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独角や八百鼡から聞いてはいたが、昨日・一昨日とはあまりにも違っている八戒の様子に、紅孩児はどこがどう違うのか視線に集中して1つ1つの言動を見逃さないようにしていた。
植木の枯れた葉をもぎ取っている姿や虫がついてないか確かめている姿、花を愛でながら水をあげている姿。
先ほどから彼をじっくりと観察してみてもほんのわずかさえその違いが明らかにならないため、紅孩児は態度にも出さず、彼になにも問わずにいつも通り接していた。
見た目が変わったわけではなく、体の具合が悪そうでもない。
しかし何かが違うと直感した。
そして目を離してはならないと、誰かが必ず手の届くところにいなくてはならないと、そう思った。
「今は八百鼡が薬を作っている。独角も以前あったはずの薬を探しているところだ。どっちが早いかわからんが、どちらしろもうすぐお前に渡すことができる」
庭に植えてある植物の1つ1つに丁寧に水を上げている八戒の横顔に向かって、いまだ違いを感じ取ろうと様子を伺いながら言った。
しかし当の本人は俯き加減に少し微笑んで「そうですか」と、ただ相槌をうつだけだった。
それは彼にとって最大の関心事のはずだった。
あれほど仲間たちを思っているのだから、一刻も早く彼らの元へと帰りたいだろうと。
なのに彼の返事は上辺だけのように感じられた。
「すみません」
「この前も言ったはずだ。こういうときは『有難う』だろう」
「…そうですね」
八戒からすれば本当に謝罪のつもりで言ったのだ。
もう薬のことなどどうでもよかった。
今彼の頭の中を締めるのは三蔵に返す恩、そのことだけだった。
何をどうやって。そればかりが繰り返し繰り返し、八戒の頭を巡って行く。
時間は少ない。その限られた猶予では、もしかしたら恩を返せぬまま朽ち果ててしまうかもしれない。だから少しでも早くここを出て、自分の死に場所を探しながら三蔵に恩返しする機会を狙おうと、昨晩そう決めたのだが、利用されていることをわかっているのに、なんの見返りもなく自分のために無条件でここまで手を差し伸べてきてくれた彼らには、いまだ言えずにいた。
言えるはずがない。彼らの親切な行為を無駄にすることになるのだから。
ずるい自分。勝手な自分。我侭な自分。
しかしそれもいまさらとさえ思えてしまうことなので、このままでもいいのかもしれない。
そう思い、黙ってこっそりとここから出て行くことにした。
以前偶然にも紙と筆とをかりていたため、それで昨晩のうちにお礼の手紙を書いておいたし、持って行く物などはまったくないので、ほんの少しでも1人の時間ができればそれでいいはずだった。
ところが朝から狙っているそのチャンスはいっこうに訪れず、朝から誰かが必ず入れ違いでここへとやってくる。
朝一番に独角が悟浄の話しを聞きにきて。
八百鼡が体の様子を見にやってきた。
終ったと思えば、今度は紅孩児がやってきて、そして今に至るというわけだ。
花々に水を上げていた八戒に目にふと止った1輪の花。それは確かに昨日までは蕾だったもの。
「見てください」
八戒が見ているその花は、外に向けて白からピンク色へと変化している、薄い花弁を幾重にも重ねたふわふわした感じのものだった。
その花の名はわからないがそれは八戒にとってとても思い出深い花で、ちょうどここにきたころ、この葉にはつやがなく頭が心持ち下がっていて少し元気がないようだった。このままでは確実に枯れてまだ見たことがない花をずっと見れぬままになっているところだったのだが、八戒はそれでも諦めずに水をやっていたのだった。毎日かかさずに、元気になってほしいと願いを込めて。そのおかげか、今はピンと茎を伸ばして空を目指し、胸を張ってその可愛らしい花を自慢気に咲かせている。
「これは祝福を得た花なんですよ」
「祝福を?」
「ええ。この花は1度死にかけていたんです。ですが、今ではこんなに生き生きと綺麗な花を咲かせている。きっと神様のご慈悲があったんですよ」
自分もこの花のように、また新たな生を得られたらどんなにいいことだろうか。
八戒は軽蔑を込めた笑みを口元に浮かべた。
そう一瞬でも考えてしまった自分が馬鹿らしく思える。
そんなことを考えるだけ無駄だというのに。
そんなの夢見ごとだ。ありえるわけがない。自分は今まであんなに大きな罪を犯してきたじゃないか。その自分に神から慈悲を受けるなど、神のご加護など、あるはずがない。
八戒は神から慈悲を受けたその花を見つめる。
以前は生きていることなど何の意味もなかった。生の執着もなく、死ぬことに対してなんとも思っていなかった。だか今では生の素晴らしさがわかるような気がした。
今ならはっきり言うことができる。
できることなら…生きていたかった。
八戒が羨ましげに見つめているその花の元へと、紅孩児がゆっくり近付いていった。
そこには同じときに植えられた同じ種類の花が他にもあっるはずだが、どれもまだ花を咲かせてはいなかった。たった1つ、この花のみがなぜか花を咲かせていたのだ。
まさしくこれは神のご慈悲を得たものだろう。そう言っても過言ではない。
「ああ、だめです」
神のご慈悲と、そしてあまりにも美しく咲いていたので、あの何もない無機質な部屋に飾ったら少しは華やかになるだろうし、彼にもほんの少しでもその慈悲を神様の力をあやかれるようにと思って、紅孩児はその花を摘もうとしていたのだ。
「なぜだ?」
「だってそれはせっかく貰った生を一生懸命に生きようとしているんですよ。なのに僕たちが勝手に終らせてしまっては可哀相です。花の命は短いんですから」
そのときに彼は微笑んでいたものの、とても儚げで頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。
もしかしたら彼の体が細くなってしまったからそう見えたのかもしれないが。
「…ああ、そうだな」
「ええ。それにこの花の居場所は、ここですから」
「………」
薄い花弁を幾重にも重ねたふわふわしたその花。
儚げで今にも消えてしまいそうな八戒。
その2つが重なる。
寂しそうに微笑して花を見つめる八戒に何か言葉をかけたかったが、うまい言葉が浮かばなかった。
なんとも言えない沈黙が2人の間を流れて行く。
何か。この沈黙をやぶるような、何かをしなくては。
そう紅孩児が思っていたとき、ちょうどいいタイミングで八百鼡の声が聞こえてきた。
「紅孩児さまっ」
しかしそれはあまり好ましくないやぶり方のような気がしてならない。
元来おっとりした性格の彼女が慌てていること自体何かあったとしか思えないのに、加えてあの緊迫とした声音である。
善か、それとも悪か。
当たって欲しくはなかったが、十中八九後者の方だろう。
そう思ったとたん紅孩児を嫌な予感が襲った。そして彼女が言葉を発さなくとも、姿を見せたときの八百鼡の表情だけで、それが的中したのがありありとわかった。
彼女の顔は苦々しいものだったから。
「どうした?」
「あの樹木の式神がいないんですっ。昨日までは確かにいましたのに…」
「なにっ!」
残り1つだけだった。それは確認していたことなので確実だった。
本当は早めに始末するつもりでいたのだが、特効薬を作る関係上まだそれにはいてもらわなくては困るものだったので、始末の件に関しては保留状態になっていたのだ。
また玉面公主が差し向けたのだろうか。すると行き先は1つ…。
「…あの樹木の式神って、まさか」
おずおずと尋ねてくる八戒。
「ああ、お前を襲った奴だ」
「!!」
庭に如雨露を投げ捨てて、八戒は駆け出した。
彼も自分と同じ姿になってしまうかもしれない。
あの綺麗な存在が、この世から消えてしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなければ。
少しでも早く。あの人の傍に…。
「まてっ!お前1人じゃ無理だろうっ。移動もできないんだからな」
はっとして振り返る。
思わず焦りが先走ってしまったが、彼のいうとおりだった。
まして細くなってしまったと自分でも自覚しているこの体で、いったい何ができるというのだろう。
この体力がなさそうな体で、まだ気孔術が使えるかなどわからないではないか。
きゅっと悔しさのあまり、八戒は唇をかんだ。
「独角は?」
「先に向かっています」
「俺たちも急ごう」
自分1人じゃ何もできない。
いかに無力であるかが突きつけられた瞬間だった。
三蔵一行の前に立ちふさがったのは以前1度だけ戦ったことのある樹木の式神で、また数十人の他の妖怪を引きつれてやってきていた。
「あ、またあいつだ」
「しつこいねェ、向こうさんも。いいかげん、無駄だと悟ってもいいんだけどよ」
この前の樹木の式神は確かに倒したはずだった。だから多分これは同等の種類というだけなのだろうが、姿形がまったく同じなだけに前回の敵とだぶり、当時の懐かしいような胸をかきむしりたくなるようなそんな出来事が思いだされる。
先がわからないからこそ人生は楽しいとよく耳にするが、まさかこんなことになろうとはいくらなんでもあのときは思いも寄らなかった。
いつもと同じように戦って、いつもと同じように倒して、いつもと同じように西を目指すはずだった。
なのにあのときいたはずの仲間の1人が今はいない。
何よりも大切だと思っていたあの人が。
この腕の中には……。
今思えばあのときから。こいつが目の前に現れてから、すべての歯車が狂い始めたのだ。
そう感じたとき、三蔵の内にふつふつと熱いものが込み上げてきた。その勢いは衰えることを知らなかった。
だんだんと沸騰していき。
だんだんと全身へとかけまわっていく。
その激情をそのまま瞳にのせて、するどい視線を樹木に向け睨む。
この時点で役割分担が決定した。
武術で向かってくる敵には悟空が、刀を武器とした敵には悟浄が、そして式神には三蔵が、それぞれ対面することとなった。
少しは前よりも腕に自信のある妖怪を差し向けてきたようで、この前のように簡単にはいかず、悟空だけでなく悟浄さえも嬉しそうに戦っている。もしかしたらうっぷんを晴らしているのかもしれない。
式神も色々な手を使って三蔵を倒そうとしていた。葉をひとふりしてかまいたちを起こしたり、足となる根で地面の小石をけっては銃弾ほどの威力にする。だがどれもこれも三蔵は過敏な動きでかわしていくので、なんだかんだやったとしても小心者の樹木の式神は、今回も例に漏れずに逃げ出してしまった。
しかし三蔵は追いかける。
逃がすはずがない。 ぜったいに自分の手で倒すという意気込みが並半端ではなかったから。
この樹木から始まったのなら、この樹木を倒せばこの悪夢が終るのではないかと思った。たとえこの式神がこの前の奴とは違うとしても。
なんとなく狂った歯車が元に戻るような気がした。
それはもしかしたら三蔵の願望だけかもしれない。だが、三蔵にはもうこの敵を倒すということにしか救いを求められなかった。
逃げる式神に、追いかける三蔵。
永遠に続くかと思われたが、それはとてつもなく高い岩に行く手を阻まれたことで、終止符が打たれた。
目前には高い岩壁。背後には三蔵。
葉をばさばさと音をたてているのは、どこか逃げ道がないかとキョロキョロと頭を振って探しているような印象を受けた。それが実際どうなのかは、顔がないためわからなかったが。
三蔵は恐怖を煽るように、ゆっくりと銃をかざした。
とうとうなす術がなくなったと判断した式神は、最後の手段とばかりに前回の奴と同じように小さなたくさんの実を投げつけてきた。
『昔よく草むらなどに入って服にいっぱいつけたものです』
瞬間、三蔵の頭に八戒の耳がこだました。
『人の背中にも黙ってくっつけたりして』
懐かしそうな表情をした八戒の顔が思い浮かんだ。
次いで優しく微笑んだ顔に。
あのときと状況が似ていた。
今回もそれらを経文で防ぐことは出来たのだが、経文よりも自分の手でという意志の方が強かった。
だからこそ、よけられる実はよけながら、あえて銃をかまえたままにする。
標準は定まった。
いざ三蔵がトリガーを引こうとしたそのとき。
「三蔵っ!」
こだましていた声。
自分から手を離してしまった八戒。
しかし今度はちゃんと耳から入ってきた。
あの懐かしい声がはっきりと。
はっとして声のした方を向くと、八戒がこちらへとかけよってくるところだった。
紅孩児と八百鼡そして独角もいて、その3人はすでに悟空と悟浄の手助けをしている。
何も考えられない。
三蔵は銃を下ろし、近付いてくる八戒をただ目で追うだけだった。
相変わらず白い顔。青白いと言うには少々違うように感じられるが、でもあまりにも白いその色は具合が悪いのではないかと思われるほどだった。
不躾のように見つめてくる三蔵には何の反応もせずに、八戒は三蔵の前に立つとがむしゃらに彼の服についた実を1つずつ取り始めた。
次に三蔵の目に飛び込んできたのは、無言で機械的に動かす八戒のその手だった。
いつの間にそんなに白くなってしまったのか。
顔だけではない。手までがこんなに白いとは。すると全身が白くなってしまったということだ。
色素が?何かされたのか?
加えてあまりにも細い手首が、また三蔵の驚きを増した。
考え込んでしまうふしのある八戒は、1人で抱え込み1人で悩んで、そして体重を減らして行く。そんなことは今までだって何度もあったことだったが、ここまで痩せるということはなかった。
本当に、とても、とても細かったのだ。
三蔵はそこまで見てはいたものの、八戒にもぎ取られていく実までは見えなかったので気付きはしなかったが、取った実をすぐ下へと落としていくそのスピーディーな流れの間にも、まるで強い何かに吸い込まれていくように八戒の手の中で消えてしまう実がいくつかあった。
八戒にとってはそれはどうでもいいことだった。三蔵には生きていてもらいたかった。まっすぐ前を見つめて歩いて行ってもらいたい。それだけの願いしかなかったので、とにかく三蔵の手にこの実が振れる前に自分ですべての実を取ってしまいたかった。もうすぐ木へと変わろうとしている自分なら、いくつ実を取り込んだとしても同じことだったから。
取っては捨て、取っては捨てを繰り返して、そして最後の1個を取り終えて地面へと捨てる。
ほっとしたのもつかの間、手首をぎゅっと強い力で握られた。あまりの力の強さに八戒は眉根を寄せる。
それは三蔵の手。ついつい手が出てしまったのだ。
折れてしまうのではないかと思うほど、女のそれと同じくらい、あまりにも細かったから。
何があった?
そう問おうとした。
だが三蔵が口を開くのよりも早く、八戒の体が突然三蔵へと倒れ込んできた。
あまりにも突然なことだったが、それでも三蔵はとっさに体に力をいれて体勢を崩すことはせず、手を出して八戒の体を支えてやる。
自分の腕とそして体に重くのしかかる八戒の体重。
以前よりはるかに軽いものだったので一瞬眉を寄せたが彼の体には変わりがなく、懐かしいと思えるほど腕の中に収めていなかっただけに、がむしゃらに抱きしめたくなる衝動が沸き起こったが、行動にはださずにそれをぐっとこらえた。倒れ込んできた八戒が動く気配がなかったので、彼が気を失っていると知れたからだ。
貧血でも起こしたのかと思い、少しでも楽な体勢に直してやろうと、体に両手を優しく回して…。
崩れ落ちる八戒の体。
生暖かい濡れた感触。
粘りつくような、感触。
ゆっくりと手を目の前にかざして、目に映った鮮やかな赤に三蔵は愕然とした。
「…八戒…」
彼の血がついた手で三蔵は軽く頬を叩く。八戒の顔にも血がつくのを構わずに。
まだ体温はある。
鼻に手を当てれば、微かに手に息がかかった。
まだ大丈夫。
「…八戒」
それでも彼は何をも拒絶したように、瞳を閉じたままだった。
「八戒っ」
辛抱強く呼びかけて、やっと八戒の瞳がそろそろと開いた。
三蔵が安堵したつかの間、それは驚倒へと変わっていく。
八戒の瞳の色が違っていたからだ。
確かに義眼を作ったときはオリジナルとまったく同じにつくったのだ。
深い色をした緑色。
三蔵の好きなその色。
なのにこんなにも左右の色が違うとはどういうことなのだろうか。
なにも言えずに見つめるだけの三蔵だったが、それでも八戒ははんなりと笑った。
嬉しそうに笑った。
もう2度と三蔵の腕に抱かれることはないだろうと思っていたから。
これが例えこんな状況でも、三蔵のぬくもりを感じることができる。
それは懐かしい抱擁。
暖かい彼のぬくもり。
彼の薫り。
ああ。なんて幸せなんだろう…。
願わくば、このまま三蔵の腕の中で永遠の眠りにつきたかったが、それが適わないことが薄れゆく意識の中でも八戒にはわかっていた。
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