかに正しいと言えることが、科学的な意味では常に正しいとは限らない、という事も理解する必要があります。

例をあげると、先に示したニュートン力学の崩壊は、アプリオリにもアポステリオリにも正しいとされてきたユークリッド幾何学が、我々の宇宙を正確に描写するものではない事を示しています。
量子力学に至っては、我々の日常的な概念を完全に覆している、と言っても言い過ぎでは無いでしょう。

科学的な理論が、科学的である為には、自己矛盾無く原理から推論可能(ア・プリオリ)であるのは勿論ですが、今まで確認された理論や観測にも合致しくなくてなりません。

基本的に、相対性理論は lim(v/c)→ 0 の極限としてニュートン力学を含んでいます。だから、ニュートン力学で解説されてきたことが無に帰した訳では無いのです。それは実験と観測で確認されてきたものです。
つまり、相対性理論は「もっと正しかった」と言うことです。

ところで、今現在一般に「擬似科学」と称される、科学であるかのように見える分野があります。
そういう分野では、ここに記したような態度をとっていません。だから科学では無く「科学のようなもの:疑似科学」なのです。

これはまた日本だけの専売特許でもありません。実は大昔から、何処の国にでもあったのです。
実際、旧ソ連の科学者が擬似科学に言及している例すらあり、資本主義陣営の特権(?)だった訳でも無いようです。

擬似科学の特徴的な例としては

1.論理に自己矛盾がある
2.既存の理論の無理解
3.信頼できる実験ないしは観測結果の無視
等に該当するものです。他にも多くの特徴がありますが、詳しくはここを参照して下さい。
勿論、どれ一つに該当しようともそれは擬似科学です。

かつて、物理学者のパウリは、この種の擬似科学者を‘完全な新システムの設立者’と皮肉たっぷりに呼称しましたが、残念ながら自作オーディオ関係の記事やWEBには、こうした「新システム」に基づく仮説や解説をしばしば見かけることも事実です。

自作アンプならせめて、キルヒホッフやテブナンの定理に代表される、基本的な諸定理とか、トランス付きなら電磁場の方程式ぐらいは最低限度として理解した上で、これら基本理論に違反していない仮説を唱えて頂きたいものです。

もし解らないのなら、「解らない」と書いておけば、まだそれは身勝手な仮説や解説よりは数段マシです。
解らない事を「解らない」と言えない、或いは自分の間違いを「間違っていました」と言えないのは、プライドの高さに反比例した自信の無さの裏返し、なのかもしれません。

正しいのか間違っているのかは、科学と非科学の境界線にはなりえません。
逆に間違った仮説を示したけれども、偉大な足跡を残した科学者は沢山います。

アインシュタインが自ら「我が生涯で最大のヘマ」と言った一般相対論の「宇宙項」は、それをもってアインシュタインの功績を、些かたりとも傷つけはしません。
もしもアインシュタインが自ら‘間違い’を認めなかったら、傷つけたかも知れませんが。

知ったかぶって得をすることなど科学には無い、ってことですか。
 (これを読んでドキッとした人、直すなら今ですよ。^^;;;)

結局、科学と非科学の境界線を引くとしたら、科学的なルールに則っているのか、そうでないのか、でしょうね。
 

4.科学は 'Why?'を問うてはいない

最後に、これは解説と言うよりも、質問のやり方です。これは、常に絶対に駄目、という訳でもないのですが。

基本的な科学教育を受けていない人達は、しばしば(それも極めて安易に)「何故」という問いかけをします。
しかしこれは、まったく科学的な態度ではありません。実は科学は Why? を問うていないのです。
基本的に科学の諸説に対しては、安易に「何故」と問う前に、'How?'「如何にして」で考えて欲しいのです。

それこそ「何故?」と思うかもしれませんが、以下に示す例なら解りやすいでしょう。

原子は「何故」存在するか? これは、ナンセンスな問いです。
原子は「如何にして」存在するか? これは、科学的です。

光は「何故」一定速度で飛ぶのか? 「神の意志です」とでも言えば、宗教家は喜ぶでしょうね。
光は「如何に」一定速度で飛ぶのか? 相対性理論が生まれた基礎です。

リンゴは「何故」落ちるのか? 「子孫を増やすため」に決まっています。
リンゴは「如何に」落ちるのか? ニュートンはここから考えました。

安易な目的論に流れないためには、安易に「何故」と言ってはいけない、ということです。
「何故」という言葉は、科学を非科学にしてしまう危険を秘めていることを認識しておいて下さい。

最近、雑誌で見かけた傑作を一つ紹介しましょう。
「昔の300Bアンプが何故音質が良いかというと、金属にカドミュームが含まれるために金属の組成が良いからだ」
っていうのがありました。
即座に高笑い出来なかった人は、上の4つのルールをもう一度良く読んで下さい。
 


これらの科学のルールは、たかだか趣味のオーディオにはヘビーに過ぎるよ、と思われたでしょう。

私もそう思います(爆笑 ^0^;;)。

自分で考え、自分なりに納得できたことを、自分で楽しむ分には、何の問題もありません。
あるいは、「こんなやり方も楽しめますよ」なんてアピールは、大人の遊びにおける大人の主張でしょう。

それをとやかく言う程、私は子供では無いつもりです。(^^ゞ;;
私自身だって、それぐらいのアピールをしてもバチは当たらないでしょう?

でも、自分なりの仮説なり、解説なり、理論なりを公に示したいのなら、上の四つは必ず守るべき項目であるのも事実なのです。そうでなければ、オーディオほど簡単に「疑似科学」に流れるものも他にないといって良いぐらいです。

一番最初に書いた例で言うと「大口径ウーハーはゆとりがある、と感じる/信じている」のなら、別に良いのですが、それが一般的事実であるかのように(それもクソまじめに ^^;;)書いてしまうのは、「実験事実の無視、既存理論の無視」に相当します。しかも、原理に基づくモデルすらありません。

さらに「ゆとりのない大口径ウーハー」が、もしあれば(多分、探せばあるでしょうが ^^;)、この命題は即座に否定されることになります。

不思議と、こんなことを平気で宣う人ほど、真面目にオーディオしている(自分では科学的と信じている?) ように、私には見えます。
「大人の余裕」が無いのが問題なのか、「科学する心」を持たないのが悪いのか・・・実は両方なのか?

要は、遊びとしての「楽しみ方」ならそれはそれで良いわけですが、でもそこに多少なりとも説得力を持たそうとして、科学の「ふりをする」のは止めておいた方が身のためですよ、と言う事。
科学じゃないのに、科学のふりをしたものを「疑似科学」と言うのですから。

それでも、「そんなものに目くじらを立てる必要が何処にある?やりたいようにやれば良いではないか。」と思われるかも知れませんね。
大きな書店に行けば、これが いかに重大な問題かが解ります。

物理学関係の書籍の棚に行って見て下さい。ちゃんとした物理学の啓蒙書や解説書と共に、窪×某やら、某G教授やらの疑似科学本(疑似科学的な相対論の否定本)が並んでいます。さすがに、この破廉恥な現象は日本だけです。

特に学生などの若い世代が、こうした書籍(それも著名出版社から出ています)を見て、「ここにウソの書いた本が置いてある」と解るでしょうか?
無限の可能性を秘めた若い世代が、疑似科学本に騙されるのを、見過ごしに出来ますか?

才能ある学生が科学に興味を持ち、相対論について知りたいと思ったときに、「相対論は間違いなんだ」と信じてしまったら、日本の未来にとっても、不幸なことです。

オーディオだって同じ事でしょう。

「直熱管のトランス結合は味がある。オーディオは哀愁とエナジー」なんて大正ロマンの本を読んで、まさか科学だと思う人も居ないでしょうから、そういう「大人の遊び」を前面に出しているのなら問題は無いのです。
星占いや、ノストラダムスの予言が、科学と無関係なのと同じ事です。

そういう遊びや半ば宗教じみた話よりも、むしろ一見「科学のように」見える疑似科学こそが、実は大きな社会問題を含んでいるのです。

一見科学的に見える「疑似科学」には、普通の人は簡単に騙される、と私は感じています。
これからのオーディオライフを、ゆとりを持って楽しむために、あるいはトンデモに騙されないためだけにでも、ここに書いたことを自分なりに咀嚼して頂けたなら、私としてはこの上ない喜びです。

駄文の御精読、感謝に堪えません。

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26/Feb/2001  
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