SAIYUKI
NOVELS 53
愁いなる雀屏 2  2001.5.04
SANZO×HAKKAI
「……さ……う……三蔵!」
 それはとても切ない声で。それでいてとても必死で。
 なぜそこまで必死になって呼ぶのだろうか。
 しかし呼ばれているのは自分だということと、その声が自分が良く知る悟空のものだということにやっと気付いた三蔵は、彼のそんな声音を今まで聞いたことがなかったために、その声に引かれていったのか、それとも自分の意識が浮上してきたから彼の声に気付いたのか、とにかく瞳をゆっくりと開いた。
「…うるせーよ」
 目に飛び込んできたのは真っ白い天井。そして顔をゆがめ心配そうな瞳で覗き込んでいる悟空の顔を見てから、そのときになって三蔵は自分が眠っていたことを知った。
 さきほどのあれは夢だったのか。だから突然あんな場所に立っていたのだ。
 確かにそれならば納得がいく。
 だが、それでも不可解な点はいくつかあった。
 あの場所は、いったいどこの街なのかということ。今まであんな場所を訪れたこともなければ、本やTVなどで目にしたこともない。どんなに記憶を探ろうとも、似た場所さえ思い出すことのできないあの街は、多分初めて目にするところだろう。
 それなのに、なぜあのような街が夢に出てきたのだろうか。
 どうしてあんな夢を見たのか。
 静かな所にでも引っ越して、のんびりと過ごしたいとでも、深層心理で考えていた結果だろうか。そんなことを思っているなど、自分自身でも気付かなかったのだが。
 汚れ一つない白を見つめて、三蔵は考えこんでいた。
「三蔵。お前さあ、事故ったの覚えてっか?」
 悟空が壁になっていたために、悟浄が声をかけてくるまで彼の存在に気付かなかった。目を向ければ、悟空の後ろから彼がひょっこりと顔を出している。
「ああ…」
 悟浄の問い掛けに、うっすらとではあるが記憶の断片が蘇った。
 耳を塞ぎたくなるような周囲の悲鳴とクラクション。ブレーキの音も聞こえはしたが、車体は確実に自分目掛けて近づいてきた。それをどこか他人事のように見つめていたとき、衝撃が体を襲った。痛いとかよりも、ただ何かがぶつかったということしか感じられず、情けなくもそこで意識を無くしてしまったようである。
「右足骨折だけですんだからいいけどよ、打ち所が悪かったら即天国行きだぜ。…何してたんだよ、お前らしくもねえ」
 確かに悟浄の言う通り、自分でもらしくないと思う。
「…そういえば……」
 あのとき声が。
「あ?」
「いや」
 そうだ。確か声が聞こえたような気がしたんだ。
 あれはいったい何だったのか。
 それを確認したくとも、もちろん三蔵に術があるはずがなかった。
「暫くの間入院だとサ。まあ、少しはここでのんびりと過ごしたらあ?そうそう、ナースに手ェ出すなよ」
「…人をてめえと一緒にすんじゃねえ」
 事故と連絡が入ったときにはさすがに心配したものの、結果的には骨折だけで命に別状なかったし、本人もいたって元気で、いつもと変わらない無愛想なその口調に悟浄は大きく安堵すると、じゃあなと言うように片手を上げて一振りして病室を出て行った。
「悟浄さあ、あれでも髪振り乱してここに駆け付けてきたんだぜ。真っ青な顔しちゃってさ」
 悟空は悟浄が出て行った扉を見つめ、キシシと笑いながら当時の状況を洗い浚いすべて三蔵に話していた。
 顔を合わせば売り言葉に買い言葉になることもままあるし、ましてや彼のいつもの態度からは想像できないが、それでもやはり悟浄は三蔵のことが気に入っていてそれなりに気にかけてくれていることが、悟空の言葉から測り知れた。





 八戒は目を瞑り、花咲く思い出を振り返っていた。
 まだ小さかったころのこと。一生懸命学業に励んだころのこと。友人や恋人ととも過ごした日々のこと。
 思い出とは辛いものもあれば、悲しいものもある。楽しいものもあれば、嬉しいものもある。それなのに今出てくるものはすべて楽しいものだというのは、以前耳にした窮地に立ったとき出てくる思い出はすべて楽しいものだということと同じことなのだろうか。いや、もしかしたらそれは自分が無意識に、故意で楽しいものだけを選んでいるのかもしれないが、今はとにかくそれでよかった。この場で辛いものや悲しいものを思い出してしまっては、余計に辛くなるだろうから。
 こう毎日記憶を掘り起こしていたら、それまで忘れたと思っていた思い出さえも結構思い出すものなのだと、八戒は初めて知った。
 本当ならもう少し思い出を作れるはずだったのに…。
 長く生きるとも生きたいとも思わなかったが、それでもこんなに早くあの世界から抜け出てしまうとも思わなかった。
 どうして自分はここにいるんだろう。
 この知らない世界に。
 確かに部屋にいたはずなのに、気付けば自分はこの世界にいた。
 人の気配はなく生き物でさえも存在していないだろうと思われる、石で建てられた家が並ぶ、重々しい印象のこの街に、どうして1人で立っていたのか。
 どうやって来たのかもわからなければ、もちろん帰り方などわかるはずがない。それでもまだ未練のあったあの世界へ帰るべく、情報を得るためにその見知らぬ街をさまよっていたとき、あの人と出会った。
 彼は言わば命の恩人。
 路頭に迷った自分を拾ってくれただけでなく、今もこの家に住ませてくれているのだから。
 たとえこの部屋からでることができないとしても…。
 ここがどこなのか、帰り方さえ、まだわからないとしても…。
 何もしない自分に食事を食べさせてくれる彼に、文句なんて言えるはずがない。
 しかしそう納得していても、なぜか心は暖かくならなかった。
 だからこうして、ときたま昔のことをふと考える。するとあれだけ寒かった心が一瞬にして暖かくなるから。
 それなのに…。
 八戒は頬が濡れるのを感じた。
 …なぜ涙が出るのだろう…。
 それは、いつも共にいて恋人が亡くなったときも傍にいて励ましてくれて、そっけなさそうに見えるが自分のことのように他人のことまで考えてしまうそんな友人の彼に、たった一言の「有難う」を言えなかったからだろうか。
 楽しかったと言えなかったからだろうか。
 それともさようならと言えなかったからだろうか。
 八戒は涙を拭う。
 彼のいる元の世界にもう戻れないのか。
 どんなに待ち続けても、そのチャンスは訪れないのだろうか。
 この無機質な部屋が自分の世界になり、たまに言葉を交すのは自分を助けてくれた彼で。
 2人とも年老いたとき、楽しい思い出を胸に、日々指折り数えて死の瞬間を待つのだろうか。
 彼に何の言葉もせずに。
 いつもあまり口にしない言葉だからこそ、どうしても彼にはいいたかったのに。
 八戒は瞳を開くと、隙間風が吹いてくる小さな穴から外を覗いた。
 そこに広がるのは砂漠と青い空。もうどれくらい経つのかがわからないが、それが八戒が見れる唯一の外の世界だった。
 うっすらと世界が白く感じるのは、まだ朝を迎えてから間がないからだろう。
 たとえどんなに辛いことがあっても必ず朝がくるように、自分にも明日はやってくるだろうか。
 いつか必ず朝陽を浴びれるだろうか。
 八戒は焦れるような瞳で、外の世界を凝視していた。





 不覚にも事故をした、その日の夜。
 三蔵はまた夢を見ていた。
 風が吹いているだけの、あの無音の世界にある石の街に、1人で所在げなく立っている。
 人の気配などまったくなく、ただそこには石の建設物が存在しているだけだった。
 またか。
 また同じ夢だ。
 周囲を見渡しても前回見た光景と、なんら変わりはないようだ。
 死んだ街。見捨てられた街。
 また夢で見るくらいなので、やはりどこかで自分はこの場所を目にしているはずだろう。それなのに、なぜ覚えていないのか。
 少しでも記憶の糸口を掴めればと、三蔵は今度こそ近辺を探ってみることにした。
 大抵の建物が店兼住居になっているようで、2階すべてを住居にあてていたようである。
 最初に入った建物は、以前食料全般を置いていたところのようだ。店内のいちコーナーには、どう考えてもパンだろうという名前が記された札が置かれていたし、棚にはインスタント食品や缶詰など、まだ封を開けていない物が規則正しく並べられていた。多分この街を出て行くときに、店主がかさばるのと重いという理由で置いていったのだろう。
 その隣の建物には衣服が並べられていた。数個の棚がぽっかりと空いていたので、街を出て行くときにそれは持ち出されたのだろうが、その以外の棚にはまだまだ服が入っているようだ。
 さらに隣の武器屋も、その隣の道具屋も、まったく同じ状況で、本当ならばこれから売り物になるはずだった品が、袋や箱に入ったままの状態で奥にしまわれていた。
 三蔵は溜め息をつきながら、建物の外へと足を向ける。
 まだまだ覗いていない建物はたくさんあるのだ。それを考えると、始めたばかりなのに、気が重くなってしまう。
 外に出れば心地好い日の光りが三蔵を照り付け、心地よいと感じるほどの緩やかな風が髪をさらう。
 空を見上げれば、綿のような雲が浮かんでいて、ふよふよとのんびり流れていた。
 ずいぶんリアルだなどと思いながら、さらに隣へと足を踏み入れた。
 そこはさきほど目印にした、あの螺旋階段が備え付けられた建物だった。入ってすぐのところにはカウンターがあり、入口からまっすぐ伸びる廊下の両側には、固く閉じられた扉がいくつも並んでいた。
 察する所、ここはホテルだろう。いやそんな大層な物ではなく、宿屋と言う方がしっくりくる。
 その中の1つの扉を開けてみる。
 ベッドはシングルが1つ。腰から上にある1間の窓には、半間用カーテンが2枚使われ日光を遮断していた。もう1つベッドが置けそうなほどのスペースには四角い机が置かれており、入口の脇には姿見が置かれている。それで宿屋の主人がいかに心配りのある人物かが伺い知れた。
 三蔵は一通り室内を眺めた後、机の引出しを開けてみた。よく部屋には宿屋の所在地が記された物や地図が入っていたりするからだ。
 予想通り中には地図が入っていたが、そこに記されている地名すべてが、まったく知らないないものだった。
 何気なくそれを畳んでポケットにしまうと、その部屋から出て階段を上る。もしかしたら風景をみれば何か思い出すかもしれないと思ったからだ。
 1歩1歩踏みしめるように最上階へ向かうと、角部屋のへと足を踏み入れてそのまま窓を目指すと、ざっと音を立ててカーテンを開けてみた。
 外に広がったのは、変わらず石の建物のみで、その先は霞みかかってその先を遮断していた。
 ふう。
 溜め息は深くなるばかり。
 何の情報も得られないことに苛立たしさが沸きあがり、その気持ちを露に今きた道を戻ろうとドアに足を向けたとき、店主の優しさの現れである大きな鏡が視界に入った。
 入口に隣接されているのだから目に止まるのは当然なのだが、なんとなくそれだけが理由ではないような気がした。
 …光っている?
 最初は窓からさす陽の光が当たっているからかと思ったが、しかしそれは外からのものとは違う明かり。
 三蔵はくるりと向きを変えると、また窓に近付いていき、視線は鏡に向けたままで、右手でカーテンを閉めてみた。
 やはり鏡は微かに光を放っていた。
 内側から漏れてくるようなそれに、恐怖などは感じられない。なぜかむしろ親しみが感じられ、引き付けられていく。
 三蔵は動かされるままに鏡に近づき、そっと鏡に触れてみた。
 すると光りは一層強くなる。
 不安もなく。期待もなく。
 この目の前の現実を受け止めるべく、いつになく冷静に成り行きを見つめた。
 しばらくの間、鏡は全体で光りを発していたが、少しずつ中心部分から外へと円形に光りは消えていき、その直径がだいたい60センチ程度になったころ、周囲はまだ光りを放ったままで進行を止めた。
 そして中のその円には、うっすらと何かが映し出され形として形成されようとしていた。
(……壁?)
 同じサイズに象られた石がいくつも綺麗に重ねられたそれは、この街の建設方法と同じものだった。
 どこかの景色または建物でも写し出されるのかと思えば、建物には変わりないがそこはどこかの室内のようだった。
 今のところベッドだと思われるものが、ほんの少し、端しか写されていないが、それでも室内どれだけ寒々しいほど質素なのかが理解できた。
(ん?)
 鏡が映し出す情景はほんの少し。その限られた範囲内の端で一瞬何かが動いたような気がした。
(何かいるのか?)
 三蔵はもう一度それが映ることを願った。しかしブラウン管を通じてものを見るのと同じ状態は自分がどうこうできるわけもなく、動いたのは錯覚かと思ってしまうほど鏡は同じ物しか写さなかった。
 もう少し広く見えてもいいだろうに。
 そう思った三蔵を手助けするかのように、鏡が写し出す範囲が水の波紋のように少しずつ広がっていった。
 今度は鏡全体で映し出される情景。
 床さえも石畳で、それでもやや小さめの絨毯が一応はひかれている。
 案の定、天井までもが石でできている。
 しかし姿見の写す範囲はそこが限度。
 つまりは縦長なので、上下に広くとも横は限られているのだ。
「………」
 三蔵は現状を映し出しているその鏡をベッドの方へと移動させると、横に寝かせて立て掛ける。
 一瞬真っ暗となり何も映し出さなくなったことに不安を感じたものの、また鏡は少しずつ少しずつ何度も色を重ねるように、情景がはっきりとしていった。
 三蔵の希望通り、映し出されたものは今度は横長になっていて、床はあまり映らなければ天井などはまったく見えない。
 その室内のは先ほど映っていたベッドが一つ。それはどこかとても小さく見えた。
 やはり飾りなどなく、シーツの真っ白さが室内の寒々しさをより強くさせている。ベッドの上に置かれている布団は丁寧に畳められていて、ここで寝ている人物の几帳面さが窺えた。
 そして三蔵が確認したかったのも、ちゃんと映し出されている。
 実際は物というのではなく、人である。
 そこには椅子を壁に向け、何が楽しいのかそこにじっと座っている、人の後ろ姿が見えた。
 あまりにも座ったまま微動だにしないので、三蔵の脳裏に一瞬「死」という文字が浮かんだが、先ほど動いていたのはこの人物のはずだ。
 なら、どうして今は動かないのか。
 いったい何をしているのか。
 三蔵はその人物に興味を持ち始めていたことに、このときはまだ気付いていなかった。まったく動かない無音の世界を、ずっとそれでも飽きずに見つめていたのにも関わらずに。
 しばらくすると、コンコンと来訪者を告げる音が鏡から流れてきた。
 てっきり音がしないから、やはり音までは通すことができないのだと三蔵は勝手に思っていたのだが、実際のところは本当にただ音がしていなかっただけのようだ。
 コトと音を立てながら心持ち椅子を後ろに下げると、その人物はゆっくりと腰を上げてこちらを振り返った。
 そのときの心臓の高鳴りはいつまでも止まなかった。
 彼の性格が現れている様な穏やかな顔。優しげな光を帯びた瞳は緑色で、深い深いその色は心を落ち着かせてくれるように感じられるものだった。
 それでも高鳴りは止まない。
 三蔵はそれを抑えようともせず、本人さえも気付いているのかわからないほど、彼を瞳で追い続け、彼から瞳をそらせられないでいた。
 あれは誰だ?
 そんな疑問が頭をもたげたとき、三蔵は体が浮き上がる感覚を覚えた。





 三蔵はゆっくりと瞳を開いた。
 昨夜遅くまで眠れないでいたために、朝の早い病院内では少々寝坊ぎみに入るだろう。
 久しぶりにとても穏やかな気持ちで覚めたのに、心臓がなぜかとても痛いような気がした。
 その理由を考えてみて、やっと夢を思い出す。
 三蔵はゆっくりと瞳を閉じて、夢の内容を反芻する。
 石の世界。鏡の中の世界。
 それに映る彼。
 穏やかで暖かみがあるが、どこか物悲しげな緑色のそれ。
 どうしてあの印象深い瞳を忘れることができたのだろう。
 あれは誰だったのか。
「………」
 浮かんだその疑問に、三蔵は自分のことながら驚いた。
 初めてかもしれない、自分から他人に関心を持つなんて。
 彼のことなど、まったくわからない。
 どういう人物で、どういう考えの持ち主で、どういう声をしているのか。
 もしかしたら印象の通りに穏やかな人物かもしれない。たが外見では想像できないほど、凶悪犯かもしれない。
 初めて会う人だからこそまだ知らぬ彼に対して様々な想像が浮かぶのだが、どうしてそこまで引かれるのか、三蔵はまだわからなかった。
 だからこそ。
 今まで高い壁を作り、わざわざ乗り越えてきた奇特な奴以外とはなるべく接触をもたず、関心さえ持たずいにいた自分を変えたその彼を、もう少し見てみたかったと思った。
 三蔵は瞳を開いて扉を見た。
 看護婦が好んで履くサンダルの音が近付いてきたからだ。
 そこで三蔵は思考を中断させたのだった。






続く