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連合赤軍「あさま山荘」事件
佐々淳行
文春文庫

『連合赤軍「あさま山荘」事件』 表紙


 
浜陣、この佐々淳行というおっちゃんが大好き。だいぶ前になりますが深夜TV『平成日本のよふけ』(鶴瓶&慎吾の頃)に後藤田正晴氏らと出演されていたのを見て大ファンになりました。めちゃくちゃアタマいい爺様たちの軽口の応酬には思わずニヤリ。ほんまに仲良しなんやなぁと。たまにイチャイチャしてたりもして(?)、とにかく楽しそうな大人達でしたな。  
           
  その佐々さんとの最初の出会いはこの本でした(そうです、KKHHさん、あなたに借りた時です)。普段私が読むのは、フィクションというか物語というか要するに『おはなし』系が殆どなんですが、「面白い!一気に読んでしまった」とすすめられ読んでみたらアラホント、やめられないとまらない。
 
あさま山荘事件というのは、昭和47年2月に軽井沢で起きた連合赤軍の立て籠もり事件。人質にとられた山荘管理人夫人を無事救出することと、犯人たちを生きたまま逮捕することを目指した警察の、厳寒の軽井沢での苦闘をドキュメントしたものです。
すべて現実に起きたことなんですが、その臨場感や勢い、緊迫感、人々の熱い気持ちやさまざまな悲喜劇ったら、まるで映画の原作を読んでいるかのような気分に。
(実際、役所広司さん主演で映画化、5月に公開されるそうです)
 
 
  当時、警備幕僚長として派遣され現場指揮を担当した佐々さんは頭の回転が滅法速く、まさに決断力と行動力の人。極限状況にあってもちゃんとユーモアを忘れない独特の語り口の魅力もあって、読み始めるとぐいぐい引き込まれる。確かにこれは一気に読んでまうなー。
 
間違っていると思ったら相手が偉かろうが年上だろうが遠慮無く楯突き、こうすべきだと思うことはどんどん進言しちゃう佐々さんはとてもかっこいい!たとえばこういうかんじ。  
           
   しょうがないな、長野県警は……。
 教育県として名高い長野県は知的水準も高く、自立心の旺盛な誇り高い人が多いが、こんなときに自尊心をむき出して強情を張るのはよくない。第二次反安保闘争時代、長野県警は大学封鎖解除警備も形ばかり、爆弾や火炎ビンの洗礼もうけていないのだから、百戦錬磨の警視庁機動隊の応援を素直にうけるべきだ。人の命がかかってるんだ。メンツにこだわるべきでない。
 
 こうなると、私は黙っていられないたちだ。理屈とプライドで突っぱらかってる長野県警と、要請主義の慎重な立場で後手後手となる警備局長とに任せておくと、タイミングを失い、犠牲者が増える恐れがある。  
 
  「鈴木さん、どっちみち長野県警はひとりじゃやれんのですから、警視庁の当番機動隊を警察庁要請、つまり国家公安委員会から東京都公安委員会への要請という形で見切り発車させましょうや。雪の山道を重車輛が登ってくんだから早く発進させないと、碓氷峠が難所です。長野もメンツにこだわるべきでない。長野を納得させてから出したんじゃ明日になっちまう。
 
長田さん、今日の当番隊、何機?ああ九機ね、特科車輛隊の高圧放水車とか、特型警備車は必ず要ることになるから、特車隊も二個隊要請しましょうや。警察犬やライフルだけ行ったってどうにもなるもんでない。警察犬は天野君がいかなきゃダメ。ライフル狙撃班はオリンピック選手の保阪調司警部を指名しましょう。鈴木さん、見切り発車、いいですね。いらなくなったらその時点で廻れ右させりゃいいんだ」  
           
   平時の官僚的な手続きと年功序列の階級主義を守ってやってたんでは、現場のものの命が危ない。時間との勝負だ。応援を急派して早く鉄壁の包囲網を完成しないと、長野県警の百数十人の薄まき包囲では連合赤軍が血路を開くために銃を乱射しながら突撃してきたら、阻止線を強行突破され、折角網にかかった大魚を逸してしまう。
 長田警視は、佐々さん、例によってまたやっとるわいといった顔付きでニヤリと笑うと、
「合点だ」とばかり電話に飛びつく。
 
うーん、いいわあ。この行動力、うんとエライ人には評価されるけれど中間管理職の先輩方にはすごくいやがられるんだとか。わかっちゃいるけど戦いに勝つためにはやめるわけにはいかないのだ、と。強い・・。  
 
  佐々さんが軽井沢に派遣されるようになった経緯がまたちょっと笑えます。いや笑い事じゃないんですが、なんだか可笑しくて。
 
 とにかく、長官がお呼びじゃ仕方ない。なんだかわからないが、すぐ行かなくちゃ。
 長官室のドアを開けると応接セットのソファに後藤田正晴警察庁長官がむずかしい顔をして坐っていた。そばに富田朝彦警備局長が同席している。
「お呼びですか?」
 長官は顔をあげる。
 
           
  「ああ、佐々君、あのなあ、野中君はなあ、こういう警備、やったことないでなあ、君、ちょっと軽井沢行って、指揮してこいや」
 そんな無茶な……私は思わず心の中で呟いた。
 
『平成日本のよふけ』で見た後藤田さんもこんなかんじでしたわ。すました顔でぺろぺろっとドえらいこと言い出すので、周りがギョッとして慌てる。見てるぶんには「おもろいなぁ」で済むけど、この人の部下になったら相当ナンギそうです。めちゃめちゃ鍛えられるに違いない・・。  
 
   後藤田さんという人はひとに重大な任務を命ずるとき、いつもこれだ。警備局長時代の昭和三十九年(一九六四年)米国ケネディ大統領が暗殺された直後、ケネディ事件の真相調査と、きたるべき東京オリンピックに備えた外国賓客警護について「アメリカのシークレット・サービスのやり方を調べてこい」と命じたときもこんな調子だった。ついこの間、一月初め、爆発物処理技術と機材の緊急調達のため欧米諸国に出張を命じたときも、「ちょっと行ってな」といった工合の科白だった。
 
また、難しい任務をあっさりまかされ「ひえーっ」状態の佐々さんもいざ仕事にとりかかれば、大変な苦労をしつつも毎回ちゃんと結果を出しちゃうんですからね。この上司にしてこの部下ありなのだ。
もひとつ別のエピソードも。
 
           
   後藤田長官の人使いの荒さは定評がある。
 ある日私は文句を言ったことがある。
「なぜロクでもない人をやたら誉めたりねぎらいの言葉をかけるのに、本当によく仕事をして役に立っている人を怖い顔で叱ってばかりいるんですか?不公平じゃないですか」
 すると後藤田長官はこう言った。
 
「ワシの人使いには三つの原則がある。明らかにワシより能力が上の者には何もいわん。明らかに劣っている者は叱ってもしようがないから誉めて使う。ワシと同等の能力ありと見たら徹底的に叱ってしごくんじゃ」と。
「それ、誉めてるんですか?」ときくと、
「そうだよ」とケロリとして答える。喜びかけているとさらにこう言う。
 
 
  「ワシは徹底した能力主義じゃ。好きな奴でも出来ん奴は使わん。嫌いな奴でも出来る奴は使う」……。さぁまたわからなくなった。すると私は嫌われてるのかな……。
 こういう上司には仕え方がある。叱られる前に先手を打って鼻をあかしてやることだ。
 
ぷぷぷ。こういう長年の攻防の末、あの「イチャイチャ」な親密さが完成されたというわけですね。佐々さんのしごかれぶりをちょっと垣間見るだけで、どんだけ後藤田さんに見込まれていたかがよーく伝わってきます。逆に言えば、このあさま山荘事件もそれだけ重大で困難な事件だったということ。  
           
   だが私は、この人質救出作戦がいかに難しくて成功の確率の低い任務であるか、そしてこれから軽井沢で戦わなければいけない相手がどんなに恐ろしい冷酷非情な殺人集団であるかを、過去三年有半身を以て体験し、知り尽していたから、最悪の事態の地獄絵を出発を前にして心に描いていた。彼らの軽井沢「あさま山荘」への長い道は、暗い、血まみれの、死屍累々の「滅び」への道だった。
 
 すでに現場では銃撃戦が行われている。鉄パイプ爆弾も飛ぶだろう。私も怪我するかも知れない。最悪の場合は殉職だ。警視庁時代から私はいつも覚悟を固め、自分に気合いをいれてから危険で困難な任務に出陣していった。  
 
  差し入れのおむすびが手元に届く頃にはカチカチに凍って歯が立たず、懐中電灯の電池までがすぐに眠ってしまい使い物にならなくなるほどの寒さの中。深夜明け方おかまいなしにかかってくる記者たちの取材電話で睡眠不足になりながら、人質を抱えて立て籠もり不気味に沈黙を守る犯人たちを相手に戦わねばなりません。
 
ひとつ間違えば命を落とすという危険な状況のなか、ことあるごとに縄張りを荒らされまいと頑なになる長野県警側となんとか協力しながら一緒に立ち向かおうとするのですが、いろいろ苦労があったみたいです。  
           
  投降するよう必死で説得する肉親に対してまで、無言で発砲してくる犯人たち。アジ演説もぶたず何の要求も出さずこちらからの電話にも出ない。もしや人質は既にこの世の人ではないのだろうか。ここはなんとか面割り写真を撮り犯人を特定した上で肉親を連れてこなければ、まったくの見当違いをやらかしているのかもしれない、ということで強行偵察を決行。
 
警備本部に戻った私は、山内警備部長に言った。「さあ、今日は奴ら何回も顔を出したね。さっき撮った写真、すぐ焼いて、検討会、やろうや」
「いえ、まだ出来てません」「どうして?」「まだ三十六枚撮り終わってないから、フィルムは現場のカメラの中に入ったままですから」「なんだって?」……怒りがこみあげてきた。
 
 
   なんのために警視庁機動隊が命がけの強行偵察やったんだ。面割り写真撮るのが目的だって警備会議でいったじゃないか。
 三十六枚撮り終わるまで現像しないってのは、一体どういう感覚なんだ。
「直ちに回収して、すぐ現像しなさい!!」
 私はつい声を荒らげる。すっ飛んでいった警備部長がすっかりしょげて戻ってきた。
 
「申し訳ありません、一枚も撮れてませんでした。なにしろ相手が意外な時に意外なところから顔出すもんですから、ピントあわせが間に合わなくて……」
 だから言わないことじゃない。警視庁の現場写真班の応援を頑なに拒むからそういうことになるのだ。
 
           
  「後学のためにきくけど、君たち、長野県警の写真技術をバカにするな、関東管区警察局管内の警察写真コンクールで優勝したことあるッていったよな。一体何の部門で優勝したの?」
「はい、静物の部で……」
「……」
 
ううむ。苦労するなあ、佐々さん・・・。面割り写真が撮れず困った彼はこのあと、記者クラブへ行って気心知れたカメラマンたちに頭を下げてまわり、なんとか写真を入手したそうです。まだこれは笑えんこともない、という部類の失敗談ですが。気力体力の限界に挑戦するかのような過酷な日々はつづきます。  
 
  警察庁警備本部と軽井沢現地本部のやりとりが疲労が深まるにつれて次第にギスギスした、とげとげしいものになってきた。
 現場からみれば、望遠レンズで撮っているため遠近感のないテレビの画像だけみて「なぜ特型警備車を山荘に横付けにして壁を破壊して突入口をつくらんのか」などと無理解な叱責がきたりすると、なんだい、後方の安全な暖房の利いた部屋にいやがって……となりがちだ。
 
 火中の栗を拾わされている者たちの被害妄想もある。
 いまの私たちは現場で命を鉋
(かんな)にかけて削るような苦悩の日々を送っている。
 蝋燭の両端に火をつけたような、寿命が倍速で縮まってゆく思いの毎日に対しては、もし人質救出に失敗したときはなんの酬いもないだろう。警察界でも「あさま山荘事件の失敗者」として葬り去られるにちがいない。
 
           
  疲れ果てた頭脳は、次第に昨日と一昨日の区別がつかなくなって、いつまでも終らない今日が続いて、自分だけひどい目にあっているような錯覚に陥る。
 
ただ、そんな厳しい状況の中で救いだったのは、現場警備本部に笑いが絶えなかったこと。「軽井沢はもう限界で、きっとヒステリー状態だろう」と心配して東京から実情視察に来た警備課長が、帰京して「現場にはまだ笑いがあります。むしろヒステリー状態なのは警視庁じゃないですか」と報告したらしい。  
 
   軽井沢署の警備本部が極限状況の中にあって笑うゆとりを保っていたということについては、私も貢献したが、野中県警本部長がバランス感覚と自己統制能力に優れ、終始冷静を保っていたこと、それに幕僚団長の丸山参事官がユーモア感覚と本質的にネアカな楽観主義者だったことによるところ、大だった。
 
事件発生から1週間余りが過ぎ、人質の心身が共に限界状況にあると判断されるため、救出のための強行突入作戦決行日「Xデイ」が2/27に決定(実際の決行は大雪警報で1日延びて2/28になる)。報道協定を結んでから、佐々さんがひそかにあたためていたアイデア「大鉄球作戦」で奇襲をかけます。これは、クレーン車でつるした1トンの鉄球で壁面や階段を破壊して犯人の退路を断ち、二手に分かれた決死隊が挟み撃つという計画。  
           
  みごと大鉄球は山荘を破壊しはじめ決死隊は次々と突入、すべて計画通り順調にすすんでいると思われたその時。次から次へと指揮官たちが撃ち倒され始めます。うち2名が殉職。
 
 天を仰ぐと雪はやんで青空がひろがっている。現場指揮をするようになってから八日間、強行偵察を何回も繰り返し、集音作業や写真撮影、土塁の構築など、犯人たちの銃の射程距離内で随分危い作業を行い、二、三百発の銃撃を浴びながら、これまで警視庁の応援部隊は一人も負傷者を出さずにうまくやって来た。  
 
  それなのに本番開始わずか二時間足らずの間に隊長一人、中隊長二人、隊員一人の四人に瀕死の重傷を負わせてしまった。
 畜生ッ、こんなに一方的に撃たれて犠牲者が出ているのに拳銃を撃ち返しちゃいかんという法があるか。警察官にだって人権はある。正当防衛の構成要件も、警察官職務執行法第七条の武器使用要件だって完全に満たしている。私は多重八号に向った。怒りで目がくらむ。
 
佐々さんの語気鋭い意見具申に本部長や参事官も賛成し、拳銃使用の許可を警察庁に申請、曖昧ではあるものの一応の使用許可が下ります。一方、主力攻城用具である大鉄球はなんと、クレーン車のエンストにより使用不能。あとは放水と催涙ガス、拳銃の威嚇射撃しかない状況に。  
           
  隊長の殉職により指揮命令に混乱をきたす現場を見かねた佐々さんも直接のりこんで指揮をとり、十三気圧をかけた放水で壁をみるみる破壊します。隊員たちは大楯を持って突破口から次々と突入。狂ったように乱射する犯人たちと数メートルの距離で対峙、格闘し、奇跡的に人質の無事救出・犯人逮捕に成功します。
 
本来なら未曾有の人質救出作戦に成功し晴れ晴れとした気持ちで帰ってくるはずなのですが、結果的には二人の殉職者を出すことになり、心の重い凱旋になりました。その上、警察庁では「あさま山荘警備は大失敗」という批判の声が高い、という噂が伝わってきたのです。噂の主もその真偽も確かめられないものの、あまりに無理解で無責任な酷評。  
 
   気の立っている現場の人々にはこういうヒソヒソ話が驚くべきスピードで伝播する。悲憤する者あり、失望落胆する者あり、失敗だといわれると責任問題を心配する者あり、折角の感激に冷水を浴せられる思いがした。私は疲れていた。かなり重傷の「フロントライン・シンドローム」に罹っていた。
 
私は警視庁警備第一課長時代、数千回に及ぶ激しい極左過激派の集団不法行為取締りの警備で、延べ一万五千人を検挙し、警視庁機動隊に延べ一万二千人の負傷者を出した警備指揮官だが、過激派を一人も殺さなかったし、我が方にも私が指揮した警備に関する限りただの一人も殉職者を出したことがない。それは単なる運のよさにすぎなかったかもしれないが、私のプロフェッショナルな誇りでもあった。  
           
  「あさま山荘事件」では無惨にその無敗記録がストップし、立派な人を二人も死なせてしまった。
 私は決心した。誰か辞表を出せというなら私が出そう。それは初めから覚悟の上だ。
 
疲れ果て家に帰り着いた佐々さんは奥様に「警察を辞めることになるだろう。警察庁では大失敗だったと言ってるそうだ。二人も死なせてしまったからね。俺はベストを尽した。悪口を言われるいわれはない。とにかく眠い。記者なんか来ても誰にも会わないし、電話にも出ないからね」と言い捨てて泥のように眠ります。  
 
  が、どれほど眠ったころか、後藤田長官からの電話に起こされた。どうせ、拗ねてないですぐ出頭しろと叱られるのだろうと思いきや。
 
「はい、佐々です」と不貞腐れた声で電話に出ると、これまで聞いたこともないほど穏やかな後藤田長官の声が流れて来た。
「佐々君か?あのなあ、いろいろ言うとる奴はおるが、だ、君をおいてあれだけやれる奴はおらんかった。ようやってくれた。お礼を言います。御苦労様でした。疲れたろう。ゆっくり眠ってくれ」
 
           
   私の体を電流のように喜びが走った。あの秋霜烈日、“カミソリ後藤田”と言われ、人を叱るか、悪口言うかのどっちかで、それまで誉められた事も無ければ優しいいたわりの言葉なんか一度もかけられたことのなかった私は、このトップからの一本の電話で感激した。
 
 この人はわかってくれていたのだ。
「士ハ己を知ル者ノタメニ死ス」だ。
 お湯のように暖かなものが胸に湧きよせ、このところゆるみっ放しの涙腺がまた熱くなって来た。
 
 
  この電話を切った後、佐々さんは傍らで心配げな表情の奥様に「おい、辞めるの止めたよ」と仰ったそうです。エエ話やのう・・・。誰に認められなくても後藤田さんに認められるのが一番嬉しいにちがいない。すーっかり佐々さんに感情移入して、物語に夢中になるかのようにここまで読んできた私なのでした。やっぱり、なんべん読んでも面白いわー……。
 
もちろん、ただ「面白い」だけで済ませてはいけないことはよくわかっているのだけど(あとがきに「この本は、内閣の閣僚でもなく、どこかの国の大使でもない、全く名も無い一主婦を、非人道的なテロリストの魔の手から救出するために自らの命を捧げた正義の戦士のための鎮魂賦であり、傷つき倒れた勇敢で忠誠な治安の戦士たちの勇気を讃える武勲詩であり、後世にその人々の名を残す顕彰碑なのである。」とあるようにね)、これがもしただのノンフィクションだったなら、私が読むことは多分無かったと思います。『おはなし』系好きの私がタイコ判押しちゃうぐらい、エンタテイメントとしても極上品ですよ。  
           
  ・・・映画も見に行こー。
 
( 2002/2/24 )
 

『突入せよ!「あさま山荘」事件』

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