こんにちわ。 ご無沙汰しています。
ビオトープのHPを開くたびに、我ながらいつもいつも背筋が凍る思いでした。
いつになったら「真里子の部屋」は更新されるんだろう。
多くの方はきっと諦め、忘れてしまっておられるのでしょうねえ。

長野県農業改良協会月刊誌「農業と生活」(毎月26日頃発行)の11月号掲載「ひだまりに」のエッセイです。これから一年間続きますが、私のは2月号、5月号、8月号、11月号に載ります。

年だもの最期だわねとまたハワイ(第4回目・2005年11月号 小川村・丸田真里子)
 歳は謎?にしておきたかったのですが、私は十一月で五十八歳になります。五十七歳で亡くなった母を思うと特別に感ずるものがあります。母が亡くなってから二十五年、私は誕生日を迎えるたびに、母がこの歳には娘の私は○歳で母にはこんなことがあったよなと私自身の「今」とを重ね合わせ、母の決して長くはなかった人生を偲ぶのが何時しか独りだけの密かな楽しみにもなっていました。
 それに加えて母と同じ大正十二年生まれの方にお会いした時、胸に込み上げるものがあります。愛おしさ、懐かしさはもちろんだけど、私のお母さんは一体どんなおばあちゃんになっているのかな、という楽しい?想像です。親不孝な三人の娘達にいつまでも振り回されて・・・いやいや辛い日々をものともせず・・・そうそうしたたかなおばあちゃんになってるな、ウンウン、きっと。
 そんな折、イイものを見つけました。今年で五回目のシルバー川柳(全国有料ホーム協会主催)です。題名の川柳は今年の入選作二十句の中の一つ、作者は福岡県、五四歳・女性。ウフッ、解るわ、よーく解る、オバサン像がよく表されてると一人で拍手してしまいました。第一回目からの入選作のどれもこれも、長い年月をかけて顔に刻んだしわの如き奥深い味わい、小気味良いリズム感溢れる言葉遣い。是非とも多くの方たちに密かにほくそえんでもらいたいと思い、いくつか紹介します。

共白髪まっぴらゴメンと妻茶髪
あれはそこそれはあそこにちゃんとある
病歴はなしで話の輪を外れ

 先日、民宿に泊まられた五十歳の女性からこんな話をお聞きしました。「私の夫の母はこの前老衰で亡くなったんですよ。体調が優れなくなって一週間目、すーっと。一週間で少しずつ死ぬ準備をしたんでしょうかねぇ。苦しみなく消えるように。それを見て、ああ自分もこういう風に死んでいきたいな、夫も子供たちも老衰で死なせたいなと思ったんですよ」
 いま老衰で最期を迎えることが如何に困難か、でも次世代、次々世代の人たちには長生きをし、老衰で消えるような最期を迎えることが当然のことになっていて欲しいと願います。
 この十一月、私は母が踏み入れることが出来なかった「歳」へ一歩を踏み出します。最も身近なおばあちゃんの見本像はないけど、シルバー川柳のように皮肉・嫌味の一つや二つもひねり出し、しぶとく図太く、かつ「まぁ可愛いおばあちゃんね」ともいわれながら、出来るものなら母の二倍は生きてやろうじゃないかと意気込んでいますが、今の正直な気持ちは「親孝行したい時に親はなし」でしょうか。いえいえ、したたかな娘はやはり、

来てやった貰ってやったで五十年
老木は枯れたふりして新芽出し
逝く日まで恋をする気の紅を買う

 

信濃毎日新聞11月10日付「やまなみ通信」の掲載

世界で一つの醤油(信濃毎日新聞11月10日付「やまなみ通信」 小川村・丸田真里子)
 「これがMさんの造った醤油(しょうゆ)?自分の家で造れるの」
 一九八一年に家族で東京から上水内郡小川村に移り住んで十年目。私は手造り醤油に出合った。
 移住の理由の一つに「生産者の見える食材を食卓に並べたい」があった。その後、村に慣れ、仲間もでき、野菜やみそも教わりながら夫婦で造るようになっていた。
 初めて口にした手造り醤油は、おいしいとか、香りがどうとかを超えていた。防腐剤など添加物が入っていない、体に良い、醤油もみそも自家製なんてうれしい。で、即、「私も造りたい」と仲間に入れてもらった。
 当時、手造り醤油は信州新町在住で八十歳すぎの萩原忠重さんが指導。同町や小川村、牟礼・三水村(現飯綱町)などのお母さんたちがそれぞれ造っていた。
 醤油造り初めての春、萩原さんから受け取った「こうじ」(粉砕脱脂大豆と麦こうじの混合)の重さと、ほんわかした温かさは今も忘れない。私は萩原さんの言われるままに管理した、いや、したつもりだ。風の時も雨の時も、何よりも最初にこうじおけを心配した。萩原さんの「醤油は生きているんですよ」の言葉を思い出しながら迎えた搾りの時。仲間数人とそれぞれ持ち寄った「もろみ」を見比べながら共同作業。初めて口にした搾りたてのわが家の醤油。「おいしい」「手前みそならぬ手前醤油だね」と仲間と笑い合った。萩原さんから「醤油でね、その人の性格や暮しぶりが分かるんだわね」と言われた。半世紀以上も、より良い醤油を目指して心血を注がれた萩原さんだが、五年前に九十一歳で亡くなられた。その技術や思いをこれからも受け継いでいこうと、「手造り醤油の仲間たちの会」の会員二百余人を軸に情報を交換し合い、そこから仲間の輪もまたどんどん広がっている。
 眺望と日当たりが最良の場所に置かれたわが家の仕込みおけ。今、もろみがいいにおいを漂わせて、一カ月後の搾りの時を待っている。十五年たって思う一番のことは「仲間でワイワイ言いながらの共同作業がいいな」ということだ。

 

長野県農業改良協会月刊誌「農業と生活」(毎月26日頃発行)の8月号掲載「ひだまりに」のエッセイです。「ひだまり」というリレーエッセイのコーナーです。これから一年間続きますが、私のは2月号、5月号、8月号、11月号に載ります。

手前味噌作り、楽しみは宴会?(第3回目・2005年8月号 小川村・丸田真里子)
 「確か桜が満開だったよね、昨年は」「うん、終わって、宴会は桜の花の下だったもんね」「なのに今年は・・・」八〇kg(昨年は一四〇kg)の大豆を洗いながら、四月中旬になっても肌寒く、桜は蕾もつけていないという異常気象を嘆き心配しながら、今年の「私たち」の味噌作りは始まりました。大豆洗いに続いて、大釜四台、豆潰し器などを運び、テントの設営を始める頃になると「豆煮には誰と誰が来れる?」「こうじは注文してるよね」「塩は?」「仕込みは全員で何人?」毎年同じことを確認し合って、味噌作りのイベントは次第に熱気を帯びて来るのです。
 そして翌日の夜。四台の大釜の下で薪が燃え始め、湯気が出、豆の煮える良い匂いがしてくると気持ちは更に高まり、燃え盛る炎を眺め、夜はふけ、話はどんどん弾みます。特に今年は女性五人だけでの豆煮でしたから、話題は・・姦しいったら・・・想像がつきますよね。
 わが家及び民宿で使用している味噌を仲間たちで作り初めてほぼ二十年になります。二十年を振り返れば様々の多くの出来事がありましたが、試行錯誤しながら現在の状況に落ち着いたのは十年前。民宿・ビオトープを始めてからです。現在の仲間は小川村のOさん夫婦、神奈川県藤沢から参加のHさん夫婦(自営で鍼灸師をされています)、長野市のUさん夫婦と私たち夫婦の熟年四夫婦。そこに毎年幾人かの方が加わり、毎年参加という飛び入りの方もいます。 
 いよいよ味噌作りもメインである仕込の日(毎年四月第三日曜日)となると人数は増え、会場であるビオトープの駐車場では早朝からたくさんの声が往き合います。ビオトープご宿泊のお客様が参加される時もあり、総勢二十六人で捏ね合って仕込んだという年もありました。
 大豆は成就地区の仲間たち(明日の成就プロジェクト)で作っている中千成。塩は粉砕塩の天日塩。米こうじは信州新町の麹屋さんで作ってもらっています。大豆八〇kg、米こうじ七〇kg、塩三三・五kg、出来上がり総重量二九二・五kgの味噌を桶に移し替えて、今年も無事に終了しました。いえいえもう一つ重大な「作業」が。そうです、終了後の食事会、というより宴会。皆が持ち寄ったそれはそれはたくさんの美味しい料理で埋まった大きなテーブルを囲み、年に一度の仲間の再会をワイワイ、モグモグ、ガヤガヤと賑々しく時間を忘れて楽しみます。もしかしたら、この宴会を楽しむために毎年味噌作りをしているのかも知れません。皆きっと。いえ私だけかな。肝心の味噌のお味は?薪で大豆を煮て作っているんですもの、美味しくないわけがないじゃないですか。

 

長野県農業改良協会月刊誌「農業と生活」(毎月26日頃発行)の5月号「ひだまりに」掲載のエッセイです。これから一年間続きますが、私のは2月号、5月号、8月号、11月号に載ります。

太陽の恵み、自然の力(第2回目・2005年5月号 小川村・丸田真里子)
 「ことしゃーよーく降ったなえ」例年より降雪量が多かった信州の冬でしたが、空を見上げ大きく深呼吸し目を閉じると「何処かで春が・・・」ささやいているようにも感じる頃となり、いよいよ4月の声を聞けば、ほんのささやかな畑を作っている我が家でもアレもコレもしなくてはと心急かれる季節となります。
 わが家のアレもコレもの一つに醤油の仕込み作業があります。私が手造り醤油に出会ったのは十五年ほど前。ただし出会ったのは醤油だけでなく、萩原忠重さん(信州新町・当時八十歳)との出会いでもありました。「本物のお醤油は生きているのだわね」「醤油造りはお母さんとの共同作業だね」「その人の暮らしぶりがお醤油に表れるんだね」「太陽は万人に等しいもの。その恵みを醤油に・・・」五十年間ひたすら醤油造りに心血を注がれ、短歌を読み、二百余名のお母さんたちと一緒に醤油を造り、そんな暮しをこよなく愛し大切にされた萩原さんの元で私も醤油造りを楽しんできました。 
 毎年春になると脱脂・丸大豆に麦麹が混ぜ合わさった「コウジ」が届けられ、水と塩を加えて桶に仕込みます。庭に広げたブルーシートに届けられたコウジを広げ、固まっている麦麹をほぐしながら大豆に静かにもみこんで馴染ませます。そして塩を加え「今年こそは・・・誰にも負けない・・素晴らしい・・マイ醤油を」などブツブツと祈るような気持ちで静かに優しく満遍なく混ぜ合わせ、桶に移し水を少しずつ注ぎ込み、最後に桶に手を入れて水を染み渡らせるようにかきまぜ、桶の口を布で覆います。その桶をわが家の醤油専用の二畳半ほどのビニールハウス〜日当たり、眺望抜群の超特等席に造られた〜の中に優しく静かに収めて仕込み作業は終りです。
 桶に仕込まれた「コウジ」はこのビニールハウスの中で春、夏、秋を過ごし「もろみ」に変身し、晩秋の搾りの季節を迎えます。その時までにコウジの様子を観察し、毎月天地返しをし、カビないよう、虫などが混入しないようなどの管理をします。コウジの状態が少し落ち着く初夏の頃になると日中のビニールハウスの中の温度は急激に高くなり、降り注ぐ太陽の光も次第に強くなってきます。
 コウジはビニールハウスの中で太陽の光や熱を一杯に浴びながら、青い空、曇り空、舞い散ってくる桜や林檎の花びら、雨音、風の音、雷、大風、バッタやてんとう虫など、野の草花、猫や犬や鳥たちの鳴き声、満月、三日月、新月、たくさんの星星、色づいた葉っぱなどからもエキスを頂きながら日々を過ごします。人間の力の到底及ばない自然の力の中でわが家の醤油は毎年造られているのです。天候により毎年異なる風味のお醤油。仲間それぞれに異なるお醤油。その年の思い出も一緒に混ざっているお醤油。醤油造りは私の毎年の楽しみになっています。
 残念なことに萩原忠重さんは五年前の春四月に亡くなられました。病気で倒れられる直前まで搾っておられました。その後は萩原さんの思いをきちんと受け継いでいこうと「手造り醤油の仲間達の会」を存続させています。
 太陽の恵み、自然の力、作業は優しく静かに、をキーワードに。
 醤油の仕込みが終わると次のイベント味噌の仕込みが待っています。次回は味噌の話をしましょう。

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長野県農業改良協会月刊誌「農業と生活」(毎月26日頃発行)の2月号掲載「ひだまりに」のエッセイです。これから一年間続きますが、私のは2月号、5月号、8月号、11月号に載ります。

虹の彼方に(第1回目・2005年2月号 小川村・丸田真里子)
 昨年十二月初めの或る朝のこと。いつものように目覚め、いつもと同じように一日を始めた私でしたが、ふと見た西の空にいつもは見ない「或る物」を見てから、その日はいつもとはちょっと違うような一日となりました。
 私が住んでいる小川村は北アルプスの眺望が大変に美しい村で、特に我家がある成就(じょうじゅ)地区からの眺めは格別です。その北アルプスから空にかけてそれはそれは大きな大きな虹がかかっていたのです。ウーン、これぞまさにレインボーブリッジだ、一、二、三・・・七色ちゃんとある、としばし呆然と見とれてしまった私に、半世紀以上も生きて、今更虹の何処が珍しいんじゃ、と言う声が何処からか聞こえてきそうでした。が、その声をバーンと撥ね退け、一体この虹の橋は何処と何処を結んでいるんだろう、と目をこすりながらよーく観察することにしました。
 更に寒さをもエイヤーと撥ね退けて、じっくりと虹の観察を始めましたが、私の目や気持ちが留まったのは、朝日があたり輝き、ホカホカと温まり始めた眼前の山々と眼下に広がる集落と田畑でした。
 今見ているこの景色は私達が小川村に移り住んだ二十三年前とほとんど変わっていない、その時はそのように見えました。しかし、点在する家々一つ一つに目を留めながら、今そこに住んでいる人たちの家族や暮しを思うと、廃屋となって何年も経つ家、独り暮らしとなったお年よりの家、新しい家族が増え賑やかになった家など、それぞれに大きな変化があっただろうなと思いを巡らしました。二十三年も経つんだもの、と納得しながらも、農村の風景の変化には都会のそれには決してない「時間の流れ」「生命の営み」のような雄大なものが存在する事に気づきました。
 二十三年前、小川村に移り住んだ頃、多くの家が養蚕業を営んでいました。その頃、傾斜地のほとんどが桑畑で、季節になると桑を摘み、背中一杯に担いで運んでいた姿をよく見かけました。村の何もかも総てが珍しく感じていた私は、近所の養蚕農家に何度も足を運び、手伝い?をしたり、お茶や漬物をご馳走になりました。また養蚕に並んで酪農農家も村には多くあり、真っ先に親しくしていただいたのもが酪農業の仲間たちでした。今、養蚕農家は一軒もなく、酪農家も二、三軒のみとなりました。何よりも村の人口が少なくなりました。二十三年前は五千人余りいた村民も今は三千四百人位です。
 このように数字的に見れば何もかもマイナス方向に変化しているようにしか見えない村の営みですが、私には幾年も続きてきて、これからも幾年も刻々と続いていく時間の大きな流れを感じるのです。
 まだ消えずにある大きな虹の橋は馬曲地区からズッと上の稲丘地区の方に掛かっているように私には見えました。
 朝の虹のお蔭で、私はいつになく、ゆったりとした一日を過ごしたのです。


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 私達夫婦が東京から小川村に移り住んで来年の三月で二十二年になります。そして八年前から民宿「ふるさとハウス・ビオトープ」を営んでいます。副題の亡き二人とは私の母と夫の次姉のことです。二人とも私達が小川村に住む前の年に、奇しくも同じ乳癌で亡くなりましたが、二人は小川村で暮らし始めた私の大きな支えでした。今もそうです。特に当時長野市に住んでいた義姉は私達に小川村を紹介してくれた人ですから。

◆ローズ色
 小川村は北アルプスの眺望が美しい村です。民宿兼私たちの住居のある成就地区からの眺めも最高です。ホームページには「北アルプス展望日本一?」のタイトルをつけたほどです。今年は初雪が早く、カラマツの黄葉に雪を頂いた北アルプスを眺める経験をしました。冬が深まリゆくこれからの季節、真っ白な北アルプスは毎年、それはそれは素敵なプレゼントを届けてくれます。日の出前の青白い山々に少しずつ朝日にあたり、やがて白銀の山々がローズ色に染まる、あの一瞬です。「おぉー」と歓声をあげて宿泊のお客様たちと感動を分かち合う時、それは私の至福の時でもあります。(独り占めにしている時もあるんじゃない、と母の声が聞こえてきます。実は・・・)

◆風味
 小川村から友人達に出した引越しの通知に「生産者の見える食材を食卓に並べるような暮しを」と書きました。東京を脱出したのは、地に足のついた暮らしをしたいとの思いからでしたが、不安な気持も一杯でした。近所の人たちと仲良くやっていけるだろうか、何よりも心配でした。でも引越しの挨拶に周った時、近所のおばちゃんの「灯りが増えて嬉しいよ」の言葉は、嬉しくて今も忘れられません。その後もおばあちゃんは「蕎麦をこしらえたから」「野菜はいるか」「お茶のみにくるか」と村の暮らしに慣れない私を誘ってくださいました。。お蔭で村のおばあちゃんやおかあさんたちが作った野菜を分けていただいたり、一年もしないうちに、まさに生産者が見える、どころか生産者から直に手渡される食材を食卓に並べる喜びを味わうことが出来ました。それからわが家でも少しずつみようみまねで野菜を作り、人並のものを収獲できるようにもなりました。といっても畑を耕し、種をまき、苗を植え、管理するのは夫で、私は収獲をするだけの人ですが。また十五年前から味噌の、十年ほど前からは醤油の自家製も始めました。
 使いたい時にちょこちょこっと側の畑に行ってとって来る野菜、仲間達とワイワイガヤガヤと騒ぎながら造る味噌や醤油。それらは、その年の出来事や想い出が一緒に混ざった「わが家の風味」になっています。掘りたての大根と土の匂い。採りたてのキュウリに手前味噌をつけて食べる。豆腐に搾ったばかりの手前醤油をちょっと垂らして口に入れる。こんなひと時を民宿のお客様と共有する、などは村での暮しを始めたの私が当初予想もしなかった至福の時なのです。(そう?チョコレートを食べている時が幸せじゃなかった?と義姉の声がします。実は・・・)

◆ポカポカ
 わが家は民宿でも農村体験民宿といい、お客様に農業などを体験して農村の暮しを楽しんでいただくものです。農業体験の一つに「リンゴの木のオーナー制」があります。小川村成就地区はリンゴを栽培している家が多くあります。しかし手掛ける人たちが高齢化し、栽培作業は大変で辞めてしまう家が増え始めています。民宿をはじめた頃、リンゴの木を切ってしまう、そんな話を聞き、夫が「わが家で管理する」という話にまとまりました。といっても全くの素人の私達。そこで「オーナー制」をつくり、リンゴの木のオーナーを募集しました。オーナー制とは花摘みや摘果、収獲などの作業をオーナーがやり、剪定や消毒などの管理は農家の方がする、というものです。「花摘みの作業を思い出すとどんなに小さくても傷ついていてもいとおしいものだね」と収穫のときオーナーの方が話してくださるとほっとします。今年で六年目になるオーナー制ですが、現在は東京、神奈川、新潟、愛知、埼玉から二十三組の方が登録されていて、大小三十本の木のオーナーになっています。今年も先日オーナー全員の収穫も終りました。
 現在、冬に備えてやるべきことが山積み状態のわが家ですが、私はわが家の超特等席に我が身を委ね、りんごをかじりながら本を読んでいます。その超特等席とは、カラマツの集成材を使った天井が高いホールにある薪ストーブの前の椅子なのです。わが家の薪ストーブはりんごの木を燃やしています。薪ストーブの温かさはポカポカと足元から体中がじわっと温もるのです。この超特等席でお客様が心地良さそうに眠っておられる姿を見る時が私の至福の時でもあります。(お客様が、だって? 自分が眠ってるんじゃない?母と義姉が声をそろえて言っています。実は・・・)

◆闇
 わが家の周りには民家もなく、道路には街灯もなく夜になると真っ暗闇になります。都会からのお客様、特に小学生や中学生には真暗な闇が珍しいのでしょう、一緒に夜の散歩をする時があります。夏には見上げると天の川が横たわっています。突然、鳥の大きな鳴き声がしたり、かさっ、がさっと音がしたり、耳を澄まして、闇を歩くと様々な気配を感じます。漆黒の闇は人間の五感を研ぎ澄ましてくれます。ある人が「第六感は五感が正常であってこそ働くんだ」という言葉を思い出します。お客様との夜の散歩も私には至福の時です。(お客様との散歩もいいけど、ヒコ〜飼い犬〜ちゃんの散歩も忘れないでよ、とまたまた母と義姉が叫んでいます。実は・・・)

◆もしも・・・
 最近、もしあのまま東京で暮らしていたら私達は、私は今頃どんな暮しをしているだろうか、と時々思ってみます。でもどうしても具体的に思い描けません。
 そんな私に「逞しうなったわぁ。昔は家の事、何にもせなんだあんたが、味噌や醤油を作りょうんじゃからなぁ」と岡山弁の母の声が聞こえます。「真里ちゃん、私も一緒にりんごの花摘みがしたいわ」と三十代後半でなくなった義姉の優しい声も聞こえます。

※長野県農業改良協会が発行している「農業と生活」の新年号(2003年)に掲載

※バック・ナンバーを読む [ No.1 No.2 No.3

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