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夜を喰らう
トニーノ・ベナキスタ
藤田 真利子 訳
ハヤカワ文庫

『夜を喰らう』 表紙

 
今回は、タイトルに惚れました。夜を喰らう。なんだか猟奇でシュールな響き。  
           
  初めて見た時、うーむ、どうも気になるなーと。パラパラとめくってみて、今すぐ買うほどでもないか、と、いったんは棚に戻し。でも、次に見かけるとやっぱり手を伸ばさずにはいられない。本屋に行くたびそんなことをくりかえしておりました。しかし『懸案事項』にしているうちに店頭から姿を消してしまって悔やんだことは幾度もある。経験から学ばねば。どうしても気になるってことは「呼ばれてる」ってことだ、と漸く観念してレジへ持って行ったのでした。
 
読んでみるとこれが、なーんだか不思議なタッチのお話なんですよ。主人公アントワーヌは、いささか風変わりな路上生活者。住所不定・無職、毎日気ままに漂っている根無し草。  
 
   そんなわけでおれが楽しめるのは、相棒と同じく、太陽とそよ風、噴水の音、街のぶらぶら歩き、ベンチに置き忘れられた新聞くらいのものだ。コンコルド広場のオベリスクを眺めてぼうっとしている若い観光客に時間を尋ねると英語で答えが返ってきた。
 
一瞬、おれが案内してそいつらに見せてやれるもののことを考えた。ガイドブックに載っていないパリ。誰も見ようとしない光景、ホットな界隈から離れたあったかみのある小道、楽しいけれど何も起きない街角、外国にいるような暮らしのある通り、足を留める価値もないような場所、時が止まってしまったようなビストロ、なくてもいい交差点、すぐ忘れてしまうような出来事ばかりの大通り。  
 
  失業者・宿無し・寄生虫・ゲイトクラッシャー・春の燕・一文無しなどなど、いろんな風に呼ばれているアントワーヌがどうやって暮らしているかといいますと。。。相棒のロレンスとともに、タキシードを着込んで招待客を装い、あちこちのパーティにもぐりこんでは、
 
これが何を祝ってのパーティなのかさえ知らない。なにかを祝うために来たわけじゃないからだ。寄生虫は飢えている。それが寄生虫の存在理由だ。そして、まっすぐ目の前に、おれは幸福を見つけた。人だかりの向こうに、見事に並んでいるそれしか目に入らない。
“ビュッフェ。”
 おれたちの餌だ。六月に恵みあれ。さあやるぞ。この料理を食い尽くし、神様のもとに返してやる。スイスの財産バンザイ。
 
 
  ・・といった具合に、キャビアやシャンパンを貪る生活。
ところがある日、首尾よくもぐりこんだはずのパーティで素性がばれて叩きのめされた揚句、マジックミラーの裏側にある怪しげな部屋に監禁され。パーティ主催者の狂信的な富豪に、ジョルダンという男を捜し出すよう命じられます。
 
「警察?……警察には首を突っ込んでほしくない理由があるのだよ。詳しい話をしても、君たちはきっと信じないだろう。だが私立探偵のほうは、そう、試してみた。同時に三人の探偵を雇った。四ヵ月間だ。四ヵ月で、人を探すどころが自分がどこにいるかもわからなくなる始末だ。それも当然だった。パリの夜を知り尽くすには、誰か知り合い、案内してくれる人間、手懸かりが必要なのだ。……(中略)……パリでは、無名だというのは最悪だ。そんなことはわたしが言わなくても君たちは身に沁みているだろう。調査会社に勤めるサラリーマンにはどうやっても中に入り込めない」  
 
   そのとおりだ。男が強調する最初の論点、それは影響力の法則だ。いくら金があっても、しっかりしたネットワークがなければ、しかるべき時にしかるべき場所にいることはできない。探偵がパーティの世界に入り込むには、相当な武器が必要なのだ。パラドックスその一、ベージュのレインコートよりタキシードのほうが目立たない。パラドックスその二、必死に探れば探るほど人は口を閉じる。パラドックスその三、エチケットとも呼ばれるラベルがなければ、分類されて閉め出されてしまう。
「誰か、背景に溶け込める人間が必要なのだ。君たち以上にぴったりの人間は見つかりそうにない。それに、君たちには切り札がある。ジョルダンの友達だ」
 
どんなに「ジョルダンの居場所など知らない」と言い張っても聞き入れられず、相棒ロレンスを人質にとられた彼は、否応なくそしてあてもなく夜のパリを彷徨うことになるのです。  
 
  知り合いのエティエンヌに助けを求め、一緒に捜索を始めるアントワーヌ。手懸かりともいえないお粗末なとっかかりは、ジョルダンがブラディマリーを偏愛していたこと。
 
エティエンヌが男を手招きした。
「ねえ、ブラディマリーの専門家ってのはあんたかい?」
 続きを言う暇はなかった。突撃。シェーカーが閃き、冷蔵庫に一蹴り、瓶が放り出され、トマトジュースの二回宙返りから三角のグラスに宙を飛んでの着地。エティエンヌは手を振っていたが、ブツはすでに目の前にあった。
「ウォッカを入れるところは見なかったな」と、おれは言った。
エティエンヌは一口飲んで顔をしかめた。
「入ってる」
 
 
  富豪から与えられた金をチップとしてばらまきながらバーやナイトクラブなどを虱潰しにあたっていくと、ジョルダンの吸血鬼めいた足跡があちこちに残されていることがわかります。
 
「すごく鮮やかな思い出を残してくれたよ。見たいか?」
 彼はTシャツの襟ぐりを肩まで広げた。消えかかった傷痕が一つ。だけど卵形の顎の痕がまだ残っていた。おれは指先で触ってみた。見てるだけじゃ気がすまなかったのだ。
「噛みつかれたのは鎖骨だけど、あの畜生が狙ってたのは頸動脈だと思うね。女といっしょだった。売春婦みたいなタイプの女で、不機嫌な顔をしてた。三十そこそこでなんでも見たような気になって、世の中は糞だめで、あんたはクソよ、みたいなことを考えてるタイプだよ」
「美人?」
 
 
  「下品だね。魅力はあったよ。黒いスーツ、スカートのスリットから見えたガーターベルト、ピンヒール、化粧、何もかも。おおざっばに言って、ヴァンプのカリカチュアだな。あれはわざとああやってるんだ。嫉妬深い恋人はそんなのが好きなようだった。まったく趣味が悪いよ。あの馬鹿野郎はおれのサックスにブラディマリーをぶちまけやがった。セルマーだぞ、信じられるか?殴りつけてやったよ。そしたらおれの喉を噛み裂こうとした。運よくやつが見つかったら、首に矯正器具をはめてくといい。あんたが叩きのめしたら、最後のころに駆けつけて尖ったブーツで仕上げを手伝ってやる」
 
この、謎の女ヴィオレーヌの存在が見え隠れするようになると、俄然私はこの本が面白くなってきたのでありました。ロマン・ノワールには、こういう妖しい魅力をはなつ毒婦が不可欠!  
 
  その時、人間の渦を見るために顔を上げると、あの女がいた。タイルの壁にもたれて、うっとりと、これほどの肉体のエネルギーと動きに憧れるようにダンサーたちを見ている。いちばん興味を引かれたのは身体の細さだった。描写した連中はそのことを言わなかった。
 例のひとそろいはちゃんと身につけていた。ヴァンプに変身するからには誤解の余地がないようにしなくちゃならない。戦闘服。やりすぎだ。頭のてっぺんから足の先まで真っ黒。妄想をかきたてるような魅力、想像力のかけらもない。個人的なタッチはどこにもない、街を歩く娼婦とシャネルの婦人服のイメージだけだ。あるとすれば、隠されている下着にあるのかもしれない。でも、絶対に健全なダマールの下着なんかは思い浮かばない。
 
俗悪と思う人間もいる、型通りと思う人間もいる、だけど残りの連中にとってはとてつもなく挑発的だ。おれは、どちらかというと恐怖を感じる。自分はここにいるぞと叫びたてたがる人間にはいつも恐怖を感じる。何も言わずにすべてをさらけ出す人間には恐怖を感じる。こんなミュータントを生み出すのは夜だ。  
 
  ヴィオレーヌに対して恐怖を感じつつ同時に惹かれてもいるアントワーヌは、周囲にとめられながらも「ジョルダンの居場所がわかるかもしれないから」と言い、どんどん彼女に深入りしてゆくのです。
 
「ぼくにならそんなことしなくてもいい。自然のままが好きなんだ」
「寝る?」
「……」
「あっそうか、たぶんそのまえに自己紹介しなきゃいけないのよね。あたしはヴィオレーヌ」
「……きれいな名前だ」
「そう思う?強姦
(ヴィオル)って言葉と憎しみ(エーヌ)って言葉が入ってるのよ」
「……そんなこと考えなかった……おれ……」
 
 
  結局のところ、もっと悪いホテルだってある。絨毯は新しいし、壁はくすんだバラ色だった。壁に押しつけられたベッド。ミニバーがあって、彼女はそこからミネラルウォーターの小瓶を取りだした。彼女と寝るつもりはないとはっきりわからせる気の利いた言葉をさがした。でも、スーツの上着が床に落ち、そばかすのある肩がむき出しになった。全身が見えた。はかなげな輪郭、骨張ってもろそうな身体の青白さ。キスしたら顔に傷をつけそうだ。抱きしめたら骨の砕ける音がするだろう。彼女の上に乗ったら、翌朝は粉々のかけらの上で目覚めるだろう。
 
やばいやばい、やばいってば。そんな甘いこと言ってるからこんなヒドイ目に遭うんだよ。  
 
   おれはなんとか目を開けた。彼女は……おれの上にすわっている……死んじまう……つぶされる……目が回る……いったいこの女は何をしようと……。
「あたしは死の国から戻ってきたのよ、あんたたち、生きてる人間に付きまとうために。動かないで、アントワーヌ。もう探さないで、ジョルダンのこともあたしのことも。すぐにそんな気持ちも力もなくなるでしょうけど。あたしたちといっしょになるのよ、アントワーヌ。あたしたちの仲間になるの……」
 歪んだ音が聞こえ……崩れた形を見た……最後にもう一度口を開こうとした。何を……何を飲ませた? このあばずれ……
 
「すぐに終わるわ、アントワーヌ……」
 彼女の手が首筋をつかむのを感じ、肩の窪みに荒い息があたるのを感じた。唇がおれの喉をかすめた。
 あばずれめ……
 首筋が灼けつき、おれは悲鳴を上げた。
 
 
  外は明るい。また頭痛が戻ってきた。聞こえるのはガミガミという声だけ。おれは仕方なく冷たい水の中に立ち上がった。そして、他の動きができずに、そのままふらふらと揺れながら立っていた。おかみがタオルを差し出してくれた。彼女の顔を見た。唖然としている。おれの身体をじろじろ見ている。洗面台の鏡に、蒼ざめたどす黒い姿が映っていた。おれの姿だった。胸の上に、鞭で打たれたような痕がある。目を細め、ふらつきながらよく見ると、まだ生々しい傷痕が見えた。首に。
 
イ・ターイ・・・。彼女はいったい何者なのだ。異常な人間?それとも正常な吸血鬼?
ともかく、すっかり吸血鬼に噛みつかれた気分のアントワーヌは半狂乱。
 
 
   外。金曜。午後二時。太陽がじりじり照りつけている。あの女の最後の微笑み。噛み傷。ジョルダン。金曜。歩道が揺れてる。
 カフェの窓の向こうの往来。シャンパンの反吐。太陽。
「何になさいます?」
 わからない。熱い風呂。金曜。
「何になさいます?」
 嘔吐。もう金はない。外は太陽が照りつけてる。また外に出る。
 
 太陽が照りつけてる。ジョルダン。彼女はジョルダンの手にキスしてた。噛みつかないで。ジェラール、フレッド、バイク。エティエンヌは?メトロの入り口。
 涼しい。ベンチにすわる。電車の音が頭を引き裂く。金曜。ブラディマリー。首に噛みつく。“自分の姿は見えないの……”。金曜。
 ベルトラン?
 おれは病気だ。おれは遅れた。藁布団の上にいるベルトラン。“おれを見捨てないよな?”……眠らなきゃ。太陽の当たらないところで。痛い。金曜。遅刻だ。
 
 
  拘束されたままの相棒、謎の女に噛みつかれ吸血鬼になったかもしれない自分、迫り来るタイムリミット、いつまでも醒めない悪夢のような現実の中でもがきつづけるアントワーヌ。読んでるこっちまでなんだか息苦しくなるような閉塞感―。
 
なんだなんだなんだこの話は?ジョルダンとヴィオレーヌってほんとに吸血鬼なの??富豪は何故に人を監禁してまでジョルダンを捜しているのか???
・・・このころには、すっかり物語にハマり込んでおりました。ページを繰る手ももどかしい。
 
 
  富豪との約束では48時間ごとに落ち合い、人質役と探索役を交代する筈だったのですが、なぜかロレンスは「引き続き自分が残ってアントワーヌが捜すほうがいい」と言い張ります。不審に思いつつも捜索をつづけるアントワーヌ。
 
そうして、またもジョルダンに噛みつかれたというカメラマンがみつかったりして(ジョルダンてばあちこちで人を噛んでるのね)。たどっていくうちに、とうとう彼の居所をつきとめる!しかしそこへ正体不明の暴力的なアメリカ人2人が現れ、さらに、エティエンヌがそいつらに殺され、ジョルダンとヴィオレーヌが連れ去られてしまう。一体なにがどうなっているの??  
 
  頭の中にいくつもクエスチョンマークを浮かべたまま引っぱられてった終盤で、ついに富豪とジョルダン・ヴィオレーヌとの関係が明かされるのでありました。そして、ド派手にバイオレンスなシーンが展開。銃弾は飛び交うわ銃把で殴るわヴィオレーヌはアメリカ人の目に指つっこむわジョルダンはアメリカ人の首に噛みつくわ。あたりは血の海、死体山積み。
 
結局、足を撃たれはしましたがアントワーヌは無事で、アメリカ人は去り、アントワーヌ以外はみんな死んでしまった。ロ、ロレンスは?どこにいるの?無事なの?富豪が死んだ今、アントワーヌは彼に再会できるの?  
 
  最後にぶちかまされるどんでん返しが、その相棒の居所。肩透かしというか、拍子抜けというか、そんなんありかよ、って感じでした。アントワーヌも別段驚いたり怒ったりするわけでもなく、そのまま淡々と終わっていく。こうゆうのがフランスっぽいのかしらん。
 
ブリジット・オベールとユベール・コルバン、あとは澁澤龍彦訳のマルキ・ド・サドその他(これは特殊か^_^;)くらいしか私も持っていないし、邦訳されてるフランスの、特に推理ものって英米勢に比べるとごくごく少ないと思うんですが、訳されてるぶんについてはわりとアタリが多いような気がするのです。大概面白い。というか私の嗜好にばっちり適合してるってこと?  
 
  フランス・ミステリ、もっと読みたいなあ。
 
( 2001/5/27 )
 

薔薇

おれたちを待っている、幾万のバラ色の光が輝く街を遠くから見ることができるように。

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