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狂乱廿四孝
北森 鴻
角川文庫

『狂乱廿四孝』 表紙


 
今回は歌舞伎ミステリです。
池波正太郎 『仕掛人・藤枝梅安』シリーズが、私の時代小説初体験。その後、鬼平・剣客を始めとする他の池波作品は勿論、岡本綺堂『半七捕物帖』から平岩弓枝『御宿かわせみ』まで、時代物にも色々あるのねぇと思いながらあれこれ手を出しましたが。舞台とされるのが例えば江戸時代だったりするだけで、結局私は推理ものが好きなのだということが判明。
 
           
  誰かが殺されたり行方不明になったりという事件がまず起こり、その謎を解きたい(…というより、いつも自分で解けた試しがないのでどちらかというと種明かしを読みたい)一心で最後まで突き進んでしまいます。謎解きのスリルや面白さに加えて、昔の言葉遣いや食べ物なんかで江戸っ子気分を楽しめるおまけがついてくる、という感じかな。
 
狂乱廿四孝きょうらんにじゅうしこう』は、時代物には珍しい明治初期が舞台のお話。おおまかな筋は手抜きして、解説者西上心太氏の文章をお借りすることに。すんまへん。ではドウゾ。  
 
   明治三年十月、猿若町の守田座は大変な賑わいだった。脱疽のため右足に続き左足を切断した名女形、三代目澤村田之助の復帰舞台の幕が開こうとしていたのだ。演じるは「本朝廿四孝」の八重垣姫。大道具方長谷川勘兵衛の苦心の仕掛により、田之助の八重垣姫は足があるかのように動き回り、見物の驚きを誘っていた。だが公演中に、田之助の主治医が惨殺されるという事件が起きた。また入獄中の狂画師河鍋狂斎から届けられた幽霊画に心を奪われていた尾上菊五郎も襲撃された。半年ほど前、似たような手口で大部屋の役者が殺されており、その事件との関連も考えられた。さらに森田座をはじめ、並びあう三座に何者かが放火するなど、芝居町にあいついで異変が起きるのだった。そしてまた新たな殺人が……。
 狂斎の幽霊画にはどのような秘密が隠されているのか。守田座の座付き作者河竹新七、その弟子のお峯、戯作者仮名垣魯文、元同心の水無瀬源三郎らは、芝居町を守るために立ち上がるのだった。
 
ふぅむ、成る程、こういうお話だったのかー。。。私は読んでいるとついつい思考が狭窄してしまい、全体を見渡すことが苦手。といって、ディテイルを的確に把握しているかというとそうでもなく、伏線を見逃すことなんてしょっちゅう。このようにすっきりとまとめておられるのを見ると、ハハァ恐れ入りました、と平伏してしまうのだ。しかし、とにかく先が知りたい、と急いで読むので話の筋をすぐ忘れ(ひどい時には犯人すらも忘れる)、次に読むときには再び「誰が犯人かしら?」とわくわくできる利点もあります。一冊で二度三度美味しい。  
           
  さてこのお話、ヒロインお峯ちゃんと同心の源三郎以外、すべて実在の人物だそうですが。
なんといってもイチオシは名女形・澤村田之助でしょう。男でもあり女でもあるという境界線上のあやうい魅力、なんとも堪りません。そこにいるだけで視線を一身に集めてしまう。誰もが振り返らずにはおれない、強烈なオーラを放つ女形。ぞくぞくしますねェ。
 
澤村田之助。その名前を知らぬ女が、この江戸 ―今でも東京なんて名前で呼ぶものはこの猿若町にはあまりいない― にいったいどれくらいいるのだろうか。わずか十六歳で守田座の立女形(たておやま)にまでのぼりつめた、天才役者だ。面の良さ、凛々と舞台に響き渡る口跡の良さに加えて、甘い凄みを具(そな)えた睨みが、どれほどの乙女の胸をかきむしったことか。  
 
  そのあまりの美しさを神仏が妬んだものか、舞台で負った小さな傷がもとで、田之助は足に脱疽(壊疽)をわずらってしまうのです。切るの切らないのと揉めた揚句、慶応3年、横浜の医師ヘボンにより右足を切断。が、残酷にも病魔は田之助を解放してくれず、明治2年には左足を切断。
 
役者は顔が命とはよく言いますが、足をなくすことはそれにも増して役者生命を脅かすものなのです。立って動き回れないとなるとどうしても役が制限されますし。
「澤村田之助は終わった」と感じた座元たちは華やかな引退興行を、とすすめます。ところが田之助はそう簡単に諦める人間ではなかった。
 
 
  「引きの興行とは誰のだい?あたしゃまだやるよ」
 とひと言、これですべての目論見をひっくり返してしまった。
「それは願ってもないことだが太夫、両足もないじゃ……」
 守田勘弥の目は、暗に『役者は無理』だと言っていた。
「足がないがどうした、いつから芝居の本 ―脚本― はそれほど狭いものになったんだ。世に洗いざらいの本をすべてひっくり返して、それでもあたしのやる役が見つからないならフン、其水
(きすい)んところで新作を書かせればよいだけのことさね」
 
うーん、おっとこまえ〜!其水というのは、守田座の座付き作者・河竹新七(後の黙阿弥)のことで、カンタンに呼捨できる人物ではないらしい。こんな生意気な口をたたいても、周囲は何故か許してしまう。それだけの技量をもつ役者なんですね。  
朱塗り七寸の長煙管を片手に平然と言い放つ田之助に、その瞬間お峯は感動にも似た恋慕を抱くようになった。(この人の我がままは、人を引きるける我がままだ。人は田之助を中心に、回ったり、絡まったり、走ったりするんだ)
と、お峯ちゃんも申しております。
           
  もうひとつ、ぞくぞくするこんな場面も。
 
同じ中村座で座頭を張る尾上菊五郎と河原崎権之助。それぞれの弟子達が田之助に祝いの口上を述べるため、守田座へやってきたのだが、タイミング悪くかちあってしまった。中二階の楽屋へは狭い楽屋梯子を上らねばならないため、どちらも先を譲るまいと言い争っている。一旦は権之助の仲裁(=「ウチのもんを先に行かせてもらうぜ」という暗黙の圧力)により騒ぎがおさまりかけたものの、そこへ田之助登場。  
 
  「大きな声で騒ぐない」
 疲れを含んだ声で言った。
 階段より下は左右を男衆に抱きかかえられるように歩く。ヒョコタン、ヒョコタンと左右の支えを杖代わりにして、権之助の前に立ったのは先程まで舞台にいた澤村田之助だ。厚いおしろいを落とした今も、目元と口元には薄く化粧を刷
(は)いている。そんなことをしなくても十分に美しい顔が、薄化粧の力を借りて凄まじいほどあだっぽい。
「こんなところで騒ぎを起こして、興行がオシャカになったらただじゃおかねぇぞ、え?」
 
「幕間がどうかしたって?舞台さえあればよ、幕間が長かろうと短かろうとそれくれぇ。それくれぇ、
なぁ……」
 若い衆の一人の耳元で、ささやくように言った。男のものと言うには余りに小さく、華奢な手の甲で相手の頬をぴたぴたとなぶる。若い衆の表情に怯えと怒りと陶酔とが同居して、今にも顔ごとはじけそうになる。ほかの相手に同じことをされたら、たとえ師匠筋でも許さないのではないか。それほど激しい気性を持つ若い衆が、声も失うほどのなまめかしさが、田之助にはある。なまめかしさだけではない。
 
           
   薄く引いた紅の匂いに混じって、人の気持ちを狂わせずには置かない破滅的な匂いが、新七のところにも漂ってきた。最近田之助が常用を始めた大門脇富田屋の『延命膏薬』の匂い、そして、
(今も進行止まぬ病気によって、肉体が少しずつ腐ってゆく匂いである)
ことを、小屋の関係者なら誰でも知っている。あまりの凄絶さに周囲は水を打ったように静かになる。
 
く〜っ、この退廃美!じわじわとしのびよる死の影によっていっそう強く漂う、凄まじいまでの色香です。完璧に整った美しい顔、ほっそりと華奢な体つき、そのへんの生身の女よりずっと女らしい田之助がべらんめえな話し方をすると余計色っぽくて、ヤバイ。もう。ほんまに。  
 
  ふぅ。田之助の色香に酔うのはこれくらいにしておいて。
この物語において田之助が色気担当だとしたら、頭脳担当はお峯ちゃん。お芝居を観たいと小屋に出入りするうち「あたしは狂言作者になりたい!」と言い出した、蝋燭問屋の一人娘なんです。(母親はいまだに弟子入りには反対中…。)頭の回転が速く、まさに好奇心の塊。事件の謎を探る流れを作り、一気にひっぱってくパワーを感じます。
 
そのお師匠さん、河竹新七はその上をゆく頭脳派で、早朝小屋にやってきたお峯の顔もろくすっぽ見ないうちから「お腹がすいたのなら、賄い方のところに行っておいで。そんなしけた顔をされたのでは、こちらまで気が滅入ってしまいそうだ」と言い当ててしまうようなお人。  
           
  「アレ、どうしてそれが?」
「帯の模様だよ。桔梗の花の柄がいつもより左にずれて見える。急いで支度してきたこともあろうが、朝飯を食べていないせいだと、思っただけだ」
・・・なぁんて、オマエはシャーロックホームズかっ!ってな場面もありますが、何やら事情もあるらしく、好奇心のおもむくままに動くのはやはりお峯。純でまっすぐで、
 
小屋の熱気がまた少し膨れ上がったようだ。舞台に向けられる視線が、はっきりと形を持つほど、熱い。狐の妖力を借りた八重垣姫が、一気に諏訪湖を飛び越えようとする場面だ。舞台の最後の盛り上がりに向けて、客も役者も裏方も、小屋に息づく全ての人が一体となる。
(このひとときが、堪らない)
 と、お峯は思うのだ。もしもこれが自分の手になる狂言だったなら、舞台の役者があの田之助だったなら、そう考えるだけでお峯の頭の中には白いもやがかかりそうになる。もしもそんなことが叶うなら、次の瞬間にでも息絶えて悔いはない。
 
 
  と思うほど田之助や歌舞伎が大好き。だからこそ事件を抛っておくことができず、正義感抱えてつっぱしる。
 
 お峯には、好奇心が強すぎるところがある。
(それが危険なのだ)
 新七は、この一年お峯を見てきて、その頭の回転の速さに舌を巻くことがしばしばあった。しかも好奇心が人一倍強いとなれば、狂言作者としての、
(才能が隠されている)
 ということは間違いがない。
 
           
  「ですがお峯ちゃん、このままでは自分一人で今度の騒ぎの下手人を探し出そうとするにちがいありません」
「それは本当かね」
「好きなんですよ。お峯ちゃんはそうしたことが」
 留吉の言葉が、容易に理解できる。正しくお峯は『探索仕事』が好きなのだ。
「このままでは、かえって危険な目に遭いそうで、見ていられません。なんとか小屋に繋げておいたほうが」
 
・・・と、お峯の身を案じる関係者によって、なるべく探索から遠ざかるよう仕向けられます。でも実は、身の安全をはかるという理由だけではないんですけどね。新七は、お峯に真相を突きとめてほしくないのです。怪しいでしょ?でも、新七が犯人なのかそうでないのかは最後までわかりません(こういう仕掛けぐらいは私だって気づくのだ…って自慢にもならないけど)。あくまでも灰色なまま、読者に曖昧な疑いを抱かせつつお話は進むのであった。  
 
  そうそう、忘れてはならない重要な小道具がひとつ。河鍋狂斎(後の暁斎)による不気味な絵(文庫の表紙にもなってます)。狂斎はどうやらこの中に判じものを隠したらしい。
 
 幽霊画である。画面の左手に行灯(あんどん)を配し、そのぼんやりとした光の中に老婆の幽霊が浮かんでいる。
 光の加減に応じて左右の瞳の色を違えて書いてあるところへ持ってきて、目元に浮かんだ恨みの念が恐ろしく写実的で、見るものの背中をゾクリとなで上げる。応挙の幽霊画が哀れさの中に恐怖を見せるとすれば、狂斎のこの絵は、人が心の中に持つ罪悪感を幾層倍にもふくらませて、苦しめるようだ。
 
           
  かさねや四ツ谷怪談を持ち芸とする尾上菊五郎には幽霊画を集める趣味があり、それを知った狂斎が、「これまで五世が見たこともない幽霊画を御覧にいれましょう」と仕上げた作品。そして、絵が届いてふた月もたってから、妙な手紙が菊五郎のもとに届きます。差出人は狂斎、文面はただ「如何」とだけ。
 
出来の良し悪しを問うているにしては時期がずれすぎているし、そういえば絵にもおかしな点がある。行灯の位置からすると影のつき方が妙だと。西洋画を学び、遠近法を日本画にとり入れたりしている狂斎が、こんなばかな間違いを犯すはずがない。隠されたメッセージは何なのか、と新七とともに幽霊画を見つめるうち、突如、何事かに気づいた菊五郎が動揺をあらわにします。  
 
  「まさか、こんなことが」
と、ようやく声を漏らしたのはしばらくたってからだ。だが言葉もそこまでで、後は血の気を失った唇が動くのだが、声にはならなかった。菊五郎はよろよろと立ち上がり、座敷にしつらえた縁側まで歩いて、そこでぺたりと腰を落とした。
「音羽屋さん、菊五郎さん、いったいなにがどうなって……?」
 
新七がいくら尋ねても、今日のことはなかったことにしてくれ、菊五郎の生涯の頼みと思って幽霊画のことは忘れてくれ、と言うばかり。あとは貝のように口を閉ざしてしまうのです。
なんちゅう思わせぶりな菊五郎。この絵の中に一体何が隠されているのか。気になってしょうがないよ。読みながら、何度本屋のカバーをはずして表紙をまじまじと眺めたことか。
 
           
  次々と起こる殺人の犯人を知りたい、というより、判じものの謎を解きたい!って気持ちの方が私は強かったかも。隠されていたのは、歌舞伎ならではのメッセージでした。なるほどーってね。ふふふ、気になる人は本、読んでね。
 
この後も、田之助の主治医・加倉井蕪庵が殺され、尾上菊五郎が襲われ、死体は三つ四つと増えてゆき、、、ついには真相に近づきつつあるお峯も闇討ちに遭います。しかし、へこたれるお峯ちゃんじゃあありません。田之助や守田座を大切に思えばこそ、直視するには辛い真相をついに解明。  
 
  幽霊画に隠された判じものや、足のない田之助を舞台で自在に動かすからくりなど、さまざまな要素が複雑に絡んで事件を謎めかしていたのでした。細かいところをつい読み飛ばす私、種明かしの場面では「ほぅ〜」「へぇ〜」とか感心しながら、実は半分も理解していなかったりして。読み応えのある細かい仕掛けがいっぱい。こりゃ、充分もう一回読めるな。
 
おまけ。師匠とお峯のこんなほほえましいシーンもあります。  
 湯飲みを二つ、そこへ酒をなみなみと注ぐ。これまで白酒や、正月のおとそぐらいは飲んだことがあるが、本物の酒は初めてだ。そのことを知ってか知らずか、新七の注ぎ方には遠慮がない。自ら湯飲みの日本酒を一気に飲んでみせ、お峯にも「さぁ」と目で促した。
「いただきます」
 飲む前に酒の表面をふっと吹く。歌舞伎の仕種の一つだ。嘘か本当か知らないが、こうして表面を吹くと、酒の気が抜けて量がたくさん飲めるのだそうだ。一口飲んで、そのまま喉に流しこむ。
           
  「お峯はずいぶんといける口かもしれないね」
 喉から胸にかけて、ぽっと火が点った。それがうれしい。
(こんな気持ちがほしかったのか)
 酒が好きで好きでたまらない河鍋狂斎のような人はともかく、河原崎権之助や澤村田之助のように、さして好きでもない酒を人が飲むのはなぜだろうかと、不思議に思っていた。
 河竹新七にしても、酒を自ら嗜む習慣がほとんどないくせにこうして仕事場に徳利を置いている。
 
(だけど、心の中が寒くて仕方がないときに、ほんのわずかでも暖かさを与えてくれるんだ、お酒は)
 もう一口飲んだ。新七が特別に部屋においている酒だからきっと上等なのだろう。口に含むと柔らかい香りが広がる。飲み込んでも、喉に引っかかることなく胃にすとんと落ちる。そこで暖かい火を点す。そしてまた飲む、この連続だ。
 
 
  うーん、弱いくせにお酒が好きな私としてはうんうんと頷ける一場面です。飲みたいなぁって思うときは、お酒自体の味を求めるというより、飲んだときの幸せな気持ちを味わいたいな、ということだと思うんですけど。。。呑み助の言い訳?
 
最後に、ふたたび田之助太夫について。(だって好きなんだもん・・・)  
           
  澤村田之助は、両足を切断したのちさらに両手を失っても舞台に立ちつづけ、最後には狂死したと伝えられるそうな。悲劇的という言葉では到底言い尽くせない、凄絶な生涯。美しい生き物ほど長くは生きられないものなんでしょうか。。今現在、とっくに故人だということはわかっているのに、それでもなんだか、どうにかならないものかと思ってしまいます。
 
河竹新七が田之助について語った言葉。  
 時には男も顔負けの修羅場を演じ、そのくせ惚れた男の前では乙女のような恥じらいさえ見せる、静と動、血と華との二面を、田之助は一つの肉体で完璧に演じ分けた。今も出刃包丁片手にお富が、男に迫る場面の艶(えん)な姿は語り草となっている。
 元は男が女になり切る不自然窮まりない世界である。一線を超えれば醜悪でしかない。美と醜悪との端境を、芸と言う振子を持って澤村田之助は駆け抜けてゆく。
 
  田之助の女房、お貞の言葉。
「いつだったかな、田之助が夜中にぽつんと言ったの。私に聞かせるためじゃないと思う、きっと独言ね。
 『咲くだけ咲いたら、あとは散るのを待つばかり。しょせん役者は椿の花か』
って。あと何年、今のような所帯ごっこが続けられるかわからないけど、私は最後の瞬間まで、澤村田之助の女房でいたいと、その時思った」
 
そして、物語の終わりに、田之助が宙を見据えながらつぶやいた言葉です。  
 「そうさ、足が無いぐらいどうってこたぁない。よしんば両手を切ったところで、この澤村田之助が舞台を下りるわけがないんだ。強い薬を使おうが、複雑怪奇なからくりを使おうが、澤村田之助は、舞台にあってこそ澤村田之助なのだから」
 
  いよっ、紀伊国屋ぁ!(涙、涙……)
 
 
( 2001/9/30 )
 

歌舞伎座。

月も朧に白魚の、霞もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持ちよくついうかうかと、
浮かれ烏の只一羽、ねぐらに帰る川端で、竿の滴か濡手に粟……『三人吉三巴白波』

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