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風が強い日だった。
前日のそして今日の天気予報では、曇りでもなければ雨の予報でもなかった。強風注意報も出ていなかったので、嵐がくることなど絶対にありえない。それなのにこの強い風はいったい何だろうか。
それでも昼前まではさほど風は吹いていなかったのだ。だが、三蔵がたまたま気分転換で外出した、頭上から照らす日差しが暖かいものに感じられるようになった午後、風の威力が強まり始めた。そして今では、はたまに人までもが流されてしまうのではないかと思うほどになっている。
ぴゅーっ。
また1つ大きな風が三蔵の背後から流れてきた。
その風によって前へと持っていかれた髪は、乱れるだけでなく前方までもを隠しててしまう結果になり、彼は右手で邪魔な髪をかき上げると、指を髪の間に入れて抑え、後方を降り返った。
「……?」
今の風に乗られてきて、三蔵の耳に届いたもの。
わずかなそれは、どこか人の声らしきものだったような気がしたからだ。
それでもそれが何と言っていたかまでは、はっかりとはわからなかった。だが何となく自分の名を形どっていたような気がしたのだ。しかしそれは呼ばれたような気がしただけで、実際は本当に気のせいかもしれない。
どんなものだった?
そう特徴を聞かれても答えられないくらい、本当にたった一言の一瞬で。
それでもなぜだかとても強く引かれるものがあったのだ。
ところが冷静になってよく考えると、三蔵が人の声だと感じたそれはもしかしたら風の音だったかもしれない。いや、それ以前の問題で、あの三蔵が感じられた音ともいえるような声は、耳から入ってきたのではなく頭に直接響いたものだったのだ。
そんなものが人の声であるはずがない。
当然、三蔵が振り向いて発した主を確認しようとしても、それが目にとまるはずがないのである。
声の正体が何なのか。不思議に思いながら、もしかしたら気のせいかもしれないと、やっと三蔵は視線を前へと戻した。
そしてまたあてもなく歩き出そうとしたとき。
突然の喧騒が三蔵を包み込んだ。
男のどよめき。
女の悲鳴。
すべての人々の視線が三蔵に向けられ、そして同じ言葉を口にした。
逃げろ、と。
しかし意識をあの声に持って行かれていたために、機敏な三蔵の行動を一瞬遅れたものにさせた。
隠れた太陽。
影になった自分の体。
三蔵の瞳に映るのは、まだ真新しい木の壁。
強風に煽られた壁が、その風に耐え切れず三蔵の頭上へと倒れてきたのだ。
誰もが最悪な自体を想像していた。
血だまりが作られ、顔は土気色に変わり、脈うつ音が聞こえない、彼の姿を。
だが三蔵の反応が遅れたといえどもそれは一瞬のことだったので、その場からは少しでも移動できたことにより幸運にも命に別状はなかった。それでも回避失敗の事実を告げるように、彼は左足に激痛を感じた。
強い痛みと強い風。
それらを感じたのとほぼ同時に、三蔵は意識が途切れたのだった。
三蔵は1人、道の中心に立っていた。
自分のいる道を囲む石でできた建物。それがひしめきあっているところから、どうやらここは街なのだろうと推測される。
そう。どう考えても、ここは街だ。その間違えはゼロに近いほどの確立。
丸や楕円や長方形の木、ゆらゆらと揺れている日差しよけの布などに書かれた文字は、店の名前だったからだ。
だからこそ街以外には判断できないのに、そこは不気味なほど静寂としていた。
堅苦しい印象を受けるその街中は無音が支配しており、唯一の音と言えば風が流れるそれだけで、子供の声もしなければ、足音さえも三蔵のもの以外耳に入ってこない。
そこは完全な無人だった。
ザッと地面を蹴れば、枯れた土が砂となって舞い上がり、風に乗られて運ばれていく。
死んだ街。見捨てられた場所。
建物自体は古くなく、今すぐにでも生活が再開出来そうなほどなので、もしかしたらこの街の住人がここを捨て他へ移住していったのは、ごく最近のことかもしれなかった。
理由は何か。
枯れた土か。それとも水か。
三蔵は1歩1歩踏みしめるように進んだ。
途中にある細い路地や、将棋盤のように規則正しく綺麗に並べられてた建物を、何一つ見逃さないように細心の注意を払いながら、鋭い視線で監察していく。
すると、どこからともなく霧が立ち込めてきた。
いやにまとわりつく霧。それでも三蔵は気にもとめずに進んで行く。
しかし歩みを止めるかのように刻一刻と濃くなる霧は、暫くすると、とうとう一メートル先という狭い視界にまでなってしまった。
一瞬戻った方が得策かとも考えたが、この濃霧の中でならどちらも変わりがなく、それならと前方を目指すことにした。
前方と足元と、両方に注意をしながら慎重に歩を進めていくと、何の前触れもなく突然霧が晴れた。
そこはさきほどと変わらず、石でできた建物が永遠と続きそうなほど両側に並んでいた。
ふと目に止まったある建物。
それは三階建てで、せいぜい二階がいいところのこの街では背が高く、加えて螺旋階段が屋上から地上までを繋いでいるのだから、目立つことこの上ない。だからこそ三蔵も、ずいぶん前に似たような建設物の前を通過したことを覚えていた。
その建物を舐めるように見つめると、何を思ったかそれに近づいていった。
歩きながらポケットを探ってみるが、案の定目的の物は入っていなかった。ポケットに物を入れる習慣が、彼にはなかったのである。
代わりになりそうな物を求めて視線をさまよわせると、適度な石を見つけることができた。
子供の拳大ほどのそれを拾い、手の上で弄びながら建物に近づいていく。そして目前にそびえたつ石壁に拾った石を当てると、ゆっくりと動かした。それは軽石だったようで、みるみると白い線で描かれていくものが完成すると、まるで芸術家が完成度の確認をするように、三蔵は今書いたもの全体を見つめると、その真下に軽石を置いて今きた道を戻り始めた。
霧が立ち込める。
だんだん濃くなっていく霧の世界から突然抜け出す。
それでもまだ三蔵は歩き続けた。最初に見た、あの螺旋階段を目指して。
初めて歩く道と一度歩いたことのある道とではずいぶんと感じ方が異なるようで、結構あると思っていた目的地までの道のりが、実際はさほどないことを知った。
そして螺旋階段のある背の高い建物。その壁には。
「やはりな」
三蔵が書いた白いらくがきがあった。
多分あの霧が結界の役目をしているのだろう。
何のつもりでここに足止めさせるのか。
ただ三蔵をこの先に行かせたくないだけなのか。それとも今三蔵が移動できるこのエリア内に、彼がやらなければならない何かがあるのか。
どちらにしろここから先は進めないということだ。
だがそんなことはどうでもよかった。
三蔵はここに来たいと思ったわけでもなければ、この街のことなど知ったことではない。
それでも三蔵がここにいる理由を知りたかった。
三蔵1人だけがいる理由を。
ささくれ立つ気持ちのままに砂を蹴ると、ポケットに手を突っ込む。
さきほど探って何も入っていなかったことを確認しているのだから、もちろん煙草などあるはずがない。
ふう。
深く深く息吸い、深く深く吐く。
苛立ちを抑えるように。
とにかく、何だかんだいっても自分がここから出れそうもないことに変わりはなく、このままでは進展がないことは事実だ。
何かの策を捜さなくてはと周囲に再度視線を向けたとき、強風が三蔵の背後から吹きつけてきた。先ほどから緩やかな風は流れていたものの、これほどの強風は初めてで、まるで体がもって行かれるほどの強さだった。
それに対抗すべく両足に力をいれて踏み留まろうとしていたのだが、三蔵のそんな些細な抵抗をあざ笑うかのように、再度吹いた強風では体が何かにひっぱられるような感覚を三蔵は受けたのだった。
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