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幻想運河
有栖川有栖
講談社文庫

『幻想運河』 表紙


 
私のだーいすきな乱歩作品に 『火星の運河』 というのがあるんですが。べつにそれと関係あるわけではなく。でも、たんに川、とか水路、とか呼ぶんじゃなく、運河っていうとなんだか雰囲気出ますよねぇ…。その詩的な雰囲気にもかかわらず、いきなりバラバラ死体投棄の場面から物語は展開。なぁんて私ごのみなんでしょ。   
           
  「あれ……」
 半透明のビニールの中身は、何やら生々しく白いものだ。非常識な飲食店が投げ棄てたごみではないか、それなら見ても胸が悪くなるだけだ、と思いながら、なおも目を凝らしてしまう。
 生々しく。
 白い。
 まるで女の腕のように。
 女の腕。
 死体。
 
 同僚はうめいて口許を押える。彼は喉を鳴らしただけで、声も出なかった。
 シートの下にあったものは思いがけないものだった。
 女の死体らしきもの。
 首がない。
 両の腕も。
 両の脚も。
 白い全裸のトルソー。
 
 
  醜悪でおぞましく、見てはいけないものの筈なのに眼を逸らすことが出来ない。
見ちゃいけないから余計見ちゃうのか、いけないと思うから余計美しく感じるのか、なんだかもうよくわからないけど既に釘付けなわたくし。。。
 
私の魂の恋人、萩原朔太郎さまの詩のあれやこれやが脳裡を駈けめぐりまする。
このうえなく繊細で果敢無く美しい日本語で、あんなにアヤシクて不健康で不道徳な世界を紡ぎ出し煙に巻き酩酊させてくれる人など、彼をおいて他にはおりません。断言。
その朔太郎ワールドを連想させる場面が、この本にはいくつも出てきます。だから好き。
 
           
  冒頭のこのシーンの舞台は大阪。そこからアムステルダムへと一旦飛んで。
 
主人公はシナリオライターの卵、山尾恭司。ものを書く修業と称して各国を放浪中で、オランダ・アムステルダムに流れ着いてそろそろ5ヶ月というところ。麗しい風景の底に得体の知れない闇を忍ばせた都市―この不思議に魅力的なアムスを舞台に、何とか納得のいくシナリオを1本書き上げたいという彼の願いはまだ果たされていません。  
 
   やはりアムスを離れた方がいいのかもしれない。距離をとって振り返った時、印画紙に感光した映像が定着するように、ぼやけたイメージが輪郭のくっきりとした物語の形をとってくれるのかもしれない。おそらくは、それが自分自身が初めて誇れるシナリオ作品となるのではないか。
 などと考えながら、今もお友だちの集まりに招かれて出ようとしている。楽しいことがあるから是非おいで、と美鈴に誘われて。
 
 アムスを出るまでは、アムスにいよう。
 それでいいではないか。
 シナリオライターを志すようなやくざ者は、どこでどんな体験をしようと益なしとはしないのだから。
 
           
  招かれたのは前衛アーティストの正木遙介・美鈴兄妹が住むフラット。オランダ人女子高生アニタ・ヤヌスと、単身赴任中のビジネスマン久能健太郎がすでに来ていました。あとひとり、水島智樹というヴィオラ奏者はオーディションが目前のため欠席。総勢5人ということで。
 
 遙介はしゃべりながらテーブルの上の準備を進めていく。喫煙具の次は、シガレットペーパーらしきものと、薄い油紙のようなもの、オルゴールのような木製の小函。小函の蓋が開くと、中に深緑色の粉末が覗く。遙介はそれを取り上げ、恭司の顔に近づけた。甘い芳香がぷんと漂う。不自然なものではなく、夏の草いきれのような、なつかしささえ誘う匂いだった。  
 
  これが何の集まりかといいますと。インドでハッシッシ(大麻樹脂)を試してえらい目に遭った恭司に正しいドラッグの楽しみ方を手ほどきしよう、というもの。なんたってオランダではソフトドラッグが公に認められているのです。コーヒーショップという名称で営業しソフトドラッグを供する店が、アムステルダムには400軒ほどあるらしい。
 
「確かに、オランダは1976年の麻薬法改正によってソフトドラッグの使用を容認するようになりました。マリファナなんて麻薬としてはザコである、なんていう恥知らずな記述が一部の日本の出版物には載っていたりしますが、元来、大麻は麻薬の範疇に含まれないものですからね。古来、世界中のあちらこちらで日常的に、あるいは宗教的に用いられて、人類の文化のどれほどかの部分の形成に貢献してきたものだし。―でも、オランダの麻薬法にしても、マリファナを煙草やワインと同等に認めるというものでもないんです。いわば限りなく公認に近い黙認。その曖昧さの表れの一つがコーヒーショップという婉曲な呼び名になっているんですよ」  
           
  そのほか、オランダでは同性の結婚が実質公認だったり安楽死制度があったりと、日本ではまだまだ先延ばし、見て見ぬふり状態になっている問題が既に解決されているようです。うーむ、大人な国だなぁ。
 
ともかく、遙介の「手料理」であるジョイント (紙巻のマリファナ。ここではケントをばらし、その葉にマリファナの粉末をまぶしてシガレットペーパーで巻き直しています) をくゆらしはじめるメンバーたち。「そんなんやあかん。深く吸うんや。こわいことあらへん。肺に煙をたっぷり入れてみろ」と言われつつ、恭司もおっかなびっくりで軽くふかしてみます。  
 
   ふっと話し声が途切れ、ピアノの旋律だけが部屋に響く。人間たちの会話に呼応するかのように、曲も弾んだスケルツォから穏やかな曲調に移行するところだった。
 
 どんな微妙なバランスのせいか、灰皿から煙が真っ直ぐに立ち昇っている。甘い香りをした紫色の狼煙(のろし)だ。やがて危うい均衡が崩れ、煙の束はぱらりとほどけて乱れた。
 消された電灯の笠の下で、煙がゆらぐ。ゆっくりだが、恐ろしく複雑な動き。鍵盤上を縦横無尽に這うマウリツィオ・ポリーニの指のようだ、と思いながら恭司はじっと見つめていた。
 
           
  「ほら、あれ、きれい。バレエを踊っているみたい」
 美鈴が同じものを見ながら違う比喩を持ち出す。
「そうね」
「ああ、本当だ」
 アニタと久能も彼女に共感を表明した。なるほど、そう言われてみれば可憐なバレリーナにも見えてくる。
 
そこから遙介が語り出したのは、宇宙における星の運動について。  
 
  「まぁ、そこに浮かんでる煙の粒子の一つみたいなもんや。けど、地球だけがきりきり舞いしてるわけやない。宇宙全体がお互いの力で引き合い、影響を及ぼし合って、猛烈なスピードの複雑な動きを永遠に続けてる。しかも、膨張をしながら。物理学者はそんな宇宙の運動を指して『終わりのない重力のバレエ』と言うことがある」
 
 ――終わりのない重力のバレエ。

 声に出さずに復唱してみると、その一語が詩のように響いた。もしかすると、そのバレエが鑑賞したくて、創造主は宇宙をこしらえ上げたのかもしれない。

 
           
  灰皿からたちのぼるジョイントの煙からバレエを連想し、それが宇宙の果てまで広がって。
 
 ソナタは有名な葬送行進曲の部分に入っていた。この部分はショパンがジョルジュ・サンドとマヨルカ島の僧院で過ごした日々に、すでに作曲されていたと聞いたことがある。不吉であるどころか、それが美しい曲であることはよく承知している。しかし、耳に馴染みの深い弔いの調べが、今宵はこれまでになく素晴らしく聴こえた。体が小刻みに顫(ふる)えてくる。そして、葬列の歩みが天使の慰めのトリオに転じたところで、恭司は息を飲んだ。  
 
   何と深い安らぎと、底知れない慈愛をたたえた旋律。まるで、自分がこれまでかぶってきたすべてのケガレ、これまで犯してきたすべての過ちを浄化してくれるようだ。たった一人の部屋でこの音楽に包まれていたのなら、泣きだしていたかもしれない。
 
美鈴が入れたコーヒーも、味蕾の数が何倍にも増えたかのように味わい深くなり、自分をとりまく様々なものが、その存在の意味合いを肯定的な方向に強めていくのを感じる恭司。にやにやと幸せそうな顔をしているらしい。  
           
  「これで恭司さんの入会の儀式は半ば完了ね。後は私たちの秘密結社に忠誠を誓ってくれればいいだけ。――コーヒーのおかわり、いくらでもあるわよ」
 無意味な軽口にすぎない美鈴の言葉の中の、『儀式』や『秘密』『忠誠』という一語一語が、深遠な思想に至る道標めいたものに感じられる。頭脳の眠っていた部分が覚醒するほどの自覚はなかったが、もぞもぞと寝返りぐらいはうっているような気がした。酒で酔った時とまた種類を異にした心地よい酩酊感と高揚感がじわりじわりと広がってくる。
 
アッパー(興奮剤)とダウナー(抑制剤)に分けられるドラッグのなかで、マリファナはどちらともいえず、本人の体調や心理状態・環境などの状況によってアップ系に作用したりダウン系に作用したり。慣れないうちはとくに、コンディションが悪いとろくな結果にならないとか。
だから、燭台のあかりやショパンのソナタ、仲のよい友だちなどでリラックスした雰囲気を作り、恭司が罪悪感や警戒心を抱えたままジョイントを吸ってバッドトリップしたりしないように、遙介と美鈴が心を砕いていたというわけ。
 
 
  「君は……」
 遙介の髭面がぐっと眼前に迫ってくる。現実には数センチ縮まっただけの距離が、何倍かに拡大して感じられているのだろう。瞳孔の奥まで、いや、それを透過して脳髄の中心まで覗き込むような眼差しだ。
「かなりうまくトビそうやな。これしきのもので相当エンジョイしてるやないか。ああ、羨ましいようなかわいそうなような。まるで鰯の天麩羅を食べて、こんな美味はないと感激してるみたいや」
 
おかげで、恭司のマリファナ再デビューはまずまずうまくいったようですが。このことが、のちのバラバラ殺人事件につながっていこうとは。知らぬが仏とはこのことで、帰宅してからの恭司は美鈴のことをぼんやりと考えています。  
           
   今の今まで認めないできたが、どうやら素直に現実を直視しなくてはならないところまで追いつめられたようだ。随分と久しぶりに、恋に落ちたのかもしれない。そんな交通事故のようなものに遭うのはまっぴらだと思い、努めて美鈴のことは頭から追い払おうとしてきたのに。彼女がいるからずるずるとアムスに居続けてしまっているのだ、と考えないようにしてきたのに。
 今夜見た美鈴の表情、しぐさの一つ一つ、何気ない言葉のひと言ずつが克明に思い出される。
 
 ――金曜日にワーテルロー広場で掘り出してきたのよ。蝋燭つきで二十ギルダー。

 奇妙なことに、白い指が手にしたその燭台に薔薇の浮き彫りが施されていたことも、今になって気がつく。
 ろくなことないって。
 美鈴なんかに惚れたら悲惨の見本だ。水島のおぼっちゃまにかっさらわれて泣かなくてはならない公算が大だ。そうでなければ――ああ、嫌な想像だ――下手なシナリオみたいなどんでん返しをくらうに決まっている。ある日、彼女が申し訳なさそうに告白するのだ。

 
 
   ――ごめんなさいね。わけがあって嘘をついてたけど、遙介は兄貴じゃなくて、私の夫なの。
 はは、本当にそうだったりして。
 睡魔がのび上がってきて――
 溶暗。
 
恭司がその晩にみたのは、不吉な未来を暗示するかのような悪夢でした。今までに何度もみた、人を殺す夢ではなく、殺されてしまう夢。しかも殺されてからも意識があり、正体不明の殺人者に鋸で四肢を切断されるのを感じつづけねばならないという…。  
           
  ……しかし、夢の彼は恐怖するというよりも、あまりの異常な事態にぽかんと呆れていた。何てこったい、と。
 ひどいな、バラバラにされてしまう。
 バラバラになる。
 燭台に薔薇の浮き彫り。
 
 ――金曜日にワーテルロー広場で……

 薔薇薔薇に。

 ――蝋燭つきで二十ギルダー……

 薔  薇       薔         薇。

 
 
  その夢の名残をもとに、翌朝恭司は推理小説を書き始めます。マッドサイエンティストの若き妻が殺されてバラバラ死体で発見されるというストーリー。途中までのその話を読んでくれたのが、件の水島さんなのでした。
 
彼に片想いするアニタからの「電話が欲しい」という伝言をつたえるために、恭司は自分がアルバイトしている日本料理店を訪れた水島をつかまえたのですが。そのあと美鈴と3人で、ダム広場にきているケルミス(移動遊園地)へ遊びに行くことになります。  
           
  「一昨日ここを通った時は、何もなかったのに……」
 恭司は呆れてしまった。観覧車、メリーゴーラウンド、コーヒーカップなどおなじみの乗り物が揃った遊園地ができていた。射的場や福引き、お菓子や飲み物の出店もずらりと並んでいる。広場には明るい歓声と何やらいい匂い、そしてイルミネーションが満ちていた。
 
遊園地―るなぱあく、といえば朔太郎でしょう。
遊園地るなぱあくの午後なりき/楽隊は空にとどろき/廻転木馬の目まぐるしく/なまめくべにのごむ風船……
 
 
  ……美鈴は彼のそんな様子に気づいたふうもなく、「ねぇ」と問いかける。
「水島先生に質問してもいいかしら。人類全員が根っこでつながってるのなら、どうしてみんな、あんなにしょっちゅう淋しがるのよ?」
「さぁね。けど、淋しいね。僕もしょっちゅう淋しい」
「水島さんには音楽があるじゃない」
「音楽だけでは……」
 
 ごく自然のなりゆきなのだろうが、あろうことか水島は恭司の目の前で美鈴に求愛していた。婉曲すぎて彼女の方ではそう理解していないかもしれないが、艶を帯びた彼の言葉が求愛する孔雀のダンスであることが恭司にははっきりと判る。  
           
  アニタが片想いしている水島。その水島の意中にあるのは美鈴。その美鈴を姉のように慕っているアニタ。お互いがお互いの気持ちにまだ気づいていないとはいえ、そのややこしい三角関係のなかに参入してしまった恭司。美鈴の気持ちは誰にあるのだろうか。。。
 
「そうかそうか。鈍感やなぁ、僕は。すみませんでしたね。おごりますよ、山尾さんの分も」
 水島は気のいい調子で言った。
 美鈴のそばにいて、腹がへっていることも忘れてしまっていた。それはいいとしても、自分が空腹であることまで彼女に教えてもらったことは滑稽だ。そんなことまで他人から教わる奴なんて傑作だ。
 
 
   おなかがすいてるような情けない顔してる、だって?それはひどい。
 飢えなくては。
 空腹ではなく、飢えを取り戻さなくては。
 ケルミスの広場でこんなことを考えている者は、自分しかいないだろうが。
 
そんなある日、ヘーレンとカイゼルとプリンセンという3つの運河に死体があがります。おそらく、殺されたのは1人。つまり、バラバラにされて運河に捨てられたってことですね。首が無いので身元の特定はできませんが、遺留品からどうやら日本人らしいと判断されます。  
           
  「そう。しかし、殺した直後にバラバラにしたのではないかもしれない。そうしたのであれば、浮かんでくるのがもっと遅れただろうからな」
「ほう、そうなのか?」
 ドクターは鉤鼻をさすりながら、軽く胸を反らす。
「死体が浮くのは炭酸ガス、一酸化炭素、硫化水素などの腐敗ガスが体内に溜まるからだ。死体が死後ただちにバラバラにされたなら、ガスが体内に留まれず逃げ出すじゃないか。それに、すぐに切断されたならば血液も流出するから、硫化水素が血色素の分解物と化合して硫化鉄を生成することもなく、腐敗網は現れない」
 
死体は語る、んですね。うう、血が騒ぐわ。上野せんせいのご本を読もう。それはさておき。
そうこうしているうちに血痕つきの着衣がみつかり、身元が判明します。財布に入っていたクレジットカードの名前はなんと、トモキ・ミズシマ、というものでした。
 
 
   水島の端正な顔が、白昼夢のように目の前にちらつきだした。それに重なって、ケルミスの喧騒が潮騒のように遠く甦る。美鈴に熱心に話し掛けていた声も。
 あの彼がバラバラに刻まれて運河に浮かんだ。運河に。バラバラで。
 駄目だ。どうしても現実のことだとは思えない。こうしている間にひょいと扉が開いて彼が現れ、すべてがとんでもない間違いだった、というオチをつけてくれないものか、と祈りたくなる。
 
どうして水島が殺されたのか。一体誰が、なんのためにバラバラにしたのか。  
           
  当然のことながら、警察は生前の水島の交友関係を調べます。やってきた二人の刑事に犯行が行われたとおぼしき土曜日の夜のアリバイを訊かれ、「はっきりと覚えています」とこたえる恭司。なんといっても、生まれて初めての体験をした夜、祝祭の夜だったのですから。
 
ドラッグでうまくトビそうだと遙介に見込まれた(?)恭司は、自ら望んだわけではありませんが、アニタの兄・ロンが経営する水上コーヒーショップに招待されていたのです。遙介に連れられて訪ねたのは、運河に浮かぶハウスボート『ウマグマ』。当夜は臨時休業中で主のロンしかおらず、つまりは貸切状態。  
 
   目が馴れてくると、カウンターに大きな俎板と包丁がでんとのっているのが見えた。俎板の上には、茶色い板チョコに似たもの。あれがどうやらハッシッシの塊らしい。ロンは包丁を握り、カウンターの外からその茶色い板をガシガシと削りだした。堅いもののようだ。必要な部分を削ると、彼はそれを指先で丹念に練ってから、ジョイントを作り、テーブルまで持ってきてくれる。
 「はい。今日のお客様はビギナーだから、吸えばいいようにしてあげたよ。モロッコから仕入れたばかりの奴だ。いい品だよ。まず軽くどうぞ」
 
アムスと大阪の共通点や都市論、遙介が育った大阪・生野についてなど、二人でとりとめなく喋っているうちに、ハッシッシが徐々に効いてきたらしい恭司。ロンが、コーヒーのおかわりと葉っぱの詰まったパイプ、目薬の小瓶のようなものを運んできます。  
           
  「二人して月の言葉で何をぺちゃくちゃ話してるのか知らないけど、これを試してくれ。今度のコーヒーにはシンセミアがたっぷり入ってる。ファンタスティックなトビが経験できるよ。こっちのパイプに詰めてあるのもシンセミアだ。ハイになりかけたら、この瓶の蓋をはずして匂いを嗅ぐといい」
 
「何なんだ?」
 聞いても判らないだろうが、マスターには解説する義務があるだろう。
「ブチル・ニトライト。家畜用の消毒剤さ。気化した奴を鼻で吸えば、ケツを叩かれたように駈け上がれる。おまけのおやつだよ」
 
 
  シンセミアというのは、有効成分THCの含有量によって4ランクに分かれるマリファナのうち、最も純度が高い極上品だそうです。
 
コーヒーを口にふくみ、カップを置いてすぐに、体がぐらりと右にゆらぐのを感じた。トビかけているのか、と周囲に目をやると、壁がゆっくり一方に歪みだしている。まるで巨人の両手に掴まれ、時計の針と同じ方向にねじられているかのようだ。天井と床にも、それに呼応する形で渦巻き状の湾曲が生じている。  
           
   様子がおかしい。これまで軽くふかしたのとはだいぶ違うぞ、と思いながら、強くかぶりを振ってみた。と、体の中から、何か未知の力が静かに満ちてきているのを感じて、恭司は生唾を呑む。ひたひたと込み上げてくるものは決して恐怖すべきものではなく、友好を求めて乾いた大きな手を差し出しているように思えたから。
 
 よし、握手しようじゃないか。
 彼はシンセミア入りの煙を思いきりふかした。
 さぁ、かかってこい、だ。THC(テトラヒドロカンナビノール)っていう成分がお前の正体なんだってな。こいよ。脳味噌の奥まで染み通れ。俺をどこかへ連れていってくれ。トバせてくれ。
 
 
  すっかりやる気に満ち満ちている恭司さん。これだけ覚悟決まってればさぞかし盛大にトベることでせう。
 
「それにしてもあいつが隠し妻や
             笑てんな 美
         とんせわ     鈴
         い
   そ     てくれよ。スキャ
   う              ン
   や の気とっも、もてしにルダ
   ろ 効いたのがあ
   、        り
   恭       そうな
   司          も
   君          んや。
                 まさか
      ケルミスの……   約節
                 の
 てり借をトッラフのドッベ2にめた
 る
 こ
 と
 が誤解の種なんやないんや
        てし弁勘。なうろ   水
        く            島
        れ」

 遙介の話はまるで十二音階の現代音楽のようにねじくれたまま続く。

 
           
  わおー。筒井康隆『七瀬ふたたび』みたい。縦書きだともっと奇妙な文字列になるんですが、横にすると簡単に読めちゃってちょっと残念。
 
 幻覚だから当たり前だが、遙介の目には、部屋の隅に漂う天使をのせた雲は映っていないらしい。あれは自分が生み出したもの、他の誰のものでもない、自分だけのものなのだ、と思うと、心の底から温かい感激が湧いてきて、うっとりとちぎれ雲を見上げ続けた。  
 
   あまりに小さくて表情を読み取ることはかなわないが、天使にはちゃんと目も鼻も口も、睫毛や産毛までも備わっているのが確信できる。縮小されたものは美しい。ミニチュアカーから、盆栽、切手に至るまで、小さきものが人を魅了するのは、多量の収集が可能だからではない。縮小されて原型よりも美しさが増しているからだ。
 俺の雲、俺の天使。
 
というぐあいに、すっかりマリファナと仲良しになって、祝祭は真夜中過ぎまで続いていたのでした。  
           
  これで3人は、店を出るまでのお互いのアリバイを証明する形になりますが、その後はそれぞれ1人で過ごしたため恭司とロンのアリバイはなし。一方、遙介はアトリエに引き返して創作に戻ったらしい。大声で歌いながらハンマーやガスバーナーを振り回していたため、建物中の人々が迷惑していたそうな。
 
「そう。兄貴は眠らなかった。土曜の夜だけじゃなく、日曜の夜も。アトリエで騒音をたてて、大勢の仲間の安眠を妨害しながら、馬鹿げたオブジェを創ってた。――何か使ってたの?」
 恭司には、彼女の質問の意味が判らなかった。遙介が鼻の穴に人差し指をつっ込むポーズの意味も。
 
 
  「コカイン?」
「そう」と兄は妹に向かって頷く。
「嘘よ。コカインで二徹もできるはずがない。スピードをやってたんでしょ?」
 スピードが覚醒剤を指すスラングであることぐらいは恭司も知っていた。
 兄は、苦笑いで肯定を表明する。
 
やけにつっかかるというか、攻撃的な口調の美鈴。「兄貴にスピードをやらないで」と、ロンに対しても毅然として言い放ちます。  
           
  「あなたの店にあってはならないものよね。おかしなものを扱ってると、今度は店に麻薬捜査課の刑事がくることになるわよ」
「おい、美鈴、脅さないでくれ。たまたま手許にあっただけなんだ。判った。もう、遙介には渡さない」
 約束させて気がすんだらしい彼女は、くるりと顔を恭司に向けた。
「好奇心もほどほどにね。どうも兄貴はあなたにクスリをやらせるのに熱心すぎる。ハードなのはやめるのよ」
 
ここで少しひっかかる恭司。どうも兄貴はあなたにクスリをやらせるのに熱心すぎる、とはどういうことだろう?遙介のドラッグの勧め方が、彼女には不自然に見えるのだろうか?といっても、勧められた機会は3回だけ。ドラッグ入門パーティを開いてくれたこと、土産がわりにひと晩遊べる程度のグラスをくれたこと、そしてロンの店に連れていかれたこと。しかし。  
 
  形にならない疑念がだんだんと膨らんでくる恭司。アニタも、何かにおびえて美鈴に相談したがっているらしい。そして、当の美鈴もこのところ様子がおかしいのだ。1人きりでいるのがやりきれないからと恭司をひっぱってきて、らしくもなく「ジョイントを一緒にやろう」と。
 
 思いがけない誘いだった。誘いというより、彼女の眼は哀願している。何故、と訊くほど愚かなことはなかった。
 恭司は黙って立ち、燭台の五本の蝋燭にライターで火を灯した。美鈴は部屋の反対側に歩いていって、明かりを消す。向き直った二人の視線がほの暗いダイニングの中央で、触れ合うようにぶつかるのが恭司には判った。
 
           
   彼は燭台をテーブルまで運ぶ。美鈴はそこからジョイントの火を受けて、一度深くふかしてから、それを差し出す。吸い口の部分に、ごく薄くルージュの跡がついていた。
「君も何かをこわがってる。俺だけが鈍感で判らない不吉な気配に、君もアニタも気づいてる」
「そうよ。こわい。不治の病の宣告が待ってるような、残忍なほど嫌な予感がする」
 自分の分に火を点ける彼女の指は、顫えているように見えた。
 
抱えきれない不安をぶつけあうかのように、一夜をともにする2人。翌朝彼らが目にしたのは隣人の縊死体でした……。騒がしくされると死にたくなる、というのが口癖だったノイローゼ気味の詩人が、ハーク (荷物を吊り下げるために軒下から突き出した滑車つきの桁)の先で頸をくくって揺れていたのです。  
 
   ――ハーク。ハーク。ハーク。
 何十というハークが行く手に突き出している。そのすべてに、痩せた詩人の亡骸(なきがら)がぶら下がっている幻が視えた。
 
 ――詩人。詩人。詩人。
 あっけなく飛び去っていった男の顔は、記憶に霧がかかってどうしても思い出せない。ぶら下がって揺れているシルエットだけが脳裏に焼きついてしまったからなのか。不吉な幻影だ。
 ハークから目をそむけ、運河に顔を向ける。鈍色(にびいろ)の川面は枯葉を浮かべたまま、ゆったりとアムステル川へ流れていた。
 
           
   枯葉と、切断された腕を、脚を、胴を、水島の頭を浮かべたまま。運河が屍(しかばね)を運んでいく。腕が、脚が、頭があちらこちらから流れてきて、海を目指す。死臭を水に溶かしながら、海へと。
 ――腕が。脚が。頭が。
 よせ。
 もうたくさんだ。
 
水島の事件についてロンに確かめたいことがあった恭司はハウスボートを訪ねますが、主は不在。たまたま開いていたドアから中へ入り、あることに気づいて愕然とします。
思い違いか。いや、納得がいかない。どういうことなのか知りたい。ドラッグの功能について尋ねるため、“ネクタイを締めたマリファナ博士”久能に電話をします。
 
 
  「さっきも言いましたが、クスリの反応には個人差が大きいし、その時のコンディションにも左右されるから断定的に語ることはできません。でも、あなたがやったのはまるで幻覚剤というか、精神展開薬みたいですね。アシッドみたいなサイケデリックス」
 
「アシッドって、何でしたっけ?」
「エルですよ。LSD。覚醒剤と同じく、ロンの店にあってはまずいクスリですけどね。どうもそれっぽいなぁ。――彼や遙介さんはそういわなかったんでしょ?」
「ひと言も」
 
           
  「でも……アシッドは粘膜から吸収されるんですか?」
「ええ。なめる、噛む、しゃぶる、なんでもありですよ。食べても効くし無害です。――いや、僕は幻覚剤なんてハードなものは趣味じゃありませんから、ほんのわずかな経験しかありませんよ」
 
あの祝祭の夜の恭司は幻覚剤のせいで微細な天使を見ていたらしい。さまざまなことを考え合わせ、導き出される答えは・・・。そのことに気づきながらも直視できず、怯えていた美鈴。  
 
  やがて別々に帰国し、1年半ぶりに大阪で再会したふたり。真相を再確認し、一気に悲劇的な結末へ。冒頭の、バラバラ死体投棄シーンへ戻って完結するのでした。
 
「人間は……そんなふうに誰かを憎めないさ。あり得ないよ」
「人間は殉教する生きものよ」
 美鈴はどこか昂然として言い放った。
「そんな妄想だけで人を殺したりできるもんか」
「殺すことが相手にとっても慈悲になると信じれば、できる」
 
           
   五月の宵だというのに、二人は顫えていた。まるで、氷室の中にいるかのように、顫えをこらえることができずにいた。
 
――あなたがどうしてこんなにつらい目に遭わなくっちゃならないのか、判らない。  
 
  読み終える頃にはすっかり滂沱の涙。ただの猟奇殺人モノじゃぁないんです。全部は書けないのが歯がゆい(とか言いながら充分書いとるがな)けど、もうちょっとどうにかなれへんもんか、、、なれへんからこうなってんやんなぁ、、、でもなぁ、、、という。理屈ではわりきれない、フクザツな想いを抱くエンディングでございました。
 
本格ミステリとしてきちんと構成されている小説ではあるのですが、推理小説を読んだというより、なんだか、美しい悪夢のような幻想的な世界ををひたすら彷徨っていたような気分。。。それこそドラッグでトリップしているかのような、心地よいような苦しいような。不思議な世界。  
           
  それにしても、今回は書きすぎです。しんどかったー・・・。好きな気持ちをあらわそうとすると、あれもこれもどこもかしこも書きたくなって欲張りに。手を加えれば加えるほど長くなっていって、まとめようがなかったのさ。またもネタをばらしまくってしまいました。ごめんなさい。
 
 
( 2001/10/28 )
 

一本の薔薇は薔薇であり薔薇である。

――薔薇ローゼン通りの薔薇薔 薇  薔   薇

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