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北九州・下関観光 その1

北九州大宰府

以前、勤めていたA市の埋蔵文化財で知り合い、それ以後仲良くしている友人K君に会いに、夫婦で北九州に行ってきました。K君は仕事の関係で、今は北九州にいます。彼が勤めているのは、文化財とは全く違う仕事です。もう少ししたら、仕事にケリをつけて関西に帰って来ると聞いていたので、彼がいる内に九州に!と言う事で、早速行ってきました。うちの旦那さんは、九州初上陸です。めずらしい!私は中学の修学旅行以来なので、かなり記憶が薄れてます。金曜日の夜に、I空港最終便で福岡に着いて、次の朝に西鉄の博多駅から待ち合わせの大宰府駅に。駅でT君と待ち合わせして、彼の車で二日間の北九州・下関観光をしました。三泊二日の短い旅でしたが車で案内してもらったので、短い時間でとてもスムーズに観光でき、感謝してます。この辺りの、観光案内に慣れているK君と一緒だったので、時間が有効的に使えましたよ。泊まった2箇所のホテルで、なぜかトイレが全て壊れていた事を除いては、文句ない旅でした♪

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<太宰府天満宮>

太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上に社殿を造営して、その神霊を御奉祀する神社で「学問の神」「至誠の神」として世の崇敬を集めています。 延喜3年(903)2月25日、菅公は謫居の地、南館(榎寺)において清らかな御生涯を終えられました。その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬りました。京より追従した、門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)は延喜5年ここに祠廟(しびょう)を創建、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に下って造営を進め、延喜19年に御社殿を建立しました。醍醐天皇は大いに菅公の生前の忠誠を追懐されて、延長元年(923)に本官を復されました。そして、一条天皇正暦4年(993)には正一位左大臣、更に太政大臣を贈られ、天満大自在天神(天神さま)と崇められました。その後、度重なる勅使の下向があり、22社に準ぜられました。大宰府天満宮明治4年、国幣小社に、同15年には官幣小社、同28年には官幣中社に社格を進められ、天神さまの聖廟(せいびょう)の地と称えられて年間700万余の参拝があり、日本全国より尊崇を集めています。

大宰府天満宮HP参照

太宰府は、遠の朝廷(みかど)と呼ばれ奈良〜平安時代に北九州に置かれた、平城京や平安京に次ぐ大きな都があった場所です。博多から西鉄で、大宰府駅に着く前の駅に五条駅というのがあったので、この辺りに条里がひかれていた事がわかりました。都があったのは知ってましたが、奈良や京都と同じ様に、まだ地名で残ってるんですね〜。発掘調査とかも盛んなんでしょうね。T君と無事に西鉄大宰府駅で会って、大宰府周辺を案内してもらいました。天満宮周辺はハングルと中国語だらけだったのには、びっくり。しかも、修学旅行とか団体で、わさっ〜とアジアからのお客さんが観光で歩いていました。皆辛子明太子のお土産を手にしてた!多分、日本人のほうが少ないような気がしました。こ〜ゆう人達って、神社に行って手とか合わせたりするんでしょうかね?天気が良かったので境内の緑が綺麗でしたよ。下の太鼓橋は過手前から過去・現在・未来を表していて、三世一念の仏教思想を表していると言われています。

参道の鳥居0太鼓橋。0本殿

1.延寿王院の門。こちらは慶応元年から約三年間朝廷を、追われた三条実美ら尊皇攘夷派の五卿が、ここに滞在した場所。その間、西郷隆盛・高杉晋作・坂本龍馬等の
勤王志士達が去来し、明治維新の策源地となった歴史的に、重要な場所です。2.境内の木。建物が後に建ったのでしょうね。。
3.道真さんを追って京都から飛んできた飛梅。「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
4.奉納された厄晴れ・厄除けのひょうたん。梅の下で酒を飲み交わすと、厄を逃れられると言う信仰だそうです。5.鷽(うそ)おみくじ。鷽の三白眼の目つきが可愛い!
6.「鷽」。平素私達が知らず知らずのうちに使う「嘘」を、天神さまの「まこと」に替えてもらうと言う事から古来より、天神さまゆかりの鳥になった。

太宰府天満宮の敷地内には九州国立博物館が隣接しています。

01.延寿王院の門02.境内の木。03.飛梅

4.厄晴れ・厄除けのひょうたん05.鷽(うそ)おみくじ06.鷽の像

<観世音寺>

観世音寺は『源氏物語』にも登場する、御母斉明天皇追悼のために天智天皇が建築を発願されたお寺。この事は続日本書紀に記されています。80余年の歳月をかけ、奈良時代に完成しました。当時は南大門・中門・五重塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵など、七堂伽藍を備え、九州の寺院の中心的存在で府の大寺と呼ばれていました。現在は、江戸時代に再建された講堂と金堂(県指定文化財)のニ堂が残っており、往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘(国宝)、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)も数多く残り、境内で見学することが出来ます。

【観世音寺リーフレット参照

門前0本堂

過去に“府の大寺”と言われていた立派なお寺は、今は古刹です。
宝物館を見るまでは、いまいち過去の栄華が伝わってこなかったのですが……。

1.国宝の梵鐘。今でも大晦日に鳴ってるそうです。ビックリなのは、国宝なのに現役だ!
この梵鐘は「都府狼樓纔看瓦色 観音寺唯聴鐘声」と菅公の詩に詠まれています。
2.講堂3.瓦、見た事ない変わった瓦でした。4.五重塔の礎石。5.天平石臼、ビッグサイズ。6.南大門の礎石。

1.国宝の梵鐘02.講堂03.瓦

04.五重塔の礎石05.天平石臼06.南大門の礎石

<大宰府政庁跡>

7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移しました。奈良・平安時代を通 して九州を治め、わが国の西の守り(防衛)と外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)としました。太宰府は南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があり、その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものです。万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて公園となっています。

 【大宰府展示館の説明文参照

0大宰府政庁跡0大宰府政庁跡0大宰府政庁跡0

↑今は何も無い芝生の公園。立派な礎石↓達が唯一、ここに大きな建物があった事を教えてくれます。
右端の写真は廻廊跡。
大宰府展示館があってミニュチュアで復元されています。おはぎの様な一番大きい礎石は、正門礎石です。

0礎石0礎石0礎石0廻廊の礎石

九州にはI空港から福岡空港で夜に上陸。
賑やかな博多の夜と、楽しかった黒崎の夜は、
こちら・・・。

 

北九州・下関観光 その2へ続く

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