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前号は「次号は変わったことが好きだった母のことを・・・」で終わったけれど、はてさて、と頭を抱えている。『変わったことが好きだった』という表現が適切ではなかったと後悔している。 母はとても教育熱心な人だった、と娘の私は思っている。教育熱心といえば聞こえはいいが、「新し物好き」で何にでも興味を持つ人だった。特に長女の私の育児教育には、いろんな本を読んではいろんなことを「試して」いた。そんな母と私を見ていて、後に妹達は「お姉ちゃんばっかり大切にしとったよなぁ」と文句を言っている。でも私に試して、学習し、反省して妹達は育てられたのだから、考えてみれば母に「いじくりまわされた」私こそ・・・・と文句をいいたいところだが、私は母に感謝している。母があの本、この本といろいろ勉強し、どれが良いか定まらぬ まま私に接してくれたお蔭で、私もまた新し物好きで何にでも興味を持ち、順応できる人間になれたのだから。 母との思い出の中でも、妹達と会えば必ず話題になる「とっておきの」がある。私と妹達とは3歳と5歳、それぞれ離れている。私が小学3,4年生のころ下の妹はまだ保育園児だった。ピーピーとよく泣く子で、私はしょっちゅう抓ったり叩いたりしては泣かしていた。そのたび妹は「おかあちゃん、真里姉ちゃんが・・」と泣き喚いていた。そんな時、母は決して私を怒らなかった。「お姉ちゃんなのに・・・いけない子だよ」とも言わなかった。むしろ妹に言い聞かせていた。「お姉ちゃんはね、あんたが憎くて打ったんじゃないんよ。あんたが可愛くて可愛くてしかたがないからなんよ」と。そのとき私は単純に、怒られなくてラッキー、位 にしか思わなかったけど、大人になり、親になるほどの年齢になって、母に育てられてよかったと感謝している。今思うと、あの頃の私は母が言うように確かに「憎くて妹を打ったんじゃ」なかった。だから、もしも母に「小さい子を叩いてばっかりして、お姉ちゃんなのに」と怒られていたら・・・・私はいぢけて、ぐれて、非行少女になっていたかもしれない。母はちゃんと長女の私の心を見抜いていてくれていたのだ。成長するにつれ、私も母の気持ちを察するようになり、妹をいじめる回数も減っていった。 |
| 母はとても聞き上手な人だった、と娘の私は思っている。母のところにはいろんな人がよく話しに来ていた。親戚の人達、近所の人、知合いの若い娘さん達が相談や話を聞いてもらいに来ていた。そんな時、母は通り一遍の、言葉だけの受け答えはしていなかった。よーく話に耳を傾けて、自分の考えできちんと答えていた。と断言できる。なぜなら私は未成年者なのに大人の話を傍でじーっと聴いていたことが多かったのだ。私が大学生の頃、夏休みとかで帰省して母から聞かされたことなのだが、母のすごい一面を知ってしまった。母の従姉妹の娘(私より2歳上)さんに好きな人ができ、結婚しようかどうしようか迷っている、と母は相談された。母は「何を迷うことがあるん?」と尋ねると、「彼は広島の原爆被爆者2世で、結婚しても子供を産めるかどうか」と悩んでいるとのこと。すると母は言ったらしい。「だったら子供は作らなきゃいいじゃない」と。「子供がなくても夫婦二人の生活を充実させればいいんじゃないの」と。結局、娘さんは他の男性と結婚した。恐らく娘さんは、迷っていて相談したのだろうが、「やめた方がいい」そう言ってもらいたかったのだろう。母は納得出来ず、「真里ちゃんはどう思う?」と私に訊いた。自由を求め、大学生として東京で一人暮らしをしている若者の私だったが、母の大胆な考えには圧倒された。残念ながら私はなんと答えたか憶えていない。今なら勿論「お母さんの言うとおりだよ」と私は言うだろう。もしかしたら娘さんの所に直接話しに行くかもしれない。後にこの話について母に再確認したかったけど、叶わぬこととなってしまった。でもその後、私が、結婚式を挙げずに結婚する、子供はどうしようか悩んだときも、そんな考えの母だからきっと理解してもらえる、と何でも正直に話が出来たのだと私は母に感謝している。
母は「他人と同じ事をする」のを望まなかった。「同じことをしても結果も似たようなものだから、つまらないじゃない」ということ。人より変わったことや突飛なことをしたときはとても喜んで褒めてくれた。 だから、20年前、東京から小川村に移り住んだことを知ったら、母はどんな風に喜んでくれただろうか。きっと「真里ちゃんらしいよ」って褒めてくれたに違いない。残念ながら母はその前の年に亡くなってしまった。 次号は、母から少し離れてみよう。つづく |
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