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陰翳礼讃
谷崎 潤一郎
中公文庫

『陰翳礼讃』 表紙

 
うーんと、一言でいうならば、陰や闇などの醸し出す日本的な美について、微に入り細を穿ちこれでもかというくらい延々と述べられた文章です。  
           
  日本家屋の造作にはじまり、蒔絵や塗りなどの食器、能の衣裳、日本女性の肌の色、鉄漿おはぐろにいたるまで、陰そのもの、そしてその陰から生まれる美しさへのこだわりがひしひしと。
これが、何故か私のツボをつくのだ。何度読んでも「うーむ、おもしろい・・・」。
 
まずは、日本座敷と電気瓦斯水道等々の設備を調和させるのがいかに大変か、について。
 
で、凝り性の人は電話一つ取り附けるにも頭を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。その他庭の電線は地下線にし、部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、コードは屏風の蔭を這わす等、いろいろ考えた揚句、中には神経質に作為をし過ぎて、却ってうるさく感ぜられるような場合もある。
 
  実際電燈などはもうわれわれの眼の方が馴れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺めている時、茅葺きの百姓家の障子の蔭に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈っているのを見ると、風流にさえ思えるのである。
 
しかし煽風器などと云うものになると、あの音響と云い形態と云い、未だに日本座敷とは調和しにくい。それも普通の家庭なら、イヤなら使わないでも済むが、夏向き、客商売の家などでは、主人の趣味にばかり媚びる訳に行かない。私の友人の偕楽園主人は随分普請に凝るほうであるが、煽風器を嫌って久しい間客間に取り附けずにいたところ、毎年夏になると客から苦情が出るために、結局我を折って使うようになってしまった。  
 
  そして、京都の料理屋「わらんじや」での照明についてのエピソード。
蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝがよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。
 
「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。  
 
  そのまま漆器話へなだれこみ。
それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。
 
つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり風のおとずれのあることを教えて、そゞろに人を瞑想に誘い込む。  
 
  もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。
あ、妖しすぎる・・・どうしよう、クラクラしてきたぞ・・。
 
私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味ぬくみとを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。……漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。  
あったかい汁の入った漆椀の感触がぷよぷよしててスキ、、とかいう即物的なハナシから、最後には東洋の神秘 ・禅の話に。なんたる力技。
 
  だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。
なんだか、羊羹がとても神秘的でスゴイ食べ物のように思えてきませんか。
 
和食においても、陰翳が重要な役割を果たしているらしい。
 
その外醤油などにしても、上方では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりとしたつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺身や、あゝ云う白い肌のものも、周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。
 
  あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう。かく考えて来ると、われわれの料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。
日本人に生まれてよかった!って感じ?……違うか。
 
そしてふたたび建築話にもどりまして。
 
われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自(おのずか)ら生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって、実は中々容易でない。たとえば床脇の窓の刳 り方、落懸(おとしがけ)の深さ、床框の高さなど、一つ一つに眼に見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くないが、分けても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。
 
  諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぼうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。
うーん、やっぱり眩暈が。さすが耽美派作家。
 
能衣裳と日本人の肌の色についての考察。
 
それだから、これは私一人だけの感じであるかも知れないが、およそ日本人の皮膚に能衣裳ほど映りのいゝものはないと思う。云うまでもなくあの衣裳には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に使ってあり、しかもそれを着て出る能役者は、歌舞伎俳優のようにお白粉を塗ってはいないのであるが、日本人特有の赧みがかった褐色の肌、或は黄色味をふくんだ象牙色の地顔があんなに魅力を発揮する時はないのであって、私はいつも能を見に行く度毎に感心する。
 
  金銀の織り出しや刺繍のあるうちきの類もよく似合うが、濃い緑色や柿色の素襖、水干、狩衣の類、白無地の小袖、大口等も実によく似合う。たまたまそれが美少年の能役者だと、肌目(きめ)のこまかい、若々しい照りを持った頬の色つやなどがそのためにひとしお引き立てられて、女の肌とは自ら違った蠱惑を含んでいるように見え、なるほど昔の大名が寵童の容色に溺れたと云うのは此処のことだな、と合点が行く。
 
渋い緑と、渋い茶と、二つの間色が映り合って、黄色人種の肌がいかにもその所を得、今更のように人目を惹く。私は色の調和が作り出すかくの如き美が他にあるを知らないが、もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために飛び散ってしまうであろう。さればその舞台を昔ながらの暗さに任してあるのは、必然の約束に従っている訳であって、建物なども古ければ古い程いゝ。  
夜、屋外で篝火をたいて演じる薪能などは、理に適っているということに。
 
  日本女性の美しさと闇の関係。
昔の女というものは、襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う。当時にあっては、中流階級以上の女はめったに外出することもなく、しても乗物の奥深く潜んで街頭に姿を曝さないようにしていたとすれば、大概はあの暗い家屋敷の一と間に垂れ籠めて、昼も夜も、たゞ闇の中に五体を埋めつゝその顔だけで存在を示していたと云える。……鉄漿などと云う化粧法が行われたのも、その目的を考えると、顔以外の空隙へ悉く闇を詰めてしまおうとして、口腔へまで暗黒を啣ませたのではないであろうか。
 
夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。つまりわれわれの祖先は、女と云うものを蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、出来るだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにしたのである。  
 
  私はさっき鉄漿のことを書いたが、昔の女が眉毛を剃り落としたのも、やはり顔を際立たせる手段ではなかったのか。そして私が何よりも感心するのは、あの玉虫色に光る青い口紅である。もう今日では祗園の藝妓などでさえ殆どあれを使わなくなったが、あの紅こそはほのぐらい蝋燭のはためきを想像しなければ、その魅力を解し得ない。
 
古人は女の紅い唇をわざと青黒く塗りつぶして、それに螺鈿をちりばめたのだ。豊艶な顔から一切の血の気を奪ったのだ。私は、蘭燈のゆらめく蔭で若い女があの鬼火のような青い唇の間からときどき黒漆色の歯を光らせてほゝえんでいるさまを思うと、それ以上の白い顔を考えることが出来ない。少くとも私が脳裡に描く幻影の世界では、どんな白人の女の白さよりも白い。  
 
  ちょうど私がその部屋へ這入って行った時、眉を落して鉄漿を附けている年増の仲居が、大きな衝立の前に蝋燭を据えて畏まっていたが、畳二畳ばかりの明るい世界を限っているその衝立の後方には、天井から落ちかゝりそうな、高い、濃い、たゞ一と色の闇が垂れていて、覚束ない蝋燭の灯がその厚みを穿つことが出来ずに、黒い壁に行き当たったように撥ね返されているのであった。
 
魑魅ちみとか妖怪変化とかの跳躍するのはけだしこう云う闇であろうが、その中に深いとばりを垂れ、屏風や襖を幾重にも囲って住んでいた女と云うのも、やはりその魑魅の眷属ではなかったか。闇は定めしその女達を十重二十重に取り巻いて、襟や、袖口や、裾の合わせ目や、至るところの空隙を填めていたであろう。いや、事に依ると、逆に彼女達の体から、その歯を染めた口の中や黒髪の中から、土蜘蛛の吐く蜘蛛のいの如く吐き出されていたのかも知れない。(原文ママ)  
・・・コワイ。凄絶な美ってかんじ。六条御息所ちっくである。
 
  ところが、近代日本ではその闇がだんだん少なくなってきたことを憂えて。
個人の住宅では経済の上から電力を節約するので、却って巧く行っているけれども、客商売の家になると、廊下、怪談、玄関、庭園、表門等に、どうしても明りが多過ぎる結果になり、座敷や泉石の底を浅くしてしまっている。冬はその方が暖かで助かることもあるが、夏の晩はどんな幽邃(ゆうすい)な避暑地へ逃れても、先が旅館である限り大概都ホテルと同じような悲哀に打(ぶ)つかる。だから私は、自分の家で四方の雨戸を開け放って、真っ暗な中に蚊帳を吊ってころがっているのが涼を納(い)れる最上の法だと心得ている。
 
私は、われわれが既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。  
・・・と、こんな風にしめくくられています。
 
  そこまでこだわらんでも、というくらい細かいところもあり、また(吉行淳之介の解説では否定されていますが)西洋に対する劣等感の裏返しのように見えなくもない箇所もあって、ちょっと可笑しくなったりします。それでも、読み返すのをやめられないのは何故でせう。
書きながら、なんでかなー・・・と考えてみました。そんでわかった。
 
ひとつには、日本語の美しさにどっぷり浸れるから。言葉遣いがとてもきれいで昔っぽくて(昭和8年なんだから当たり前か)、旧字体・旧かなづかいが大好きな私にはどうにもこたえられませぬ。昔の日本語の方が美しい、と感じるのは私だけ?  
 
  そしてもうひとつは。
やはり、蔭だの闇だの陰鬱だの澱だの沼だの、そういう辛気臭くて怪しくて妖しい部分が、私のネガティブワールド嗜好にぴたっとはまるのでしょう。
 
明るくて楽しいものも悪くはないし嫌いじゃないけど、、、本でも音楽でも映画でもなんでも、興味をひかれ琴線に触れるのは、きまって陽ではなく陰の世界。
邪気なく輝くものよりも、素直に日の当たる場所よりも、その照らされた裏側にできる陰の中には何が隠れてるんだろう、と考えるほうがずっと面白い。屈折してるのかな?
 
 
  そうか、無意識のうちにお気に入りにしていたけど、そうだったのか。
 
( 2001/4/29 )
 

夕闇

(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って
夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ・・・

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