|
|||||
怪我をした八戒は本人が自覚していなくともやはり体力を消耗していたようで、夢にまで見るほど願っていた三蔵一行との旅を再開できる喜びと三蔵の傍にいれる幸福感で、今まで内にあったしこりが1部取れたということもあってか、八戒は三蔵が見つめる中、ゆっくりと眠りへ淵へと再度足を踏み入れていった。
「ここにいてやるから寝ろ」
眠り間際に言った三蔵の破格的なその言葉に、嬉しいながらも彼が無理していることは今までのことからわかるので、八戒は苦笑いを隠せなかった。
「そこまでして頂かなくてもいいですよ。もう…充分です…」
あとどれくらいの命なのかはわからないが、それまでは彼と一緒にいられるのだから。
また彼を感じていられるのだから。
「…いいから寝ろ」
それでも三蔵は八戒の断りを無視して、ドカリと椅子に座るとすらっとした足を流れるように組んで、近くのテーブルの上にあった本を開く。
八戒からは顔は見えなかったが、それでも彼の姿と彼の気配が感じられるだけで、こんなにも自分は満たされているのだという事実と、多分三蔵は言葉通りずっと傍にいてくれるだろうその優しさが、ついつい八戒を強く眠りへと誘っていった。
暫くしてから三蔵が活字から八戒へと視線を向ければ彼は安眠を取っていて、小さな寝息も耳に届いてきた。そんな彼に安堵すると、三蔵は再度視線を本へと向けた。
いつも読む新聞を、なぜ今日は読まないのかといえば。それはさっきあまりにも音がうるさいのに気付いたからだ。
窓からは心地よい風が入り、一緒に心和む鳥の鳴き声も入ってくる。そんな暖かい空気が流れる無音の室内では、新聞をめくる乾いた音が大きく響いてしまうのだ。それが八戒の眠りを妨げてしまうような気がして、三蔵は新聞を読むのを止めてしまった。何かないかと室内を目で探っているうちに、ふと以前八戒が読んでいた本があったことを思い出した。
そして三蔵は読んでいる本が、その本だったりするのである。
活字を1つ1つ瞳で追いながら、八戒から聞こえてくる穏やかな寝息に耳を傾ける。そしてたまにそれがやめば、三蔵は視線を上げて八戒の様子を見るのだ。
繰り返し行われるそれは、まるで八戒の眠りを守っているようでもあって。
彼に向けられる視線はとても柔らかくて。
以前もたまに目にしたことがあるそんな光景。しかし2人を包むものはよく目にしていたものだったから、悟空が音を立てないよう細心の注意を払って部屋へと入ってきても、すぐにはこの自分が好きな光景に目を奪われて言葉を綴れないでいた。
ましてやそれは、そんな悟空に痺れを切らした三蔵が、我慢しきれずに口を開くまで続いた。
「…何のようだ」
その冷たい言葉には、用件がなければ早く出て行けという意味が含まれているということを、さすがの悟空にも理解できた。
それでも抑え目に発せられたその音声は、もちろん八戒を思ってのこと。だから三蔵の耳に届いた悟空の声も、彼に習って抑え目になっていたものだから、それはそれでいいのだが。
「三蔵、お金貸して」
「………」
内容があまりよくなかった。
ぴく。
こめかみを震わせて視線を悟空に投げかけるが、すぐにそれを活字へと戻す。何ごともなかったかのように活字を追う姿は、懸命に悟空が言ったことをないように、悟空の存在を無視するようにしているように感じられた。
しかしそんな三蔵の小さな努力も空しく、悟空からは請求の声がかかる。
「なあ」
「…なぜお前に渡さなくちゃならねーんだ?」
「いいから。貸してくれよっ」
「貸すということはだ、ちゃんと返す義務があるんだよ。お前が返せるわけねーだろ」
「じゃ、ちょーだい」
「………」
突然どうしたんだろうか。こいつにお金なんて必要ないことじゃないか。今までだってそんなこと言ったこともないのに。
「なあ、早くっ!」
「ざけんな。誰がやるか」
「頼むよっ!」
「し…」
しつこいと、三蔵はそう言おうと思った。
だから本を閉じて怒りと勢いのまま悟空に顔を向けた。だがその勢いは悟空の顔を見たとたん、削がれてしまった。だってそこには三蔵が思ってもみなかった、あまりにも必死に訴えてくる悟空がいたものだから。
そんなに必死になるほどの何があるのか。
そこまで必死になるほど欲しいものが彼にもあったのか。
彼が今まで食べ物以外にそこまでうるさく興味を見せたことなどなかったので、それが何なのか気になるところだったが、あまり長く会話をしてせっかく安らいで寝ている八戒が起きてしまったら大変なので、三蔵は追求を後に降参の白旗を上げた。
「…いくらだ」
「千円」
にぱっと明るくなった表情とともに、にゅきと三蔵の目の前に差し出された掌へと、要求された1枚の紙幣とは別にコインを乗せてやった。
「税込みだ」
「…サンキュ」
掌に乗せられたお金に1度視線を向けた後、ぎゅっと握り締めて嬉しそうにへへと笑うと、落さないようすぐにポケットに入れ、中にお金が入っていることを確認するようにポケットを上から叩く。
そして眠る八戒を見つめた。
「早く行け」
「うん…」
ぱらぱらと読んでいた頁を探しながら三蔵は退出を命じると、悟空はそれからほんの少し八戒を見つめてから、入ってきたときと同様に八戒を気遣うように静かな足取りで歩を進めて静かに扉を閉めた。ところが八戒を見ている時間があっても実はとても急いでいたようで、廊下に出た悟空は室内とは一変してものすごい音を立てて外を目指して走って行った。
ふう。三蔵は溜め息をつく。知らず知らずのうちに。
「溜め息ついてますよ」
笑いが含まれた八戒の声。
見れば楽しそうに目元を綻ばせにっこりと笑っている。
はっきりとしたその口調は、彼がたった今起きたわけではないことを克明に告げていて。
「起きてたのか?」
多分さっきの悟空との会話が覚醒に導いたのだろう。そう思ったことが三蔵の眉間に小さなしわをよせさせたので、八戒はさらにくすりと笑った。
「寝ててももったいないですからね。やっとここに戻って来れたわけですし」
ずっとずっと。
花を愛でているとき。
ベッドに入ったとき。
思い出し、そして願ったみんなの元へ。
三蔵の隣へ。
諦めていた、この暖かい自分の場所。
もうここには帰れないと、そう自分に言い聞かせていた場所。
最後の最後で、神様は自分の願いを叶えてくれた。
あとは…。
「それに…離れていた分を埋めるくらい、あなたと一緒にいたい…」
掠れ、三蔵の耳に届くか届かないかほど小さく、八戒は最後の1つの願いを口にする。
残されたわずかな時間、それまでみんなの近くで笑い、三蔵の暖かさに触れていたい。
切実な口調とすがるような瞳を三蔵に向けて。
ふとそれをそらして、八戒は今までの頼りなげなものからいつもの表情へと変えると。
「それにしても、悟空はどうしたんでしょうねえ…」
三蔵の疑問を代弁してくれた。
その悟空はといえば。
彼は人の流れを掻き分けて、疾風のごとく俊足のその足で街中を駆けずり回っていた。
ちゃらちゃらとした音が続くのは、狭いポケットの中で三蔵から貰ったコインが踊っている音。それとは別にもう1枚同じ穴に入っている紙は、もしかしたらくしゃくしゃになって見るも無残なほど可哀相な姿になっているかもしれない。しかしそんなことにはなりふり構わず、悟空はただ目的の物を探してひたすら走り続けている。
たまに立ち止まっては軒先を覗き、たまに立ち止まってはポケットに手を入れてお金を落していないことを確認する。
そしてまた彼はキョロキョロとあたりを見まわして走り出すのだ。
どうしても、何がなんでも欲しいそれ。そう今すぐに。
それはまだそれほど時間が経っていない、カレンダー上では同じ日付。
八戒がやっと自分たちの元へと戻ってきて。
八戒の背中には真っ赤に染まった羽が見えた。
今にもそれを使い、真っ赤な血と羽を落していきながら、自分たちの前から飛んで消えてしまうのではないかと危惧するほどで。
それはただの想像であり幻影なのだが、危険で最悪な状況だということは変わることなく、それでも久しぶりに見たとても大好きな2人のシルエットは、一瞬悟空の瞳に強く映り意識を奪われ、いつまでもいつまでもこの2人の穏やかな姿を見ていたいと、いまさらながら強く思ったほどだった。
なのに。
想像でもなく、幻影でもない。
後の告白でそれが叶わないかもしれないと気付いたときの絶望さ。
それは自分だけでなく。一番強いのは三蔵と八戒で。
だから自分が何か言う立場ではないのもわかっているのに、それでも心強い仲間であるが離れがたい兄のようでもあり、暖かい腕で包み込んでくれる暖かい母のようでもあるそんな彼をどうしてもこの地に留めていたくて、それまで自分たちの代わりに八戒の傍にいてくれた協力者たちが、まだあるわずかな希望を捨てずに残された最後の手段で対抗すべく、立ち去ろうとしたときのこと。
「なあ」
一生懸命な眼差しをもって呼びかける。
女性とは思えないほど強く、なのに穏やかでどこか八戒と似たような雰囲気を漂わせる、自分と同じくらいの背丈の人へ。
「何かできることある?」
悟空のその声と瞳で今どんな気持ちなのかが察知できるほどのひたむきな姿に、申し訳なさが募るとともに力なさがこみ上げてきて、八百鼡はついこれ以上悟空を見ていられなくなり瞳を閉じた。そしてゆっくりと首を振る。
「…残念ながら」
「そっか…」
その落胆した彼の様子に、さらに八百鼡たちを申し訳ない気持ちでいっぱいにさせた。
このいつも元気な彼をこんな姿にさせてはいけない。
そう思って、彼がどう思うかはわからないが、それでも八百鼡は口にした。
「彼を好きですか?」
「当たり前じゃんっ」
迷いもなく即答で。あまりにも自信満々に、満面の笑みを浮かべて。
その誇らしげな姿はどれほど八戒が悟空の大きな存在になっているのかが、理解できるというものだ。
「私も好きです」
「えっ…」
「意外ですか?」
「ううん。そんなことない。八戒だもんな」
たった少し彼と接しただけでわかる彼の素晴らしさ。
悟空の自慢できる存在。
だからこそ驚きはしない。
「じゃあ、なんで敵なんだ?」
「それは私にとっての一番は紅孩児さまですから」
「そっか…」
「ええ」
どんなに好きだとしても、それが一番とは限らない。
一番だと思う人と命運をともにし、ついて行く。
その八百鼡の言葉はとてもよく理解できるものだった。
「必ず彼を助けてみせます。だから私たちを信じてもらえませんか?」
「…わかった」
「そう、1つだけ。食事は無理させないでください。かえって苦痛になってはいけないんです。今の彼には飲み物が一番嬉しい食事ですから」
「さんきゅ」
それが八百鼡の助言。
そんなことから、悟空は今それを求めているのだ。
振り返ってみればあまり食事をしていなかった八戒。
嬉しそうに飲み物を飲んでいた八戒。
それが八戒の一番楽しい食事でもあり、とても嬉しく美味しい食事でもある。
そういうことなのだろう。それならば。
彼から今までもらった「美味しい」もの。嬉しく楽しい食事。だからこそ今度は自分が八戒のためにしてやりたいのだ。
今はちょうど食事どき。
お腹はうるさいし、いい薫りはただよってくる。本当は少しでも早く帰って食事をしたいが、今度こそ皆で食事をするんだ。久しぶりに楽しい食事を。
たがら悟空は探している。懸命に探しているのだ。
「よー、三蔵。メシにしようぜ」
いつもならとっくに食事をとっている時間帯。なのに今日に限ってまだなのは、いつもうるさい当の悟空がまだ外出から戻ってこなかったからだ。
多分あれから急いで何かを買いに行ったはずだ。いつもの夕食の時間になっても珍しく戻ってこなかったのにはとても驚いたが、悟空のことだからすぐに買い物をすませて戻ってくるだろうと、ちょうどさきほど三蔵と八戒で話をしていたところだった。
「あの馬鹿ザルは帰ってきたのか?」
「ああ。下にいる」
「………」
悟浄の言葉をうけ、三蔵は八戒を見る。
せっかく八戒が起きている今だからこそ、まだ一緒にいたい気持ちはある。だが今の彼には食事ができないのだ。そんな彼をつれて行っておいしそうに食事をしている自分たちの姿を見せても何の意味もないどころか、かえって彼が可哀相ではないか。それでなくとも彼は何かを強く気にしているところがあるようなのに、自分の体の変化をさらに目前でつきつけることになるのだから。
「ここで待ってますから」
念の為にどうするかと八戒に尋ねようとしたのに、その前に八戒から返事を返されてしまった。
本当は彼らともに食事を取りたいのが八戒の本音だった。喉がかわいてカラカラの旅人が得た水を貪るように。しぼったスポンジが水分を急速に含むように。とにかくむしょうにみんなといて、みんなの存在を肌で感じていたかった。三蔵の傍にいたかった。しかし自分は食事ができない。せっかくみんなが楽しそうに食事をしているのに、自分だけ食事をとらず、ただ飲み物を口にしていては、せっかくの団欒をぶち壊してしまいそうだったから。
そんな2人が今何を考えているのかが何となくわかってしまった悟浄は、相手を思う気持ちが強すぎてすれ違っているという事実に苦笑する。
しかしそれ以上に。
「…ってゆーか…」
彼らはわかっていない。
三蔵が八戒の存在が強いように。八戒がみんなの存在が強いように。八戒の存在をもとても悟空や悟浄にとっては強いものであるということを。
まだこの2人は気付いていない。
だから悟浄が2人に説明をしようとしたそのとき、タイミングよく階下から悟浄を呼ぶ元気のいい悟空の声が聞こえてきた。
「悟浄!」
「いけねっ」
とにかく腹が減ってるから早くしろと、その焦れた口調から読み取れた。
このままでは暴れかねない悟空を優先すべく、なんの断りもなく説明もなく室内へとドカドカ入っていくと、2種の緯線が絡む中、悟浄は三蔵が座っているその椅子と対になっているテーブルへと近付いていった。
テーブルを凝視すること数秒。
「ちょっとちっせーけど、どーにかなっだろ」
「わかったー」
大声を張り上げて階下の悟空へと話しかけた。
そして三蔵を見、八戒を見て。
「皆で食いたいんだとさ、あの馬鹿ザル。誰にも邪魔されないで、食事してのんびりしてさ、4人だってコトを実感したいんだとよ。だから悪ィんだけど、つきあってくんね?」
悟浄は口の端を少し上げ、悪戯っ子のように軽く笑って提案してくる。
しかしそれは八戒の希望。
「……有難うございます」
「なんでお前が礼言うのよ。せっかくのんびりできんのに、あのうるさいバカ猿につきあわなくちゃなんねーんだぜ?」
「いいえ…」
そんなことない。うるさいなんて絶対に思わない。ただ懐かしさがこみあげ、嬉しさがこみあげ、そしてやさしさと暖かさが伝わることだろう。
「悟浄、手伝えよーっ!!」
「わりぃ、わりぃ」
お腹がすきすぎているためにほんの少しの時間でも我慢ならないと、悟浄をせかせる悟空。
悟浄は自分たちの割り当てられた部屋から三蔵と八戒の部屋へと2脚の椅子を持ってくると、悟空はその間1階と2階を何往復もして料理の品々を運び込こむ。いつも以上の品の多さでテープルの上はすぐに一杯になった。
たくさんの食事。主人がいる4脚の椅子。
久しぶりにそろって席につき、いざ食べ始めようとしたとき。
「八戒。これ」
いつもなら真っ先に食べ始める悟空。ましてや今日は食事の時間が遅れているため、空腹感が強いはずだ。なのにそれを渡すことの方が今の悟空には大切らしい。
それはどこでも渡される、白いビニールの買い物袋。
その形は中身のおかげでデコボコで、袋自体がピンと張っているところから、重たそうな物が入っていることが見て取れた。
「何ですか、これ?……あ」
中を見れば、ビンや缶の飲料水が何本も入っていた。
悟空は普段あまり飲み物は飲まないし、悟浄ならビール、三蔵は缶やビンに入っているものを口にすること自体が珍しい。となると、自分が全部これを飲むということなのだろうか。
「八戒、何飲みたいかわかんねーから、色々買ってきた」
へへと照れたように笑う悟空。
やっと先ほどの悟空の行動の意味が、ここになって解けたのだった。
彼は八戒のために飲料水を買ってきたのだ。三蔵に頭を下げ、わざわざ自分で買い物に行き、何よりも一番の食事の時間をおしてでも。
八戒もまた、一緒に食事に参加できるように、と。
「…有難うございます」
「何飲む?」
「そうですねえ…悟空なら、何飲みたいですか?」
「俺?んーと…リンゴジュースかな」
じゃあ、と八戒はアップルジュースと野菜ジュースを1本ずつ取り出すと、アップルを悟空へと差し出した。
「お付き合いして頂けますか?」
「うんっ!!」
悟空は笑みを浮かべて言った。それはもう嬉しそうに。
久しぶりに見た、晴れやかな満面の笑みだった。
アップルジュースを飲みながら食事をとるという行動は見ているだけで嫌になる。案の定三蔵も悟浄も嫌悪感ありありの表情をしており、見ないようにと心がけているのか視線はそちらに向けないようにしているようだ。それでも彼らは止めようとはしない。今日は特別だから。
悟空も八戒もそして三蔵や悟浄までもがどこか嬉しそうにしているそれはさましく団欒であり、あの4人で旅をしていたころに確実に戻っていたのであった。