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プロフイール

プロフイール

         生まれた年  1940年  男 兼業農家の3男として生まれ、8人兄弟の真ん中、父が私の幼少の頃の若い時期(戦時中)に書き残した遺言状に
              よると、私と次兄は“兵隊に出す予定”になっている。(父自身も出兵を覚悟していた様子)
    住んでいる所 埼玉県狭山市
    とれた所    岐阜県飛騨の山中(平成17年2月高山市に編入) 高校卒業のとき白線流しをした。
        
             西暦2000年 満60歳でサラリーマンを定年退職しました。家族は妻と2人の子供がいますが、子供はそれぞれ独立して現在は 
             妻と2人でささやかに暮らしています。

        PHP社のシニア向け月刊誌『ほんとうの時代』(2002年12月号)にタイトル《ゆっくりと毎日を楽しく暮す知恵》で紹介されました。
        同じくPHP社の『ほんとうの時代』(2004年1月増刊号)にタイトル《定年後は生き方を変えてみる》で紹介されました。

    1、主な趣味へのきっかけ
         物作り.
             (1)、木工、 基本的には祖父が飛騨の匠の流れを汲む大工の棟梁をしていた関係で、子供の頃に祖父の作業場で仕事を見て
                      いたので物作りの面白さを感じるようになり、日曜大工が趣味になった。
             (2)、家庭菜園、28歳の時に現在の場所に家を新築してから周囲は農家が多くて当時は畑作地帯のため、子供たちに無農薬 
                     野菜を食べさせたいと言う妻の気持ちと、余暇の過ごし方を考えて農家から畑を50坪ほど借用し、昭和52年に始め 
                     た。
             (3)、そば打ち、そばが大好きで、定年後にたまたま地域でそば打ち教室を開いていたので受講して打ち始めた。

         自然とのふれあい
             幼少の頃は山と川が遊び場で近所の友達のリーダー的存在(ガキ大将)で、木の上に小屋を作ってターザンごっこをしたり、吊橋
              の上から川に飛び込んだりして夏場は殆ど河童で過ごした。高校2年の時、たまたま溺れて川底に沈んでいた子供を助けあげ、
              人工呼吸で蘇生させて県の公安委員会から表彰された。

             (1)、登山、幼少の頃、7歳年上の長兄が高校の山岳部に籍を置き、良く、北アルプスの槍ヶ岳、奥穂高、、ジャンダルム等の
                     白黒写真を四つ切に伸ばして部屋の壁に貼っていたのを見て刺激された。 
                      
                 思い出の登山、故郷を出てからたまたま帰郷するとき、石川県から白山に登って岐阜県側の飛騨白川に下って帰った。
                           又翌年には、長野県の上高地を経て涸沢から奥穂高に登り、飛騨側の白出沢を下って帰った。
                           両方とも、単独で4人用のテントとラジュース、寝袋、又当時はレトルト食品など無かったので重い食料と飯 
                           盒等を詰めた、幅の広い大きなリュックを背負って登った訳だが、若さと元気があったからだと思う。

             (2)、スキー、雪国でまだスキー場が少ない頃だったが、父が教員をしていて地域のスキー普及に尽力していたので、物心ついた
                      頃より兄、叔父等のお古のスキーを貰って滑っていた。
                      

                 思い出のスキー、幼少の頃より毎年近くのスキー場で県の新聞社主催によるスキー大会が開かれていて、この大会に、
                            中学生から少年の部として参加できたので大滑降に毎年参加したが、当時、リフトなどは無くて標高差  
                            500m程の出発点までスキーを履いて新雪を踏みながらコースを整備して登るのが常だった。腰に風呂
                            敷に包んだおにぎり、焼餅などを結びつけ、スキーにはシールを付けたり、荒縄を巻いたりして午前中
                            3〜4時間掛かって登り、そこを僅か7〜8分で滑り降りてしまう訳で、呆気ないという思いをいつも感じて
                            いた。このスキー場も現在ではリフトを3基乗り継いで当時の出発点まで僅か20分位で登ってしまう。

         写 真
             初めての撮影は中学校の修学旅行で、長兄が登山で使っていた一眼レフを借りて持参した。写した写真を叔父から譲り受けた
             引き伸ばし機で焼き付け、引き延ばしなどをして興味を持つ様になった。
             そんな私の影響を受けたのだろうか、将来自分の娘が大学の芸術学部写真学科で学ぶ事になる等とは予想だにしなかった。

         パソコン
             定年後の生活を充実させるためと、今までに撮った多くの写真を整理したり、これから撮影する写真の整理を念頭に始めた。
             パソコン操作、及びホームページ作成等全て独学。                                    

    2、私の健康管理
         (1)、飲料水への拘り 帰郷の都度、今飲んでいる水道水のまずさを痛感し、昭和60年頃より山奥に車で登って湧き水をタンクに汲ん
             で帰り、飲んでいたが、平成元年頃より、日常の飲料水は環境庁の指定した日本名水100選の内、埼玉県内ではただ1個所の
             日本水(やまと水)を一度に20litreタンク6個分ほどを汲んできて全ての飲食用に常用しています。又、国内を車で旅行する際に
             は必ず20litreタンクを持参し、各地の名水を汲んで帰って飲んでいます。
         (2)、無農薬野菜への拘り 昭和51年頃より妻と家庭菜園を始め、約50坪の畑に無農薬野菜をほぼ有機栽培で作り続けて現在に
             至り、年間を通して約30%位を自給しています。
         (3)、ウォーキング 昭和58年頃より毎日一万歩を目標に歩き続けてきました。きっかけは減量です。これが習慣になり、退職後も
             年間を通して雨降り以外は毎朝5時頃から約1時間のウォーキングを続けて来ましたが、2003年4月より3ヵ年間、嘱託公務員と
             して地域に奉仕することになり、この間外歩きが多かったために万歩計の数字は毎日12000〜15000に達していました。
             2006年4月からは再び毎日が日曜日の暮らしに戻り、何時までも趣味の山登りを続けたい気持ちから足の衰えをカバーする
             ために、毎日早朝散歩を含めて1万歩を目標に歩き続けています。しかし、寄る年波には勝てず77歳になった平成29年の11月
             半ばころからは冬時間として時間を早朝5時半頃からに変更しました。また春になったら元に戻します。
         
         (4)、その他、普段は不自由の無い生活をしているのだが、私は現在両耳が難聴で補聴器を付けてコミュニケーションを保っている。
            原因は36歳の夏に突然高熱になり、一晩床について翌朝起きたら、左耳に異常を感じ聞こえにくくなっていたので埼玉医科大学の
            耳鼻咽喉科に行き、診断してもらった結果突発性難聴と診断され、以来50歳を過ぎるまで左耳には補聴器を付けていたのだが、52
            歳になってから今度は右耳も聞こえづらくなり、こちらも突発性難聴という事で補聴器を付ける事とになった。普段のコミュニケーショ
            ンには問題なく対応しているが、ときには不便さを感じることもある。