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「禍いの荷を負う男」亭の殺人
マーサ・グライムズ
山本 俊子 訳
文春文庫

『「禍いの荷を負う男」亭の殺人』表紙


           

私の本棚の大半を占めている翻訳推理物のうちの1冊がこれです。いかにも英国ミステリ!という雰囲気に満ちているのですが、意外なことに著者はアメリカ人。よっぽどイギリスが好きなんだなぁ、というのがひしひし伝わってくる小説です。
舞台は、のんびりした、素朴で美しい北部イングランドの小村なのですが・・・。

 
           
 

美しい、ふんわりとした雪が屋根に積もり、窓の四隅に積もって、鉛でふちどりした四角の窓々が、暖炉の火のあかりで黄金きん色やルビー色に染まっていた。落ちてくる雪の中に、煙の出ている煙突のならぶロング・ピドルトンの村は、ゆうべの殺人をよそに、のどかなクリスマスカードの絵そのものだった。

           

いきなり出てきました、絵本のような情景の中に「殺人」って言葉が。村人が集う昔ながらのパブで、余所者の死体が発見されるのです。それも二つも。

 
           
 

ひとつめは、パブ「禍いの荷を負う男」亭の地下の酒倉で。針金で首を締められ、ビア樽に首を突っ込まれているところを発見されます。
ふたつめは、パブ「ジャックとハンマー」亭で。店の木の梁の上にある鍛冶屋のからくり人形の代わりに死体が立てられており、人形は彼の代わりにベッドに寝かされていたのです。

           

この「猟奇的な連続殺人事件」を解決するためにロンドン警視庁からやってきたのが、リチャード・ジュリー警部。天敵である上司、レイサー主任警視によれば、

 
           
 

「背丈は6フィート以上、髪は栗色、目はダーク・グレー、歯並はいい。笑顔もなかなかいい」レイサーは歌うように言った。「そのとおり、うちのジュリーだ」彼は笑顔をひっこめた。「あとで本人から電話すると言っといてくれ。今仕事中だ」レイサーが受話器をがちゃりと置くと、はずみで数本のボールペンがはね上がった。「“笑顔”を除けば全部馬にあてはまるな」

           

……という容貌らしい。本人はいたって淡々としているにもかかわらず、その笑顔はいつでも、女性と子どもの心をとろかしてしまうのです。ロンドン警視庁の女子職員、フィオーナ・クリングモアに、同じアパートメントに住むミセス・ワッサーマン、そして、ロング・ピッド村の幼い兄妹ジェームズとジェームズ、などなど。

 
           
 

そのジュリーが村の人々の間をまわって順に話を聞き、捜査をすすめるうちに、第三の死体が発見されます。そして、これもまた村人ではありませんでした。
一体誰が、何のために・・・と、勿論本筋も気になるのですが。
私がこの本で気に入っているのは、ストーリーよりも登場人物のキャラクターなのです。
事件は読み進むうちに解決するに決まっています(こんなこと言っちゃあ身も蓋もありませんが…)。それよりも、出てくる人の動きや言葉に心を奪われてしまう。

           

特にお気に入りなのは、元貴族メルローズ・プラントとその義理の叔母アガサとの攻防。。。電車で読んでいてもこらえきれず吹き出してしまうようなやりとりが満載です。

 
           
 

メルローズは、8代目ケイヴァネス伯爵、13代目のアードリー子爵なのですが、「貴族院の議会が退屈だから」という口実で称号をあっさり放棄した元貴族。そして、メルローズが見なすところのアガサは「叔父ロバート卿がアメリカ旅行で射おとし、甥の首にかけたアホウドリ」…。

           

川の流れや羊、そしてラベンダーの茂る丘、といった環境にあるこのアードリー・エンドが自分のものにならないということで、レディ・アガサ・アードリーは涙がこぼれるほど残念な思いをしたものだ。つまり、自分の夫がケイヴァネス伯爵でも、十二代のアードリー子爵でもなかったということが、彼女の生涯の痛恨事だった。夫のオノラブル・ロバート・アードリーはメルローズ・プラントの父のしがない弟にすぎなかったのだ。アガサは甥のメルローズが捨てたロード・アードリーの称号を拾って埃を払い、一夜にして“レディ・アードリー”に成り上がった。

 
           
 

ちなみにロバート卿は、与えられた金を使い果たして59歳で賭博場で死にました。なのでアガサは、メルローズの父が弟の未亡人に残してくれた、余生を楽に暮らせるだけの年金を受け取って暮らしています。自分より二十いくつも年下のメルローズが若死にし、自分に財産がころがりこんでくることを熱烈に待ち望みつつ。

           

 叔母はちょっとした口実を作っては突然アードリー・エンドに現われ、物欲しそうに素焼きの陶器の像や肖像画、中国製の壁掛けやウィリアム・モリスの壁かけ、ウォーターフォードのガラス器、庭の遊歩路や白鳥−この堂々とした大邸宅にあるすべて−を見てゆくのだった。レディ・アードリーは時をえらばず、どんな天候の日でも、招かれずにやってくる。漆黒の冬の夜の闇をついて雨の降る夜半に、書斎に行って両開きの窓の外に、黒いケープを着た白い顔が稲妻の光に突然浮かび上がるのを見るのは気持ちのいいものではなかった。

 
           
 

実際、気がつくとメルローズの母の形見がいつのまにやらアガサの指にはまっていたりするので、読んでるこっちも気が気じゃないのです。呼ばれずとも(というか来て欲しくない時ほど)ずかずかとやって来てはメルローズを叩き起こし、お茶とフェアリ・ケーキをむさぼり食いつつ、メルローズに向かって無理矢理自分の推理を展開しつづけ(本人はすっかり名探偵のつもりなので)、そのまま食事の時間まで粘ろうとする、なんてことが日常茶飯事。かなり手ごわい相手なのです。

           

ちゃっかりしているというか油断も隙もありゃしない要注意人物ですが、どこか抜けてるところもあったりして、憎めません。アガサがあまり登場しない巻はどうも物足りないのです。次のような、メルローズとの攻防が読めないのはやっぱりつまらない。

 
           
 

 助かった。「何だ、だめじゃないか、お客さまを廊下で待たせたりしちゃあ。アードリーさまはお帰りだから……」その気になればメルローズは万力のような力を発揮できる。叔母を椅子から立たせ、もう片方の手に叔母のハンドバッグをつかんでドアのそばまで引っぱっていったとき、叔母が大声を出した。「時計!時計!時計をどこかへ置き忘れたわ!」アガサは甥の腕を振りはらい、クッションのまわりを探しはじめた。
 メルローズは溜息をついた。またもや一ラウンド負けた。

           

こんな風にアガサにいつも振り回されているメルローズですが、実はとっても頭がきれるのです。『タイムズ』のクロスワードパズルを15分以内に解いてしまうほど。一度、対抗しようとしてアガサがクロスワードに挑戦したことがあるのですが、結果は惨憺たるもの。タテの部を埋めるだけで30分もかかってしまい、結局、こんなことは子どもっぽい時間の浪費にすぎないといって放り出しました。どっちが子どもっぽいんだか。。。

 
           
 

 ジュリーは家具の間をかきまわして探しものをしているレディ・アードリーを見て驚いたが、彼が姿を現わすや否や、彼女はさっと飛んできて手を出した。「ジュリー警部!またお目にかかりましたわね!」レディ・アードリーに手を握られている間、ジュリーは部屋の中ほどに立っている男を観察した。背が高く、感じのいい人物で、リバティの絹の部屋着をはおり、今ベッドから出てきたばかりというように髪を乱している。しかしなによりジュリーの目を惹いたのは、金縁のめがねの奥の、驚くほど美しいエメラルド色の目の表情だった。するどい。たいへんするどい。

           

ジュリーはメルローズの頭のよさに気づき、また、「イギリスの警察の推理能力を叔母のそれと同様あまり高く買ってはいなかった」メルローズも、ジュリーには一目おきます。ことあるごとに「ありもしない推理能力をふりしぼって」捜査に協力しようとするアガサを適当にかわしながら、ジュリーはメルローズのひらめきに助けられ、犯人をおいつめます。ジュリーが犯人に殺されそうになるという、お約束の場面も織り交ぜつつ、事件は無事解決にいたるのです。

 
           
 

特に、最後に犯人と格闘する場面がかっこいい!「殺されちゃうの?!」とハラハラさせておきながら(勿論、そんなことはないと百も承知でハラハラするのを楽しんでいる私)、相手の隙をついて鮮やかに倒すジュリー!やった!もっと殴っちゃえ!!……でも、一番おいしいところは天敵レイサー主任警視にもっていかれてしまうのです。手柄を全部自分のものにしやがって、あいつ、ほんま憎たらしいわー。

           

ここで、アガサに続いてのお気に入りキャラクターその2。フィオーナ・クリングモア。

 
           
 

フィオーナ・クリングモアが入ってきて、何から先にしようかと考えたあと、ジュリーに向かってにっこり笑ってみせ、それから薄茶色のファイルをレイサーに渡した。1940年の制服を着ていたが、それが気に入っているらしい。甲にストラップのついた黒のハイヒール、黒のタイトスカート、ネグリジェを着ているような感じの、ゆったりとした長い袖の黒のナイロン・ブラウス。そして例によってネックラインをぐっと下げ、スカートを短くはいている。フィオーナはいつも、服を“半旗ハーフ・マスト”に着ているという感じを与えた。自分の処女喪失をいたんでいるのだろうか、とジュリーは思った。

           

……うまいっ。ザブトンいちまいっ。ジュリーの冷静な観察がおかしい。。フィオーナはレイサーの秘書なのですが、ほんとに年齢不詳で謎めいてます。そのお色気過多ぐあいと古風な感じのアンバランスさが妙に気になる。。。いつもちらっとしか出てこないのが残念。

 
           
 

さらに、お気に入りのキャラクターその3。アルフレッド・ウィギンズ部長刑事。

           

「何かとても熱っぽいんです。もう少し横になっていて、少したってから追っかけるというのではいけませんか」
 ジュリーは溜息をついた。しようのない男だ。しかし、ポケットにいっぱいの咳止めドロップや風邪ぐすりをつめこんでうろうろついてくるのでは邪魔にしかなるまい。ジュリーはすぐに同意した。「ああ、いいよ。そうしたまえ。あっためたラム酒にバターを入れて飲むと元気が出るよ」哀れなほど感謝してウィギンズは安堵の吐息をついた。白いシーツと上がけにくるまってるところは雪だるまみたいに見えた。

 
           
 

もう、ウィギンズは始終風邪をひいてます。蓄膿症で喘息持ちで、咳止めドロップとツートン・カラーの錠剤を手放しません。でも、いつもぐずぐず言ってるだけの能無し部下じゃあけっしてないんですよ。記録と記憶に関してはまかしとけ、肝心な時に意外な働きをしたりして、「おおっよくやったウィギンズ!」と応援したくなってしまう。咳止めドロップもコミュニケーションツールとして役立っていたりね。

           

 ランプの柱みたいにつっ立っていたウィギンズは、何か温かいもの−紅茶か何か−をいただけまいか、と言った。風邪をひきそうな気分なので、と言う。

 
           
 

私も風邪ひいてばっかなので、このウィギンズの風邪へのびくびくぶりに、とっても共感できてしまうんです。。。かわいそうやらおかしいやら。ところで、私が今ひいてる風邪、一体いつになったら治るんでしょう。すでに2週間以上、ぐずぐず言いっぱなしです。げほげほ。頭いた…。ウィギンズの咳止めドロップが欲しいよー。

           

えー、このように、登場人物はとても魅力にあふれていますが、これぞイギリス!って感じの情景描写もあちこちにあって、これまた楽しいのです。

 
           
 

イギリスの旅館(イン)は、歴史と、追憶と、そしてロマンスの落ち合う場所に永遠に位置をしめている。たれしも一度は、そうした旅館の、木造の柱廊から身をのり出し、砂利を敷いた中庭に入ってくる馬車を−冬の夕やみの中に霧のように白く息を吐きながら足を鳴らしてとまる馬を−見下ろしている自分を想像したことがあるにちがいない。

           

しかし朝食のすばらしさは夜の不便さをつぐなって余りあるのだ。キドニー・パイ、鳩のパイ、温かい羊肉入りのパイ、ポーチド・エッグ、そして厚切りのベーコン。……あるいは長い旅路に飢え渇いて足をとめ、苦味ビールを一杯と、スティルトンのブルーチーズや、ボロボロとくだけやすいチェシャー・チーズ、チェダー・チーズなどにありついた経験があるにちがいない。

 
           
 

そしてたれしも、宿の中にはいつも真鍮の金具が光り、木のはめ板やドアが磨かれていて、暖炉には勢いよく火が燃え、ビールは黒く、主人はツイードの背広を着ている、ということを知っているだろう。

           

ここは典型的なイギリスの旅館(イン)であった。夏になるとクレマチスの長い蔓が壁にはびこり、ツルバラと競いあう。南に向いて丘の上に立っている長い建物は、気まぐれな波にさらわれでもしたように、一かたまりずつつなぎ合わされたかたちになっている。藁ぶき屋根が衿のようにぴったりと窓にかぶさっていて、ダイヤモンド形に仕切ったその窓は、夏は緑に輝く野原の中に、冬は銀色のもやに包まれて、ロング・ピドルトンの村を見下ろしている。

 
           
 

なあんて、どことなく英語の教科書を思い出させるようなカタい文章がまた雰囲気だしてて、なんだか懐かしい。イギリス料理はおいしくない、とはよく聞きますが、読んでる限りそうでもなさそうですね。私もその「すばらしい朝食」を食べてみたい!ビールも普段は滅多に飲まないのですが、イギリスの黒ビールってなんだかちょっとおいしそう、チーズとも合いそうだし…。

           

・・・はっ。「イギリスらしい情景描写がいい」なんて書き出しておいて、私ってば、食べてみたいとかおいしそうとか、つい食い気にばかり走っていました。いつものことか。

 
           
 

とにかく、ジュリーとメルローズの絶妙なコンビネーション(&アガサのおせっかい)で大団円を迎えた本書ですが、シリーズの主人公はジュリーなので、残念なことにロング・ピドルトン村の面々が必ず登場するとは限らないのです。確かに、狭い村でそうそう頻繁に殺人事件が起こるわけもないし・・・。でも、メルローズがジュリーに宛てて、

           

 ところで、お願いがあるのですが。次に事件を担当されましたら−どんな事件でも文句はいいません−私にお手伝いさせていただけませんか。この村での生活はあまりにも想像力を退化させます。

 
           
 

……などという手紙を出していたりするんですよ。そのせいかどうか、ジュリーがメルローズに協力を要請(一応非公式に、だとは思うのですが)したり、なぜか“偶然”同じ場所に行き合わせたりなんだりで、今後もちゃーんと、うまい具合に話にからんできます。毎回ではないのですけどね。やっぱりアガサが出てこないと面白くないしなー、私は。

           

ようするにこのシリーズは、イギリスの雰囲気を満喫でき、おかしな登場人物を楽しめ、なおかつ推理物の醍醐味も味わえる、という、私にとっては一粒で三度おいしい小説、ってことになります。タイトルのつけ方も面白い。必ずパブの名前がついて、この『「禍いの荷を負う男」亭の殺人』をはじめ現在13冊が出ています。

 
           
 

『「化かされた古狐」亭の憂鬱』、『「鎮痛磁気ネックレス」亭の明察』、『「悶える者を救え」亭の復讐』、『「エルサレム」亭の静かな対決』、『「跳ね鹿」亭のひそかな誘惑』、『「独り残った先駆け馬丁」亭の密会』、『「五つの鐘と貝殻骨」亭の奇縁』、『「古き沈黙」亭のさても面妖』、『「老いぼれ腰抜け」亭の純情』、『「酔いどれ家鴨」亭のかくも長き煩悶』、『「乗ってきた馬」亭の再会』、『「レインボウズ・エンド」亭の大いなる幻影』、、、イギリスには変わった名前のパブがいっぱいあるんですねー。

           
( 2000/9/24 )
 

ロング・ピッドの ロング・ピドルトン小景 地図です。………

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