SAIYUKI
NOVELS 42
離獣が求める最期 9  2000.12.20
SANZO×HAKKAI
 八戒が笑顔を見せてからゆっくりとまぶたを閉じていくまで、三蔵は彼から視線を外せないでいた。
 その笑顔はあまりにも儚げで、今にも空気にとけ込んでしまいそうで。
 彼がもっと遠くへ、最果てといえるどこかへ行ってしまいそうな、そんな不安が三蔵を襲う。
 少し揺さぶってみても、口元に笑みを浮かべたままの彼の瞳は開かなかった。
 もう彼を求めてはいけないと思っていた。たとえどんなに強く心が彼を欲しても。
 あんなひどいしうちをして、。あんなに酷い言葉をなげかけて。そしてその手を離してしまった。
 その彼は今違う人の腕の中にいるはずだった。
 今まで自分に向けていた幸せな笑顔を、違う人物に向けているはずだった。
 2人が本当に恋人同士なのか、ただふりをしているだけなのか、それとも自分は氷山の一角しか見えていないのか。真実を知りたいと思う反面、知ってどうすると思う自分がいる。
 しかし知ったとしても昔のような関係には戻れないのだ。八戒が自分のあの凶悪な行為を許すはずがないのだから。
 そう思っていたのに彼は笑顔を見せてきた。とてもとても嬉しそうに、彼は自分に笑顔を向けた。
 昔自分に向けていた、あの幸せそうな笑顔を。
 なぜ笑う?
 どうして幸せそうに?
 そんな疑問が頭を占める。
 しかしそれを三蔵が口にできるわけもなく、また言葉にしたとしても堅く意識を閉じている今の八戒が答えてくれるはずもなかった。
 三蔵は八戒を抱く腕に力を込めた。
 堅く閉ざされた瞳。弱々しい体。そして白い顔とは対照的な、三蔵の手と八戒の顔を赤く染めた彼の鮮血。
 どれもこれもが考えを嫌な方向へと持って行くのには充分なものだったが、その条件がそろえばそろうだけ三蔵は冷静になっていく。
 彼という存在をこの世から失いたくないから。
 確かに彼の手を離したのは自分。傷つけたのも自分。だがそれは彼を不幸にするためにしたわけじゃなく、まして黄泉の世界へと行かせるためにしたわけではなかった。
 ただ彼を幸せにしたかっただけだった。彼の穏やかな笑顔が永遠に守られる場所へと、導いてやりたかっただけだったのだ。
 その想いは今も昔も変わることはない。今までの行動はすべてそれが元である。
 だから今回も慌ててなんていられない。
 思考が止るなんてこと、あってはならないのだ。
 キレのいい頭が即座に回転を始める。
 八戒の血で染まった背中を見てみると、細い枝が深々と刺さっている。対角線上の向こうに視線を向けてみれば、そこには三蔵が消し損ねた樹木が佇んでおり、さらに細い枝を投げつけようと構えているところだった。
 あのときに始末しなかったことが悔やまれる。
 絶対に許しはしない。
 するどい視線に憎悪や怒気をのせて再度樹木を睨めば、金縛りにあったようにピタリとその場を動かなくなった。
 しかし三蔵にはわかっている。
 式神を倒すよりも何よりも、八戒の手当てが先決だということを。
 けれど今視線を外したら、敵にチャンスを与えてしまうのは明らかだった。
 八戒に負担をかけないよう、三蔵は自分の銃を構えようとして…。
「八戒っ!」
 その悟空の緊迫した声でみんなの視線が八戒へと集中する。この緊急事態に気付いた彼らは、高速に敵を倒してかけつけようと必死になっていた。
 そんな中、唯一式神の意向に気付いた紅孩児は、自分が織り成す炎で一瞬にして式神を包み込む。
 暴れまくる式神。葉を大きく振り、幹を細かく振るわせる。しかしどんなにあがいてもそれは小さな抵抗にしかならず、確実に燃えていく式神はだんだんと小さくなり、燃え尽きて少しの細かい灰さえもが小さな風に乗っていき、そして何も残らなかった。
 今や式神が存在したことを証明するものは、八戒の背中に刺さっている1本の枝だけだった。
 それさえも存在していることが憎たらしい。早くこの刺さった木を抜いてしまいたかった。
 見たくもないものだし、ましてや見るのも痛々しいそれを早く取ってやりたかった。ところが医学の心得がない自分にはその後の処置を何もできるはずがなく、木を抜いてしまうと吹き出してくる血が彼の体温をも一緒に出てしまいそうで、三蔵は目に痛くとも、心に痛くとも、そのままにしておくしか方法がなかった。今できること、それはなるべく枝に触れないように、傷に刺激を与えないようにするだけだった。
 八戒を横向きにしたまま慎重に体を地面へと横たわらて、楽な体勢を取らせてあげる。
 腕にかかる久々の彼の体重はとても軽く、赤い海を作ろうとしている血に染まり、ぐったりとしと目を閉じているその姿は、昔見た今でも忘れることのできない光明三蔵を思い出させた。
 もう失いたくはなかったのに。
 これが今回の結末だとは思いたくない。
 最初に三蔵と八戒の元に近付いてきたのは悟空だった。
「八戒っ!目ェ開けろよっ!!」
「八百鼡っ」
「はいっ!」
 八百鼡が戦っていた相手を独角が引き受けると、紅孩児の指示で八戒の元へと急ぐ。
 てきぱきとした動作で手早く応急処置をしていく間に、緊迫とした空気が流れるこの場には彼ら以外のものはすべていなくなっていた。
「傷の具合はどうだ?」
 それは誰もが知りたかったこと。だが口を挟めず、無言で八百鼡の手元を見、そして八戒の様子を見つめる中で、敵を片付け近付いてきた紅孩児が代弁する。
「命に別状はありません」
 決して大きくない八百鼡の声が、静かなこの場所には大きく聞こえた。その彼女の一言は三蔵たちが求めていたもので、明らかに流れていた空気が柔らかなものへと変化していた。だれもが肩の力を抜いたことだろう。ところがこの事態をそう甘く見てないのが、紅孩児たち一行である。
「では早く移動しよう。ここではちゃんとした処置ができない。もし種が今活動を開始したら危険だ」
 今でさえもこんなに細くなり、確実に八戒の体が木へと変化しているというのに、この負傷で体力がなくなっている今、もし種が活動を開始したら、多分八戒は拒むことができないだろう。するとどこまで変化してしまうかわからない。
「ここから一番近い町までどのくらいだ?」
「30分ほどです」
「…待てや」
 紅孩児は眉根を寄せ、引きとめた悟浄をみる。
 待ってなどいられるはずがない。一刻を争うかもしれないのだから。
 紅孩児たちは焦っていた。だからこそ彼らは気付かないでいた。自分が禁句を口にしたことに。
「種ってなんのことよ?」
 そう悟浄が尋ねるまで、誰1人として。
「………」
「ダンマリか?そりゃないんじゃねーの?さっきの口っぷりじゃ、八戒はまき込まれてんだろ?なら俺たちにも言うのが筋ってモンだろ?」
 前々から気にはしていた。彼らに黙っていていいのか。知らせた方がいいのではないか。
『言わないで下さい。このことは誰にもっ!』
 八戒とした約束。それを忘れたわけではない。
『心配、かけたくありませんから』
 それでも。
 これがちょうどいいのかもしれない。
 隠すにはもう限界だろう。
 ましてや本人のためになるかもしれないではないか。それにこんなにも彼を思う仲間にだまっていることなど、できるはずがない。たとえどんなに八戒が真実を隠したがっていたとしても。
「…わかった、後で離そう。まずば移動が先決だ」
 彼がゆっくりと休めるところへ。あらためて八百鼡が治療できるところへ。
 誰よりも早く動いたのは三蔵だった。
 自分の腕の中に力なく投げ出されている八戒の体を抱き上げると、静かにジープへと近付いて行った。
 とにかく町へ。少しでも早く。
 そこには三蔵たちのこれからを左右することが待っているのは明らかだった。





 真っ白いシーツ。真っ白い布団。そしてそこに横たわる、八戒の真っ白い顔。
 土気色とまではいかなくとも、あまりにも静かに眠る死人のような彼の顔は見ているだけで心がざわつくものがあるが、三蔵が握っている彼の手は以前のように暖かく、彼がいまだ目を覚ます気配がなくともこの世界にいることを教えてくれていた。
「じゃ、説明してもらおーか?」
 迷惑そうにしている宿屋の主人より、もちろん八戒の方が大切で。何かいいたそうにしているのを無視して宿を取ると、傷に差し障りがないように八戒をベッドへと横にして寝かせ手当てをし、やっと皆がそれぞれ落ち着けたところだった。
「……俺がこいつと会ったのは森の中だった…」
 紅孩児はたんたんと話始めた。
 式神の放つ実のこと。その実を八戒が取り込んでしまったこと。それによって現れる味覚と体の変化のこと。
 知りうる限りすべてのことを告白した。
 それは誰もが信じたくないものだった。できることなら耳を塞いでしまいたいものだった。
 毒舌を吐くこともあれば笑顔に秘める真意が恐かったこともあったが、でもいつも優しくて暖かいそんな彼が、いつかは木へと変化してしまっていなくなってしまうなど。
 その原因は本当に些細なことで。本当に一瞬の出来事で。
 それなのにどうして信じられるだろう。
 だが、大人数のために狭くなったこの室内は紅孩児の声しか響いていておらず、その静けさこそが彼の告白を信じるという証だった。
「…治せるのか?」
「まだわからん。治せないはずはないんだ」
 そのあやふやな物言いに、悟浄の怒りに火がついた。
 何に対する怒りなのだろう。
 あの式神を召喚させた者に対してか。
 いまだ治すことのできていない紅孩児一行に対してか。
 それともこんな大切なことを隠していた八戒に対してか。
 どれもがあてはまるような気もするが、だが何よりも彼が苦しい思いをしている中で、たとえ知らなかったといってものうのうと過ごしていた自分たちに対してが一番だろう。
 これは奴当たりだ。わかっている。
 彼らだって全力を尽くしてくれている。それもわかっている。
 なのにどうしても怒りを押さえることができなかった。
 しかし。
 流れた視線が独角のそれとぶつかる。
 以前ずっと見ていた瞳。ずっと見守っていてくれた瞳。自分を知る瞳。
 それが少しずつ怒りを沈下させていってくれた。
 最後の塊を自分で押し込めるように、ゆっくりと悟浄は息を吐いてから言葉を綴る。
「…約束したんだろ」
「ああ。確かに実を消滅させる薬があったはずだからな。見つかり次第すぐ渡すつもりだ。そのためにこちらに来てもらったのだからな」
「それで…」
 悟空の呟き。それはしかしみんなの呟きでもあった。
『僕ちょっとやりたいことがあるので…』
 それは別行動をとるときのこと。
 八戒が言うやりたいこととは、取り込んでしまった実を無くすことだったのだ。
『行けません』
 それは彼が紅孩児と姿を消した後、再会したときに悟空が「帰ってこい」と言ったときのこと。
 確かにこちらに帰ってこれるはずがない。だってまだ実は八戒の体内にあるのだから。
『今の僕にはこの方たちが必要なんです』
 紅孩児の元にいると言った彼を悟浄が問いただしたときのこと。
 そんなこと当然だ。彼らしか八戒の未来を明るくできないのだから。彼ら以外どうすることもできないのだから。
 そう。確かに彼は「今の僕には」と言ったのだ。
 よく言葉をかみ締めて理解していれば、そのときに彼を問いただすことが可能だったのだ。
 こんなに彼を傷つけることなく、1人にすることもせずにすんだのだ。
「…でもそれならわざわざお前らのところに行かなくてもいーじゃん」
 別に自分たちの元にいて、彼らからこっそり薬をもらってもいいはずだ。
「こいつは実が活発化させない薬を隠れて飲んでいたし、いつきさまらに見つかるかわからん状態で、連絡をとるのはとても困難だ。まして本人は今回の件を知られるのが嫌だったらしいぞ」
「えっ」
「強く拒んでいた」
「なんでだよっ、仲間じゃねーかっ!」
 悟空は涙をためて眠る八戒へと怒りと悲しみをぶつける。
 淋しい。悲しい。冷たい。
 そんな感情が渦をまく。
 彼からは優しさと暖かさをたくさん貰ってきたのに、自分には彼に与えることができないのだろうか。
「仲間だから、手を煩わせたくないそうだ」
「そんなの…」
 こぼれ落ちそうな涙をぐいっと乱暴に腕で拭って、八戒を食い入るように悟空は見る。
「八戒の状態は?」
「怪我の方は大丈夫、先ほど薬を飲ませましたから実の方も今は心配ないでしょう。ですが、今回のことで抵抗力と体力が低下しているはずです。今もし実の活動が活発になったらいくらなんでも…」
 久々に戻ってきた八戒。それを願っていたのは三蔵だけではない。
 一緒に散歩するのが大好きだった悟空。
 雨の中倒れている彼を救って、旅をするまでの間同居していた悟浄。
 2人にだって様々な思い入れがあるのだ。
 やっと手を伸ばせば振れるところに戻ってきた八戒が、もしかしたらまたいなくなるかもしれない。それが今度は、永遠に会えないかもしれないのだ。声も聞けず、優しい笑顔を見ることさえもできないかもしれないのだ。
「実の動きを一時封じる薬は、あまり飲ませると実が免疫をつけてしまう。だからどこまで動きを封じられるか実際のところわからん。だが限界までこの薬を使い、実を消滅させる薬を待つのが得策だろう。その薬は今独角が探している。それと同時進行で八百鼡も作っているところだ。ことは急を要するので今まで以上に急いではみるがな」
 そうだ。いつまでもここにはいられない。八戒の手当ても終ったのだから、少しでも1分でも1秒でも早く彼に薬を渡さなければならないのだ。
 八百鼡と独角が席を立って部屋を出て行く後を、紅孩児が追おうとしたが。
「待て」
 それを三蔵が拒否した。
 三蔵はちらっと悟浄に視線を向ける。案の定、彼は自分に瞳を向けていて、ちゃんと意味を悟ってくれた。
「行くぞ、サル」
「えー」
 八戒が覚醒するまで傍にいたいようだったが、悟浄は悟空を強引に連れ出した。
 パタン。
 完全な密室。今この部屋にいるのは、眠る八戒と三蔵とそして紅孩児だけである。
「何だ」
「……こいつはお前を追いかけたものと思っていた」
「…何を言ってる?」
「一生お前といたいがために、そっちへ行ったと思っていたんだ」
「そんなことがあるわけないだろう」
 八戒を見つめたまま語る三蔵。八戒の姿から視線をはずしたらいけないというように彼を見つめる強い眼差しには秘めた思いをのせて。
 それは三蔵と八戒の関係を明らかにしているものだったから、紅孩児は三蔵が何を言っているのかを違えずに悟ることができた。
「…なるほどな。そういうことか。しかしそれはありえんことだ」
 強くはっきりと否定する。
「どうしてそう思った?」
「以前お前たちのキスシーンを目撃したのでな」
「キスシーン?」
 そんなこと1回だってありえない。それは三蔵の見間違えではないのかと思いながらも、紅孩児は今までを振り返ってみる。
 昨日。その前。
 1日1日と時の流れを戻して行って、そしてふと気付いたこと。
 あれなら間違わられても仕方がないかもしれない。
「薬を飲ませたときのことか?」
「薬?」
「ああ。1度だけキスと言えばそう呼べる行為をしたことはある。やはりこいつが激痛に体をこわばらせていてな。あまりにも酷いので、先ほど言った実の動きを一時封じる薬を口移しで飲ませてやったことはあった。奴はそんな余裕がなさそうだったのでな」
「………」
「こいつとはそういう関係は一切ないぞ」
 三蔵は後悔していた。
 タイミングが悪すぎたとも言える。だがもしあのとき三蔵がすぐに立ち去らなければ、八戒が実を取り込んでいたことも知ることができただろうし、2人の関係を勘違いすることもなかったかもしれなかったのだ。。
 あの式神が悪いわけではなく、すべては自分だったのかもしれない。
「話をこじられてしまったようだな。しかし…だから、か」
「何がだ?」
「最初奴はこちらにくることをきっぱりと拒絶した。なのに突然くると言い出す」
 それがあの暴力がきっかけなのは明らかだった。
「ずっとお前たちのことを考えていたようだぞ。どこか遠くを眺めているようだった。お前たちの話をするときはやはり何かが違ったしな」
 もう言うことはないとばかりに、紅孩児は出て行った。
 三蔵は八戒を改めて見つめると、そっと手を伸ばして少し乱れた髪を梳く。ゆっくりと1本1本丁寧に。
 久しぶりの感触。久しぶりのぬくもり。久しぶりの吐息。
 八戒とどのくらいの間、心が離れていたのだろう。まだそんなに経ってはいないはずだが、もう何ヶ月もたったようにも感じられる。
 その間のことが怒涛のように脳裏を流れた。
 そういえば式神と戦った数日後、食事後に苦痛を漏らしていた。その後も食事はとってはいたものの積極的ではなく、不自然なほど物静かだった。あれは自分たちに異変を悟られないために、いつものように振るまい、我慢して食事をとっていたのだろう。そしてその後に必ず訪れる激痛を耐えるため、彼は身を隠す。台所へ行ったり、散歩へ出かけたりと、様々な理由をつけて。
 そして問題の日。自分が八戒を突き放した日。
 確かに彼は「違う」と言ったのだ。その後は肯定も否定もしなかったが、しかしそのときは否定していた。それなに自分は勝手な解釈で彼を傷つけ、瞬間出た本音を無きようにしてしまった。そして傷口に塩をぬるような言葉を選び、傷をえぐるような態度をして、その傷が癒えぬまま力任せに彼を抱いた。あのとき彼が言った「抱いて欲しい」という言葉。あれも本心からだっただろうに、捻くれた考えをして、抱いたのだ。人間と妖怪とでは力の差は歴然としているのだから、本当は自分を跳ね除けることなど簡単なことなのに、彼は抵抗もせずにそこにいた。どんなに冷たかろうとも、どんなに駆使されようとも、文句さえ言わず泣き言さえ言わず、そこにいた。ひっそりと。そして「有難う」の言葉を残した。
 彼は本当にあんなので満足したのだろうか。いや、するわけがない。
 優しい彼。暖かい彼。穏やかな彼。
 それはわかっていたし、彼の近くにいるととても心が和んでくることも理解していた。
 だが、彼と心が離れると、こんなにも自分の心が疲れ、ささくれ立ってしまうとは思ってもみなかった。
 あまりにも自然に近付き、あまりにも自然に深く、彼が大切になっていたので、ここまで自分に変化を及ぼす存在だとは気付かなかった。
 1度離れた人。もう2度彼の傍にいられないと思った存在。
 もしまだ彼が少しでも自分のことを想ってくれているのなら、もう1度やり直して、もう2度とこの手を離したくないと、三蔵は思った。
 自分の手でもあまるほど細くなってしまった彼の手をぎゅっと握る。





 夢は見なかった、と思う。
 夢はもう見たくない。いい夢だろうと悪夢だろうと、どちらにしろ自分には胸をかきむしりたくなるようなものだから。
 三蔵とともに歩んでいるいい夢なら、それはどうせもう願えぬこと、願ってもどうしようもないこと。
 自分が木へと変化していく悪夢なら、どうせ夢を見なくとも自分はもうすぐ死を選ぶだろうし、もしその前に木へと変化してしまったとしても、それは今後目にできるものだから今はまだ見ていたくないもの。
 だからどちらにしたとしても、今の八戒には夢なんぞどうだっていいものだった。
 昔は夢に一喜一憂していた自分がいたのだが、それは愚かなこととすでに今では悟っている。
 だから今更夢を見なくてもどうでもいいし、夢を見ない方がかえって気分がすっきりするものだ。
 だからなんとも思わない。
 久しぶりに何も考えず何の夢も見ずに、深く深く眠りについたようだった。
 覚醒はとても冴えたもので。
 ゆっくりと瞼を開ければ、そこには光があった。
 あまりにも眩しくて瞳を細めれば、窓から入ってくる夕日の光を背に座ってこちらを見ている三蔵が瞳に映った。
「!……っ」
 あまりにも驚いて起き上がろうと動いたために、背中の新しい傷が疼いてしまった。
「大丈夫か?」
 ゆがんだ顔のまま三蔵を見れば、以前幸せだったあのころの、そのままの彼がいた。
 それですべてを思い出す。
 背中に何かが食い込む感触。そこに激痛が走り、熱くなり、急速に意識が闇へと閉ざされていったこと。三蔵の腕に抱かれていたこと。
 そう、三蔵の腕に抱かれたのだ。ずっと願っていた彼の腕に。
 嬉しくて嬉しくて、あのときに死ねたらどんなに良かっただろうと、考えられない霞がかった思考の中でそれでも思ったこと。
 しかしそれは最期だからだ。
 今目の前に三蔵がいたら、自分はどうすればいいのだろう。
 この状況をどうすれば…。
 そして気付く。手を握られていたことに。
 慌てて八戒は手を離した。
 痩せてしまったみっともない手。化け物のような白すぎる肌。そして何よりも三蔵が嫌うだろうから。
 しかしこんな状況でも、久しぶりに聞いた三蔵の声に嬉しく思う自分がいる。
 三蔵はいい迷惑だろうに。
「ええ。ここは…」
 ほら。少しでも話を長引かせて、彼の声を聞き、彼の姿を見て、彼を近くに感じようとしている。
 自分勝手で、浅ましい自分。
「宿屋だ。覚えてるか、怪我をしたのを」
「はい。誰が運んでくれたんですか?」
「俺だ。暫くは安静にしてろ」
 そうだったのか。もったいないことをしてしまった。
 意識があったのなら、この人のぬくもりをもっと近くで感じることができたのに。
「…有難うございます」
「……」
「……」
 八戒の感謝の意を最後にこの部屋には沈黙が流れた。
 やはりぎすぎすした空気は変わらず、いたたまれなくなる。
 八戒はゆっくりと瞳を閉じた。
 無理をしなくてもいいのに。
 そこまで優しくしてくれなくてもいいのに。
 その優しさが自分に期待を持たせてしてしまうではないか。まだ彼が自分のことを少しでも好きでいてくれるなどと。
 そんなこと、ありえないことなのに…。
 このまま彼が傍にいたら、自分はもっと期待してしまう。その後空しくなるのはわかりきっている。惨めな気持ちにはなりたくなかったから、だから八戒は彼を自由にすることにした。
 もっととねだる気持ちを経ち切るために、ゆっくりと瞳を閉じて。
「…大丈夫ですから、もう…」
 近くにいたいけど、でも辛い。
 そんなことを思うことがあるなどと、今まで気付きはしなかった。
「……やはり許せないか?」
 自分をここから排除する八戒のその言葉。
 それは当然だと自分でも思う。それだけの行為を今までしてきたのだから。
 裏切られたと思っていたが、実は裏切ったのは自分だったのだから。
 彼を信じなかったと言う、最大の裏切りを。
 突然心持ち重そうな口調で言ったその言葉は、八戒を驚愕させるのには充分だった。
 閉じていた瞳を開き、三蔵に緑色の瞳を見せる。
 左右少しだけ色が違くなってしまった瞳を。
「何のことです?」
 何のことをいっているんだろう。まったく三蔵の意図がわからない。
 許す?何を?
 彼がここを立ち去るのに、どんな関係があるんだろうか。
 八戒はゆっくりと上体を起こし、困惑気に三蔵を見つめる。
 そんな八戒に手を貸すこともできないほど、三蔵は内心狼狽して八戒の瞳を見つめ返していた。
 何でそんな顔で見る?まったく八戒の意図がわからない。試しているのだろうか。
「…いや、いい」
 冷たいと思わせる口調といつものそっけなさで、三蔵は八戒を残して部屋を出る。
 扉を閉める寸前、彼を見て。
 どこを見ているのか。何を考えてるのか。一点を見つめたまま視線は動かない。
 自分を見ず、そして生気のないような瞳。しかしその表情は悲しそうで、淋しそうで。
「………」
 パタン。
 戻って抱きしめたい。そう思ってもそれをやらなかったのは、彼が出て行けと口外に言ったから。
 以前はあれほど彼の気持ちなど手に取るようにわかったのに、それが今ではわからない。こんなに離れてしまった気持ちに、三蔵はなんとも言えない気持ちになる。
 いつのまに、ここまで…。
 だが、そうした発端は自分だったのではないだろうか。
 勝手な解釈をして、今まで彼がどう思って行動してきたのか考えもしなかった自分。
 それが積み重なり、今の自分たちの関係になっているのではないか。
 そうだ。今まで彼の行動は何だかの理由があった。
 言わない理由、言えない理由。
 それを考えない自分、聞かない自分。
 それは相手に興味がないのと同じではないのか?
 そしてそれは今も同じ。
 彼は許してくれないだろう。でもできればまた戻りたいのは事実。彼を離したくないのが真実。
 だからこそ、今までのように逃げてはいけないだろう。
 パタン。
 無言でまた戻ってきた三蔵を、なんの表情も浮かべぬ顔で八戒が見つめる。
 何も言わずにすたすたと元に位置へと戻ると、どかっと先ほどの椅子へと腰をかけた。
「…お前にそういうことを言いたいわけじゃねえ」
 視線を八戒からそらすと、三蔵はまた黙り込む。
「……?」
 煙草を1本取り出して火をつけようとしている。何かイラついているのだろう、それはそういうときの彼のいつもの癖だから。しかしライターの火を灯したとたん彼は煙草に火をつけずに消してしまうと、くわえた煙草をくしゃりと掌で潰して窓から外へと投げ捨てた。
 病人の前で煙草は厳禁だと、さすがに苛立っていようとも三蔵は気付いたらしい。
「…すまん」
「何を誤るんです?」
「今まで、すべてのことだ」
「すべて…」
 紅孩児との誤解は解けたようだ。それはとても嬉しい。だが、彼はどこまでを「すべて」でくくっているのだろう。
 自分が悲しかったのは、紅孩児とのことだけ。でもそれは謝ってほしいとかそんなのではなく、もう誤解をされたことはどうでもよくなっていた。それよりも彼と昔のように一緒に過ごせなくなったことが、何よりも悲しかったから。
「ああ。お前が今まで内に秘めていたこと、すべてだ」
「…まさか……」
 本当に今回のこと、すべてを?
 紅孩児のことだけでなく、この実のことも?
「…紅孩児が言ったんですね」
「お前はお前なりに考えがあってのことのようだが、残された者のことも考えるんだな。俺だけにでもなぜ言わん」
「それは…足手まといになりたくなかったからです。ガラスのように扱われるのも嫌ですし、何よりあなたと一緒に旅を続けたかった…できうるかぎりあなたの傍にいたかったんです」
 その思いを砕いたのは三蔵。
 しかし誤解を受ける要素をつくったのは八戒。
 どちらが悪かったのか正しかったのかそれははっきりしないが、どちらも言葉が足りなかったし言葉を追求しなかった。
「…今はどうなんだ?西を目指すつもりはあるのか?」
「あなたの近くにいることが…僕の望みですから…」
 三蔵は八戒を抱きしめる。
 今度は優しく。八戒のすべてを包み込むように。
「知らんぞ。お前がどんなに振りほどこうとしても、俺はお前を離さんぞ?」
「ええ……離さないで…下さい」
 自分より背が高い彼なのに、自分の腕の中にすっぽりと入ってしまうほど、抱きしめる体は折れそうで。
 しかし変わらないのは雰囲気。薫り。
 それが嬉しくて。またこの体を抱きしめることができたことがとても幸せで、壊れそうなのにもかかわらず三蔵は少し力をいれた。それでも物足りないのか、八戒は小さく「もっと」と耳元で囁きながら強く強く抱き返してくる。それに答えるように三蔵は更に強く抱きしめた。
 腕の力を緩めて頬へと掌を持って行き顔を固定して唇を奪えば、八戒は嬉しそうに頬笑み、照れくさそうに瞼を閉じる。その閉じた瞳から流れた一筋の涙が今までの溝を埋めてくれた。
 もう1度深く口付る。それが離れた心をも深く繋げてくれたような気がした。
 お互いに強く求めた存在。
 すれ違った強くて深い想いは、やっと今1つになることができたのだった。






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