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小さな生活
津田 晴美
ちくま文庫

『小さな生活』 表紙

 
今回は、すこし毛色のちがったものをとりあげてみました。  
           
  まさに、春は出会いと別れの季節、なのだなあ。私の身近にも、新しい場所で新しい生活を始める人が何人かいます。今までも毎日会っていたわけではありませんが、これからは会いたくなってもそう簡単には会えない。となると、やっぱり淋しさがこみあげてくる。でも、遠く離れても、それぞれの場所でがんばってほしいなあ、と願う気持ちもあり、なかなかフクザツな春なのです。
 
そういう微妙な心境や時期にぴったりなのがこの本。これから新しい生活を始めようとする人にも、毎日変化のない生活に飽き飽き、とか思っている人にも、自分らしく心地よく「暮らす」ことの大事さ、そして楽しさを伝えてくれます。  
 
  "小さなことからこつこつと"ではありませんが、でっかい夢を抱くのならばその一歩はまず、身近なくらしを考えることからはじめましょう、と。いちばん基本的なのに、普段の生活の中でついなおざりにしがちな、ちょっとした、でも実はとても大切なことがらを思い出させてくれて、「よっしゃ、身のまわりの小さなことから始めてみよう!」とやる気まで出てきちゃう。
 
そういう、背中をぽんっと押してくれるような津田晴美さんの文章のなかで、お気に入りをいくつか抜き出してみようと思うのですが。どうしよう、やり始めたら止まらなくなって、非常に困ってます。まあいつものことだけど。  
 
   でも、眺める植物と自分の手で育てるものはまた違った意味合いがあるような気がする。引っ越して最初の春が来たときには、なにかしら新しい芽の出るものを育てたくなった。……
 その年の晩秋に横に長い、植え込み用の素焼きの鉢を二鉢買った。それぞれ一列に十個ほどの球根を埋めた。冬のあいだにたっぷりと栄養を蓄えて、春先には芽を出し、それから先は驚くほどの勢いで伸びて全部の株に小さな卵のようなつぼみをつけた。そのなかにうっすらと色を予感させる花弁が収納されているのが分かるようになると、子の成長を見守る母のように喜びもひとしおだ。

いいないいな、植物の生命力をいただいて元気になれそう。でもなぁ。私、枯らし名人なんだよな。右に出る者なし。うちに来る植物は必ず、気の毒な最期を迎えます……。
 
 土曜日は週に一度の家事の日。朝早く起きて屋上へ空の模様を眺めに行く。予報通り日本晴れの日はそんなことはしないのだが、天気の変わりやすい季節や、曇りのち雨、台風の日などはそうする。
 今、西にある雲はこれからやってくる。東にあるのは過ぎ去った雲。南の海側にあるのは風の強さと風向き次第ではこちらへ来るかも。高い雲なら心配なし、垂れ込めた雲は薄くても雨がぱらつくから甘く見ちゃいかん……と読む。
 

なぜか天気予報が大好き&苦手な家事の中で洗濯と布団干しだけは嬉々としてやる私としては、とても共感できるこのくだり。干す前に空を睨んであれこれ分析し結論を出す。いわばプチばくち。予想より日が翳るのが早かったるすると、負けた!と、ものすごくくやしいしね。
 
   洗いの順に屋上へ干しに行く。ロープにシーツやタオルをしわ伸ばししてぴんと張って木の洗濯ばさみで止める。干すときには色の組み合わせを楽しむ。空に透けるブルーの無地のとなりに紺のストライプできりっとまとめてデンマーク・スタイル。同じストライプでもグレイの細いのはフォーマルな感じ。あいだに白を差し込んでニューイングランド・スタイル。そうやって午前中のほとんどを屋上で過ごす。夕方取り込むときも屋上できっちりたたんでトレイに載せて、まだ太陽の匂いの残ったままをクローゼットへ仕舞う。

どこどこスタイル、とかではないけれど、私も、洗濯物の干し方には私なりのこだわりがあるのです。乾きやすくするためにはこういう順に並べて干す、とか、服の色によってハンガーの色を選ぶ、とか。干すスペースも、自分の服はこっち側ね、とかならず決まっていたり。でも、そのわりには晩に干したりするのはぜんぜん平気。へんなこだわり?
 
……なかでも「イート・ローカル」つまり自分の土地で取れたものを食べるという標語は言われてみれば当たり前だけど、もう一つの効用としてキッチンの革命につながる。
 野菜は新鮮なものを単純な調理法で、例えば網に載せてあぶったり茹でたり、オーブンで焼くとか、ことこと煮るだけ。
 出来合いのマヨネーズや甘ったるいソース類、複雑な調味料とかインスタントのスープやルーを冷蔵庫から追放する。酢の代わりにレモンを絞る。スパイスや基本的な調味料、例えば塩、醤油、味噌は質のいいのをそろえる。これだけでもキッチンは画期的にリストラできる。
 
 
   本格的なのは専門のレストランへ行って、存分に味わえばいい。その代わりいつもの食事にハーブやスパイスなどでエスニックな香りや雰囲気をプラスして楽しむ。冷蔵庫には新鮮な野菜。バスケットにはにんじん、じゃがいも、たまねぎ。窓辺にはハーブ。コンポートには季節の果物。茹でた野菜やスープは空き瓶に詰めて冷蔵庫へ。棚には飾りもかねてたくさんのスパイス類と自家製ピクルス。キッチンは春の畑のように生き生きしてくる。

こういう生活、憧れるな。体にもいいんだろうな。こんなふうにできたらそれに越したことはない。でも。インスタントものの、あのいかにも体に悪そう〜〜〜なチープな味、捨てられないんだよな。時々無性に食べたくなるんだよな。だいいち料理自体が不得手なのに、ルーやだしの素を使えないとなると絶対料理しなくなるだろな。とか言ってる間は無理だろうな。うーん。
 
 パン屋が早起きして真面目にパンを焼き、焼きたての素朴なパンがこの世でいちばんおいしいものの一つで、私たちはそれらを必要なだけ、半分から買うことができて、新鮮なミルクや卵が安く手に入る。煎り立ての珈琲の匂いが街角にたちこめるとカフェでは人が集まりお喋りを始め、富める人も貧しい人もそれぞれに満足した朝を迎える。
 それが生活の豊かさだし、「美しい街」と呼ぶにふさわしい。ものごとを平たく見ることのできる目と、生活実感を忘れてはいけない、と思う。
 

豊かな社会というのは、何もみんながお金を沢山持っている、というようなことではなく、こんな風に、あたりまえの生活をしていて、それぞれがそれぞれに満ち足りた気持ちでいられるような社会のことなのでしょうね。
 
   そこで、これからはためになる三つの教訓。
1 家の中にはたとえそれが必需品でもごみになるものと財産になるものの二種類がある。消耗品にお金を使うのは最小限にすること。
2 長く使えるものはなるべく出来のよいものを思いきって買おう。
3 ゴミにも宝にもならないものは買わない。
 プライオリティ Priority=優先すること、配備、事項。
 これは生活する上で何をそろえて何を後回しにするか、つまり暮らしの優先順位を考えることである。

これが、簡単なようで結構むずかしい。とりあえずいいのが見つかるまで、と買ったものが邪魔をして、なかなかその「いいの」を買うことができなかったり。不本意なまま使いつづけてるモノ、沢山あります。
 
 センスが身につくとは、好きと思うものと相思相愛の歴史を重ねること。人との関係にたとえると分かりやすい。相手をよく知らないうちはいろんな人と気軽に友だちになれる。でも交流も深まるごとに、そうたくさんの人とは付き合えなくなる。数少ない関係に厚みや奥行きが備わる。言葉以上に以心伝心の絆が芽生える。互いに心地よい距離も生まれる。センスは時間をかけて、まったく個人的な揺るぎない関係を得ることから始まる。  

センスかー・・・。何の力みもなく、さりげなく、センスのいい人というのはいるものですよね。ついつい、いいなあ、羨ましいなあ、かなわないなあ、などと羨望の眼差しで見てしまいますが、そういう人でもきっと常に、見えない努力をしているのだろうなあ。天から与えられたものと、環境と、そしてたゆまぬ努力。素敵に暮らすというのは一朝一夕にはできないのだ。
 
  ……一代目はソニープラザかアメリカン・ファーマシーだったと思う。二十年前は輸入雑貨なんてよほどの好き者か、在日の外国人が買っていくくらいで、ましてや洗濯ばさみなどはこだわる対象物ではなかった。
 でも、当時はこの洗濯ばさみが私にとってのクォリティ・オブ・ライフの象徴のように思えた。このようなものにめぐりあうごとに、生活することの楽しさに心ときめき、どんなささいなものにも本質は見出せるのだと知った。それらはプラスチックの洗濯ばさみが多くを占めるなかで今でも生産されている。理由あって生まれたものは迷いがない。

なんだってどっちだって一緒だ、と思う人もいるかもしれないけど、洗濯ばさみひとつにしても見るたび使うたびに満足し、嬉しくなれるのだったら、そっちの方がより幸せな人生だと思う。その小さなことの積み重ねが、毎日の生活なんだものね。
 
 アメリカに限らずいろんな人種が行き来する大陸を横断すると、旅行者の唯一の手がかりである道路標識の明快さには感動する。地図さえあればどこへでも迷わずにたどり着く。高速道路の標識も、まったく知らない土地へ行っても日本の首都高速を走るよりもずっと簡単だ。
 知らないことを前提に誰にでも分かるような計画は、作った人の頭がいい。高速道路で立ち止まって考えなければならないほどの複雑な表示は考えた人の頭が悪いんじゃないの?
 ものごとを単純に明確に表現するのは、実はものすごく思慮深くないとできないのだ。
 

そうそう、私もそう思う!難しいことを難しく言うのはすごくカンタンなんだ。難しいことを誰にでもわかるように易しく伝えることの方が何倍も大変。小難しい言葉をつかって、自分にしかわからないように説明して周りを煙に巻いてる人を見ると「うーん、あんまりお利口さんではないな」などと勝手に判定をくだしている私。反面教師にして、わがふりもなおさないとね。
 
   そういうことが分からずにいたころは、小さなことに気を取られるやつは大きくなれないぞなんて思っていた。けれど、気持ちを込めて作り上げた仕事は誰かを必ず感動させることができる。ささいなことも気づいたときに解決しないと後で取り返しがつかない大事になるという目に何度も遭った。ディテールはどうでもいい人には末梢的なことにすぎないけれど、どうでもよくない人にとってこそ意味のあることであって、私は何に向かって仕事をしているかの問題に発展する。つまりはディテールをどこまで大切にしてどこで折り合いをつけるのか、その基準は結局自分自身の、何を作ろうとするかという姿の選択なのだろう。

仕事だけじゃなく、何にでも言えることでしょうね。でも逆に、あれもこれも、瑣末なことまで全部抱え込んで捨てられない、取捨選択の下手な私には「ディテールをどこまで大切にしてどこで折り合いをつけるのか」って言葉が、胸にぐっさり刺さります。捨てるべきものは潔く捨てないと、大切なものまでその中に紛れ埋もれてしまって光らない。それは重々わかってるんですが。。。それが実行できれば、この原稿だってこんなに長くなるもんですか。うーむ。
 
 空想をすると心が満たされてくる。現実を見るとがっかりするって?比較じゃない。大切なことは夢や空想をどのくらいはっきりと思い描いて現実に近づけられるかということと、目の前の現実をどのくらい理想に近づけられるかということだ。そのために私は今日から何をするのだろう?それは、住み慣れた現実の小さな部屋を自分らしくのびのびしていられるように作り変えることがまずその第一歩。私の夢はこのなかには収まりきれないけれど、それでもここをもう少しね、なんとかしたい、と取りかかるのである。
 豊かでも貧しくても関係ないよ。夢を見る心と現実に立ち向かう両方が大事なんだ。そうやって家の手入れをしていると、次から次へ素晴らしいアイデアが浮かんでくる。
 

夢を見て現実がおろそかになる、とか、現実を見て夢が壊れちゃう、とかではなくて、夢と現実って、実はすごく近くにあるものなんだなあ。と、目からウロコな文章でした。
 
   もう少し広ければソファベッドを置けるのだが、これ以上家具を据え付けると広さを感じさせることはとうていできない。そこで、もとあった押入れの下段にマットレスと毛布とシーツを収納して、夜はそれを出してベッドを作り、朝はそれっとばかりに片付けるという歌舞伎の舞台のような生活が始まった。
 その部屋での楽しい思い出は年に一回のペンキ塗り。白い壁にキッチンのドアや巾木を紺で縁どる。あるときはグレイに、あるときは黄色で。
 すべてを新しい色に塗り替えた後の、潔さ、気持ちよさ。そのとき、色が多くの悩みを解決してくれることを知った。

こんな風に自分で壁のペンキを塗り替えたりあちこちに手を入れたりしている風景、外国映画ではよく見かけますが、日本ではあんまり一般的ではないですよね。賃貸だとあまり勝手にいろいろいじくれないし。押しピンの穴ひとつでも、下手すると怒られそうだもの。外国では借りてる家でもある程度自由がきくのかな。
 
 小さな部屋には布を吊るすだけにするといいよ、と言っている。のれんや簾 (すだれ) は、日本の部屋の狭さを実によく心得たアイデアだと感心する。タックやプリーツやフリンジは広い部屋でなら退屈な布の連続に変化をつけたりアクセントになりうるのだが、天井の低い狭い部屋では、すべてのディテールがぐっと目の前に迫ってくる。そうすると、うっとうしいから掛けたくないくらいのカーテンに、これでもかと追い打ちをかけることになる。
 きちんとアイロンを当てた白い布をペランと掛けた部屋はそれだけで清楚なシェーカー・スタイルの趣がある。窓辺には素朴なつくりのスクールチェアや古ーいウィンザーなどを置いても似合う。
 

デコラティブなカーテンは大嫌いだし、窓には白い布を一枚かけただけ、なんてシンプルな生活、いいなあ。。見た目も涼しげな簾を吊るす、っていうのも憧れです。ただし、日本の冬はあなどれません。布一枚じゃ絶対寒い。暖房に余計なお金をかけないためにも、寒い時期にはしっかりしたカーテンが必要。となると、季節によってカーテンをかけ替える、という手間が。さらにはそれをしまっておく収納スペースも必要。ズボラな私にゃ、む、むずかしい。。。
 
  「まあ、ごめんなさい。まぶしかったわね」
 机の引出しからトレーシングペーパーを取り出した。そしてそれをクロームの丸いランプの傘の外側にくるりと漏斗の形に被せて、ステープラーでぱちんと止めた。
 ドイツ製の作業用のランプはたちまちにして行灯
(あんどん) のふわりとこもった明かりに変わる。行灯は世界でいちばん美しい照明の一つだと思う。そして目の前で今彼女がしてみせた技は美しい伝統の行いだ。

かっこいい!こういうことがなにげなくできる人ってすごい。紙一枚でも、アイデア次第では思いもかけない活かし方ができるということか。でも、誰でもひらめくかっていうと、それはなかなか。日頃からアンテナをぴぴっと張って、センスを磨き、頭をやわらかくしておかないとね。
 
 すべての音を消してバルコニーへ出て、世の中が一日のうちでいちばん美しい瞬間はわずかで、その黄金の時間に何もせず家のなかにいられることは幸せなのだ。夕日を見る椅子は籐の椅子がいいだろう。ふだんは台所の隅で野菜かご載せに使っていても、夕日にシルエットの椅子はそれらしく見えるものだ。
 空が晴れわたった日には、部屋の明かりをつけるのも忘れて、夕暮れから月明かりに照らし出されるまでの時間をただただぼーっと過ごすこともある。ある夜などは、暗がりのなかであまりにも長いこと静かにしていたものだから、下の犬走りを通る野良猫がくしゃみをするのさえも聞こえた。
 

何もたいしたことしてないのになぜかせわしなくて、何をしたわけでもないのにあっという間に夜になっちゃう、なんて思ってる私には、これこそ究極の贅沢、って感じ。そろそろ、夕方の風も心地よい気候になってきたし、いっぺんトライしてみようかな。と思ったけど……うーん。うちって、マンションの1階だったっけ。視界いっぱいにひろがるのは隣の建物。あらら。
 
   昔、バルコニーもない部屋に住んでいたころは、トマトケチャップのカラフルなイラストの空き缶にプティトマトを植えた。グリンピースの缶にはえんどう豆の苗を植えた。えんどう豆の花が咲いて、しばらくするとトマトの小さな白い花も咲いた。日照不足で、たわわに実をつけるまでにはいかなかったが、テーブルの上に置いて楽しんでいた。一つだけならただの植木鉢だけれど、いろんな種類を窓に整列させたり、ひと鉢に大きく育つものとその下へ垂れ下がる蔦やしだ類を自然景に寄せ植えると、それはもう立派なガーデンへの夢を掻き立てる。

やっぱり、何か育てたりしてみようかな、なんて気分になってきた。今うちにあるたったひとつの生き物は、ミリオンバンブー(っていうんだと思う…長さ10センチくらいの、細い竹みたいなやつ。てっぺんから葉っぱがちょろりと生えてます)。貴重な唯一の植物だというのに、うっかりすると水をかえてやるのを忘れてたりする。まったく、しょうがないねー。
 
 そしてそんなとき、自分の気持ちを確かめるようにインテリアを考えていった。誰しも帰る家が自分の気持ちに添っていれば、外で多少嫌なことがあってもねぎらわれるようで、辛い時期でも自分を励ましてくれるようで、気分一新するにも部屋の模様替えは見も心も甦るような気がするじゃない?
 やっぱり個人の生活は大事なんだよ。個人の生活からすべては始まる。生活にうるさい国民の多い社会が健康的なんだよ。個人の生活を犠牲にしてまでも手に入れたいものなんてないんだよ。いろんな国を旅するとそんなことを思う。
 

家を、自分らしく居心地良く、心からリラックスできるようにしておけば、夢に向かって突き進むためのエネルギーも湧いてきそう。自分の家ももちゃんとしておけないような奴に、デッカイことなんかできるわけないってことかな。たしかに、家の中を常にきちんと片付け、磨き、こまめに飾っている人というのは、何事においても一人の大人としてしっかり自立しているように感じます。掃除キライ、散らかし放題、すわ、来客だ!と慌てて片付けだすような私なんぞ、問題外・・・?まずは「だってめんどくさいんだもーん」を治すことから始めなければ。
 
  引用は、以上!きりがないんだもの。。。
書けども書けども終わらないくらい、心にじわーっと染み入る素敵な言葉がいっぱい。これでも、涙をのんでかなり削ったのだよ。「小さな生活」「ワーズ・ワース」「ホームワークス」「スモール・ラグジュアリ」という4つの大きなテーマの中、小さなタイトルごとに2、3ページずつの文章がつまってます。添えられたイラストもすべて津田さんのもの。
 
読んでいると、元気とやる気と勇気をもらえて、こんな私でも、身近なことから始めていけばひょっとしたら変われるかも?なんて思えてしまう本です。とっておきの文章を最後に。  
 
   思い出と希望と不安と矛盾と未熟さと能力がいっぱい詰まっているひとりの自分が、人と、物と、部屋と、仕事と、社会と、いろんなことに出会いながらすべてに向き合って、ときには人の意見も聞くけれどしまいにはひとりで解決しなくちゃならない。
 この「しまいにはひとりで」というのが人の生き方をなぜか素敵にしていく。ひとり暮らしでもふたりでいても、あるいは大勢のなかのひとりでも。生き方や暮らし方が素敵かどうかは、その人の現実への対処の姿勢そのもののようだ。ただ漠然と、なんとなく流れる日々のなかからは決して得られない。だから自分を磨くには部屋だけじゃなく心の窓も大きく広げて外の現実と自分の夢がよく見えるように、透明なガラスがくもらないように毎朝磨いておかなくちゃならない。
 
( 2001/3/25 )
 

木でできた洗濯ばさみ。

この「小さな生活」に、私たちの夢は収まりきれないけれど……

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