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解剖探偵講座
ビル・ポミドア
翔田 朱美 訳
講談社文庫

『解剖探偵講座』 表紙


 
検屍もの、解剖もの、大好きです。なんででしょうかね。  
 
  たとえば目の前に本物の死体が横たわっていたら。しかもY字切開されて内臓が露出してたり、頭の皮が前後に剥がされて頭蓋骨上半分が無くて脳味噌丸出しだったりなんかしたら。かならず気絶する自信はあります。うーん、ぶくぶく・・・口から泡。
でも本は平気。スプラッタ映画とかもわりと平気。「これはフィクション」「つくりものやん」と思って、安心してめいっぱい楽しんでしまいます。
 
「硝子体液?」ホーマーは眉をよせた。いままでもキャルの検屍解剖の話でいくつかの専門用語は聞いたことがあったけれど、この用語は耳慣れなかった。「なんのこと?」
 キャルの説明を聞いて、法律家のでっかい顔がしわくちゃにゆがんだ。プラトーにむかって頭をふっている。
「ほんとに気味の悪いカミさんをもらったもんだね。人間の眼球から液体を吸いだすんだって。まるでホラー映画じゃないか」
 
 
  …という感じで、なんかいろんな専門用語が出てきて面白い!っていうのもあります。
さっきのY字切開
(胴部の皮膚をY字形に切り開くこと。アメリカではこれが一般的。日本の司法解剖では縦一直線に開く正中切開が多い)とか、硝子体液(眼球を満たす透明なゼラチン様物質。これを質量分析にかけると薬物・毒物が検出されたりする)とか、溢血点(粘膜などに現れる出血。たとえば、白眼に出た場合は頸部圧迫の可能性がある)とか、ルミノール反応(きれいに洗い流されて肉眼では見えない血痕でも、暗くしてルミノール試薬を噴霧すると青白く浮かび上がる)とか、まあふつうに暮らしていれば出会わない言葉ばっかり。
 
検屍官の活躍を読んでいると、非日常的な世界をちょこっと覗き見ることができて、知的好奇心がうずうずしてきます。人間のからだっておもしろそう・・・と。ちなみに、どっちかっていうと内臓系より骨系が好き。(だからアーロン・エルキンズの骨シリーズにハマるんですわ)  
 
  さて。『解剖探偵講座』は、若い医師夫妻、プラトー&キャル・マーリーが主人公です。
プラトーは、リバーサイド総合病院の老人病専門医。心優しく典型的なインドア派で、料理が得意。キャルは、リバーサイド総合病院の病理学主任。又、カヤホガ郡検屍官を務めながらシーゲル医科大で解剖学も教えています。こっちはテキパキ仕切り屋タイプ。
優柔不断で人につられやすいプラトーが、ちょっと強引で行動的なキャルにひっぱりまわされながらだんだん事件に深入りし、真相にせまってゆくお話なのです。
 
解剖学の追試におっこちそうな教え子4人にキャルが個人指導をしてやることになり、それをプラトーが無理矢理手伝わされそうになったのが、ことの発端。  
 
   くり返し、”わたしたち”という主語を妻が使うので、プラトーは心配になってきた。
「あのね、キャル。今夜は手伝うのもいいけど、これ一回かぎりだよ、わかってるね?ぼくは時間もないし、解剖のことはほとんど忘れているし、もともといちばん苦手な科目だったんだから」
「べつに天才じゃなくても、医学生の個人指導ぐらいできるわよ」キャルは腕組みをして、プラトーのことをにらみつけた。「いいよっていったじゃない。『お安いご用だ』って。先週はわたしたち、もっと外出する必要があるって、さんざんぼやいていたでしょ」
 
その昔、解剖学を3学期続けて落としたことのあるプラトー。抵抗を試みたものの、口のうまいキャルに説き伏せられてあえなく陥落、結局は手伝うことになります。ところが。
実習に使われた解剖用死体が、プラトーの元患者でシーゲル医科大薬理学研究者マリリンのものだと判明してびっくり。いくらお医者さんでも、解剖中の死体が知り合いのものだったと気づけば、やっぱり動揺しますよね。
 
 
  さらに、病死のはずだったマリリンの眼球結膜に点状出血がみられ(先述の「溢血点」ですね)、甲状軟骨(のどぼとけ)が潰れていたことから、他殺の疑いが浮上。モルグへ運んで、キャルが検屍解剖をやり直した結果、マリリンは薬物投与の上クッションを顔におしつけて殺害されたらしいことがわかります。犯人は内部の者としか考えられない状況でした。つまり、大学関係者のなかに残忍な殺人者がいるということに。
 
ホーマーはまじめな顔にもどり、頭のなかで何か考え事をしながらプラトーをじっと見つめた。「それなら個人的にもこの件にかかわりがあるというわけだ?」
「そうだな」彼は郡のモルグで運搬車の上からマリリン・エイベルが彼にウィンクしたような気がしたのを思い起こした。彼女の主治医として、プラトーはマリリンに対して最後に何かしてやれるかもしれないと思った。「そういうことになる」
 
 
  「手伝ってもらっていいかい?」
「ぜひそうしたいね」プラトーはガス台にかがみこみながら、ちらりとキャルのほうを見やった。キャルは驚いたような顔をしている。いつもなら、プラトーはキャルがあまり事件に首をつっこみ過ぎるのをいやがる。結局二人とも捜査にひきずりこまれてしまうからだ。だが、こんどにかぎっては、プラトーのほうが積極的だった。
「ぜひ応援させてもらいたい」
 
どうやら、普段は事件とあらばいっちょかみたがるキャルに厭々従うプラトーという図式らしい(本書の前後に邦訳されていない2冊があるみたい。読みたい!早く訳して!)のですが、珍しくプラトーが自発的に首を突っ込もうとしてます。  
 
  「マリリンはもう少しで重要な新発見に辿り着くところだった」という話もあり、新薬の特許権をめぐる争いに巻き込まれたのかもしれない。怪しい人物は何人かいるのですが決め手がなく、またマリリンの死で誰がどう得をすることになるのかもわからない。
 
探っていくうち、マリリンがミステリー小説本のカバーに隠していたフロッピーディスクを発見。入っていたのは「RECORD.FX!,」という名の謎のファイルです。マリリンのコンピュータにあるどのプログラムで試しても開くことができず、圧縮ファイルかもしれない、と自宅に持ち帰り解凍してみてもうまくいきません。危うくコンピュータを壊してしまうところでした。しかし、この頃にはプラトーはすっかり事件にはまり込んでいます。プラトーでなくても私も気になる!何だろうそのヘンな拡張子は??  
 
  でも、頭を使うのは得意でも、動くとなるとキャルに主導権をにぎられているプラトー。相変わらず鼻面をひきまわされております。冒頭で彼のひいた風邪がどんどん悪化してゆくさまは圧巻。絵に描いたような「医者の不養生」、見事です。
 
 しげしげとプラトーをながめ、ついでふっと口調をやわらげた。
「かわいそうに。鼻がステーキのつけ合わせの日干しトマトみたいにまっ赤だわ」
「ステーキのつけ合わせトマトになったみたいな感じだよ」と彼も同意した。「でっかくてぐしゃぐしゃに熟したやつが、日にあたりすぎたみたいな気分」
 
 
  しかーし同情したかと思ったら気が変わるのも早い。知人の医師に診察してもらうよう勧めていたくせに、何か探り出せそうな匂いがするや否や、態度がコロッと。
「たとえば、ジョナサン・エビングスを往診にいくとか。マリリンの兄さんだよ―覚えてる?週末にどっかから落っこちて、とても病院にこられそうにないんだ。だからきょう、往診してあげると約束してるんだよ」
「そうなの」キャルの瞳が好奇心できらりと光り、プラトーの風邪のことなんかどこ吹く風。「マリリンのことを話すつもりね」
 
「あなた、マリリンの主治医だったじゃないの」……彼女は夫ににじりよった。「それで十分正式に関与してることになるわ。だってホーマーが彼のかわりに調べてくれっていったでしょ、忘れたの?」  
なんとかして彼を探りに行かせようと、キャルはおどしたりすかしたりで大忙しです。
 
  「いいわ、朝食をもってきてあげる、シリアルと―」
「オムレツなんかいいな」プラトーがわざとらしくため息をつく。「ハムとチェダーチーズ入りの」
 いったん行きかけたキャルがわざわざベッドわきまで引き返し、プラトーの目の前に顔をつきだした。そのまなざしに不吉な感情の嵐がわき起こっていた。
「あんまりいい気になるんじゃないのよ、兄
(あん)ちゃん」
 もちろんプラトーはそんなつもりはない。
 
当然、この後プラトーはマリリンの兄のところへ。こういう調子で、個人指導のたびに引っ張り出されるわ、手がかりを握る人物に会えそうだからとスキーに連れて行かれるわ、ゆっくり寝込むヒマもありません。とはいえ、キャルの言いなりのように見えてじつはプラトーも結構マイペースだったりして。凸凹コンビぶりが楽しくて、最後まで快調に読み進むことができます。  
 
  ある時、風邪が治らないのはチリ(→チリコンカルネ:挽肉・赤いんげん豆・玉葱を、チリパウダー他のスパイスと完熟トマトで煮込んだもの)を作らなかったせいだ、と思いついたプラトーは、ふらつきながら料理なんぞ始めてしまいます。でもふっと気を抜くとバーナーから黄色い炎がメラメラしてたり(勿論幻覚です)犬と猫が言葉をしゃべり始めたりで、頭の中はカンペキ朦朧状態。調理もむちゃくちゃです。
 
「キャヴスは今年いっぱいもつかな?」プラトーが愛犬にたずねた。
 フォリーは何も答えない。
「ぼくもそうは思わないよ」とプラトーは安心したように答えた。彼はスパイスの棚を開け、クミン、レッドペッパー、ガーリック、パプリカ、ローズマリー、ブラックペッパー、それにシナモンをとりだした。少なくとも彼はシナモンだと思った。ラベルがよく読めなかったのだ。きょうはちょっとナツメグを入れてみようか。それにヴァニラとショウガも。プラトーは気前よくなっていた。
 
 
  ・・・そんなもん食べたら更に容態が悪化しそうである。
 
「プレイオフには勝つと思うかい?」
「怪我人続出だからね」ダンテが部屋の向こうから口をはさんだ。
 プラトーはぼんやりとうなずいた。ネコはいつもあんなふうに悲観的なんだ。ダンテは利口なネコだったが、つねに物事の悪い面ばかりを見るのである。
 ぐつぐつと煮える大鍋にスパイスをふりいれてから、プラトーはひどく気分が悪いことに気がついた。心の奥底では、最高に頭のいいネコだって完璧な文章をしゃべることはむずかしいとわかっていた。
 
 
  一応自覚はあるらしい。そして、さすがお医者さんだけあって、うちん中には薬がいーっぱい。ぞろぞろ出てきます。
 
 プラトーはよろよろとキッチンを横切って、薬棚のほうへ行った。ダイムタップを一錠、スダフェッズを二錠、タイレノールを二錠、アドヴィルを三錠。てのひらの色とりどりの錠剤の山を見て、まだこれでも足りないと思った。重砲をかまえてもいいころだ。抗生物質をぶちこむべきかもしれない。
 プラトーはアモキシシリンのカプセルをその薬の山に追加した。五百ミリグラムのでっかいやつをひとつ。まるで馬にのませるカプセルみたいに大きい。彼は用心深く咳をしたあと、こんなにたくさんの錠剤を飲みくだすのは無理かもしれないと思った。
 
 
  ……プラトーはブレンダーをすすいで、冷たいミルクセーキを作り、そこに錠剤を投げ入れて、飲みやすい小さなかけらや粒に砕かれていく音を聞いた。きれいな色彩がミルクセーキに混じりあって、プラトーはようやくブレンダーのスイッチを止めた。急いで試飲してみる。
「アモキシシリンがちょっと足りないな」彼はカプセルをもう二つばかり投げこんで、ブレンダーをふたたびまわした。とにかく効き目の強力なのがほしいのだ。
 
・・・。うげ。このあと彼は、なんと鍋の中にまでカプセルを放り込むのです。バニラにショウガにアモキシシリン入りのチリコンカルネ。読んでるだけで気分悪くなるぞ。。でもこれを食べたホーマー(検事補で、プラトーの従兄弟。電子レンジ食品のストックをきらすとやって来る)の感想は「いままでで最高の出来だ」。ほんまかいな。  
 
  こんな荒療治もきかず、無理を続けたプラトーの風邪はついに肺炎にまで至ります。しかも、チアノーゼ(血中の酸素不足で唇なんかが真っ青になる)状態でフラフラ、最悪のタイミングで犯人と対峙する羽目になるんですね。一方キャルはといえば、解剖学教室の冷蔵室に閉じ込められている。夫婦して絶体絶命。わおー。
 
(注:↓ちょっとネタばれ気味なので、本を読もうと思っているかたはここだけすっとばしてね)  
ま、ふたりとも助かったから3冊目が出ているわけで。ミノカサゴ(lionfish)のおかげです。
コイツ、食べたら美味しいらしいんですけどね、硬いうろこに覆われてて、ド派手なトゲには毒までもってる。刺されると、それはそれは痛いみたいです。でも自業自得ってもんでしょ。
 
  事件は無事解決、プラトーもやっと自宅の暖かいベッドでゆっくり療養しています。ミステリーやサスペンス、SF小説などを枕元に山積みして、チョコレートも各種とりそろえて。うーん、よかったね。キャルの看護も優しいみたいだし・・?
 
キャルとプラトーの夫婦漫才みたいなコミカルなやりとりにふきだしつつ、メディカルな世界をちょっぴり覗き見ることもできる、娯楽&医学ミステリー、ってとこでしょうか。むごい、えぐい、残酷な、陰惨な、、等々の描写なんかはまちがっても出てこないので、安心して楽しめます。
(そういうのはそういうので嫌いではなかったりもするんですが、また別の機会にでも…)
 
           
  最後に、ふたりのかけあいをどうぞ。
「バカね、坐骨神経から3インチも離れたところよ。あなたも解剖学をわかっていたら―」
「ああ、足までビリビリしてる。しびれちゃいそうだ」注射はいつ果てるとも知らず続いた。
「アホくさい」キャルは喜々としているようだ。「わたしは注射はうまいことになってるのよ、そうでしょ?」
「料理よりはね」2日前に退院してきてから、プラトーはずっとチリを食べさせられていた。
「でも料理ならがまんできるけどな。いてっ!」
仲のよろしいことで。
 
( 2001/2/25 )
 

『解剖探偵講座』 オビ

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