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| 私達夫婦が小川村へ引っ越してきたのは、20年前の3月20日でした。その年は「56豪雪」とよばれた年で、雪解けの頃とはいえ、住まいとなる元保育所の庭にはまだ沢山の雪が残っており、雪を踏みしめながら荷物を運び入れました。そんなことを思い出しながら同時に、小川村に引っ越すまで暮らしていた東京での15年、生まれ育った岡山での18年、アレコレ思い出しています。と言いますのも昨年末、実家の父が82歳で亡くなり、21年前に実母が57歳で亡くなり、又、28年前には私が生まれ育った家を火事で失っており、私自身を育んでくれた「拠りどころ」が無くなってしまったという思いが強くなりました。ささやかですが、初めての自分探しの旅に出てみようと決めました。目的地も地図も日程もなく、風の吹くまま気の向くままの旅ですが、楽しみながら続けて行けたらいいなと思います。 旅に出る前、旅支度を整えながら、私にはしておかなくてはいけない気がかりなことが一つあります。それは亡くなった母に対して、取り返しのつかぬ ほどひどいことをしたこと、を心の底から申し訳ないと手を合わせ謝ることです。 |
| 1979年6月初め、その頃、大阪の箕面市に住んでいた妹の由利子から「今、岡山に帰っているんじゃけど、実はお母さんが大変なんじゃ」「大変て?」「病気なんよ」「何の?」「乳がんじゃと思う」「病院には行ったん?」「ううん、まだ」。当時、母は父と二人で暮らしており、まだ56歳だった母の健康管理は、母本人がするもの、しているものと思っていた。 私の仕事は、或る出版社で漢和辞典を作るための資料集めの嘱託という気軽さと、家族は夫だけという身軽さもあって、ともかくすぐに実家へ帰った。母は吃驚して「帰ってくれたん?」しか言わなかったけど、私はもっと吃驚した。もともと小太りの体なのでやつれては見えなかったが、咳は止まらず、右腕はパンパンにむくみ、右の乳房にはこぶしの大の潰瘍、とても正視できなかった。とりあえず祖父の頃からお世話になっている病院に連れて行き、診てもらった。医者も驚くほどの状態だった。「どうしてこんなになるまで…」言われると、いくら遠くにいるからとはいえ、娘の至らなさを叱責されているようで心苦しかった。母は半年前からしこりに気づいていたらしいが、病院へ行くのが恐ろしく、あれよあれよという間にリンパ腺、全身が蝕まれていったのだ。直ぐ大学病院に入院の手続きをした。その日から、母にとっては辛く苦しい闘病生活だが、嫁いだ三人の娘達と過ごした1年1ヶ月は…どうだったのか、今となってはもう尋ねる事もできない。 |
| 「母、病気」の知らせを受ける2か月前の4月1日、エープリルフールの日。母が病気で悩み苦しんでいるなんて思いもよらなかった私は、どんな経緯か忘れてしまったが、驚かそうと思って勉さんの仕事場に「岡山のお母さんが病気だって、帰ってくる」と電話をしてしまったのだ。そのことをわざわざ母にも、「勉さんにこんな嘘をついたので…」なんて電話した。何故でこんなひどい嘘をついたのか、哀しいことに私は憶えていない。毎日毎日、がん細胞に冒されていく体をみつめ、恐怖におののいていただろう母はどんな思いで不孝な娘の「とんでもない嘘の話」を聴いたのだろうか。思い出せばあの時の電話の母の声は弱く、淋しげだった。私はこのことを思い出しては後悔の念で一杯になり、いつも身震いする。その時、本当に岡山へ帰っていれば… もうすぐ母が亡くなった歳と同じ歳になります。なくなってから毎年、私の歳と同じ歳、母はどんな生活だったっけ、と私と母を重ね合わせて見ています。 自分探しの旅は、多分、母との思い出がほとんどだろうと思いますが、これから出発します。さて、先ず何処へ、行きましょうか。 つづく |
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