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こくんと喉が鳴る。
かすかながらもその音を拾った紅孩児は、ゆっくりと唇を離していった。
そして八戒の様子を伺う。
だんだんと現れてくる薬の効果。
眉を寄せていた表情には安らぎが。ぎゅっときつく握り締められていた手のひらはゆっくりとひろげ。いかり型になっていた肩は力が抜けていった。
明らかに、それは確実に即効に効き目があったようだ。
「どうだ?」
肺の空気をいれかえるように、ゆっくりと大きく深呼吸をする八戒に、紅孩児はもう体調は大丈夫かと聞いてくる。
「…すごいですね。こんなに早く効くなんて…」
ゆっくりと体を起こし、うっすら汗ばんだ額にはりついた前髪をかきあげながら言う。
これなら、現状のようにわざわざなんだかんだと理由をつけて外へ出て、人目を盗んで苦痛に耐えなくとも、いっとき台所にでも姿を隠してこの薬を飲んでしまえば問題はないのだ。これで皆にばれる確率は少なくなるし、当分の間ごまかすことができる。
「これだけは言っておく。この薬はできるだけ使用するな。これを使いすぎると種の方が免疫ができるからな」
「はい。わかりました」
紅孩児は2つの小ビンを手渡した。
「今使ってしまったから2回分しかないが、これで我慢してくれ」
「充分です。ありがとうございます」
「それと。明日もう一度、1人の時間を作って欲しい。もう少し薬を持ってくる」
「わかりました」
自分のプライドを守るため。一緒に旅を続けるため。三蔵の傍にいるため。
そのためには悔しいが、今のところは紅孩児に頼るしか方法はないのである。
1人静かに去っていこうとする紅孩児の背中を見つめながら、自分の利己的な考え方に吐き気を覚えるのと同時に、人のいい敵の大将に同情を覚える。
だから一言。
自己満足のためか。それともそれで救われるとどこかで思っているのか。
「すみません…」
「ありがとうの間違いだろう。それに、八百鼡が心配していると言ったはずだ」
だんだんと自然と同化して消えていく姿と同じように、最後の方の言葉はかすれ、八戒の耳には届かなかった。
もう少しで完全に消えるというところだったのに、またうっすらと、少しずつ紅孩児の姿が鮮明になっていく。
「?」
「…八百鼡と話をしていたんだが。お前が近くにいれば様子も見れる、薬が手に入ればすぐ渡すことができる」
「あの…」
紅孩児の意図がわからない。
彼は何を言おうとしているのか。自分に何をさせたいのだろうか。
絡み合い、ほどくのが難しい糸玉のように、八戒の頭の中には様々な考えが混在していた。
対照的に紅孩児は余裕を感じさせるほど、ゆっくりと八戒を振り返った。
「……俺とともに来い」
「…冗談でしょう?」
「冗談?そう見えるか?誰が冗談でわざわざ敵を助ける?」
たしかに、それはそうなのだ。わかってはいる。
彼はとても一生懸命になってくれている。自分の身内でもなければ、臣下でもなく、命を奪い合う敵同士なのにだ。
そのぬぐうことのできない事実を考えると、冗談としか思えない台詞だった。
「そうなんですが…でも、なぜそこまで…」
助けてもらったのは感謝している。薬を貰えたことだって、わざわざ探してくれていることだって。
それでも…。
「では聞くが、なぜ八百鼡を助けた?」
「………」
「それと同じことだ。それに一度乗った船は、最後まで無事に航海を終えたいからな」
「…ありがとうございます。お言葉はとても嬉しいんですが、やっぱり無理です。それに……できることなら、ギリギリまで彼らと一緒に旅をしたいんです。やりたいこともありますし…」
三蔵を守ること。それが一番八戒のやりたいことだった。
内に秘める種にきく薬。話によるとその種を殺す薬なのだそうだが、それがいつ見つかるかもわからないし、もしかしたら見つからないかもしれない。いつこの命の炎が消えるかわからないのだから、せめてなるべく多くのときを傍にいて、彼に襲いくる危険から守り、舞う火の粉を払ってあげたかった。
「そうか。わかった。八百鼡には言っておこう」
そう言って、今度こそ紅孩児はゆっくりと消えていった。
「すみませんっ。遅くなりまして。見つからなくて…。やはりないようですね、湖」
「じゃあ、もういこーぜ、八戒。悟浄に付き合ってらんねーよ」
「お前には言われたくないね」
またぎゃいぎゃいとじゃれあいを始めながらジープの元へと歩いていく2人を和やかな瞳で見つめ、次いで三蔵に目を向ける。
「お待たせいたしました」
木に寄りかかり、葉で木陰を作っているスペースに座り込んで新聞に目を通している三蔵を、覗きこむようにして見る。
しかし三蔵は、八戒から顔をそむけてしまった。
三蔵からすれば、八戒の顔を見ていると、悲哀、憤怒、憎悪がこみ上げてくるので、そのあまりにも負の感情に突き動かされるのが嫌だった。
そんな三蔵が尋常ではないことくらい、たとえ察しのいい八戒じゃなくとも、誰が見ても明らかだった。
「……三蔵?」
いつものスキンシップのように八戒は三蔵の腕を掴もうとしたが、するりと、それさえもかわされてしまう。
「なんでもない」
その場に動けずにいる八戒の残し、一人先にジープへと戻ってしまう。
なんでもないはずがない。確実に何かあったのは明白だ。
しかし今は隠していても、きっと彼は言ってくれるだろう。
そう八戒は信じていた。
ジープでの移動中も、三蔵のただならぬ雰囲気を察した悟空と悟浄は、爆弾を抱えているように、いつになく静かで、本来ならそれがまともなのだろうが、いつもがいつもだけに、まるでそれはお通夜を連想させるものだった。多分今までで一番静かな移動だったかもしれないほどで、おかげで予定よりも随分と進むことができ、次の村には明日のお昼前には到着できそうだった。
その夜。
いつまで待っても言ってくれない三蔵に痺れを切らした八戒が、とうとう行動に移すことにした。
夕食後。
「三蔵。ついでに水もくみたいので、それ持ってきてくれます?」
近くの水筒を指差して言う。
八戒は洗い物が入っている籠を持ち。三蔵と2人の時間帯。
池までの道すがら、八戒はどう話を切り出していいかわからず、あまり話もしないまま目的地に着いてしまった。その後も気まずい空気が流れ、黙々と作業をする中で、やっと八戒は口を開いたのだった。
「…三蔵」
「何だ」
「何か、あったんですか?」
その話題は三蔵にとってできることなら話をそらしたいものだった。やっと時間をかけて抑えてきた感情が、突然吹き出そうとしているのを感じたからだ。
まずい。
黄色いシグナルが点滅する。
しかしそんな三蔵のことなど気付くはずもなく。八戒は話を進めていった。
「悟空も悟浄も気になっているようですよ。口には出していませんが」
点滅は続いている。
何かが吹き出そうとしている。
動き出そうとしている。
もう何も言わないでくれ。このままでは……。
「僕も…気になりますし…」
そして三蔵の中で、何かが外れた音がした。
「お忍びは大変だな」
「え?」
やっと話し始めてくれた三蔵だったが、やはりいつもとは違う感じに、八戒は洗い物をしている手を止めて彼を見る。しかし彼は手をやすめることなく、水筒に水を汲んでいて、横からでは顔に掛かっている前髪で彼の表情を見ることはできなかった。
「いつからだ?」
「…何を言ってるんです?」
「とぼけるな。今日はお楽しみだったな」
お忍び?お楽しみ?だった?
まさか…知られた?
八戒の顔から血の気のが一瞬にして引いていった。
「…どこから見ていたんです?」
「見事なラブシーンを拝ませてもらった」
三蔵の言うラブシーンがいったいどこに当てはまるかを、紅孩児と会っていたときのことを回想してみる。
誤解している?
「違うんですっ!」
「何が違うんだ?いいわけでもあるのか?言ってみろ。聞いてやる」
やっと八戒を見た三蔵の目は、仲間には見たこともないくらい冷ややかなものだった。加えてとても静かな口調。しかし、それがかえって彼のうちに秘めたるものが荒れ狂っているであろうことは、今までの付き合いからして察することができた。
普段は大声で悟空や悟浄を叱る三蔵だが、こういうときは自分の中のものを抑えるかのように静かに、そして、低く声を出して言うのだ。
そんな状態の彼に何を言っても無駄だということも、八戒にはわかっていた。ただ聞くというだけで、納得はしないだろう。
まして言ったとして、どうする?
あそこまでの到達の行程をすべて話すのか?
あの種のことも?
そんなこと…言えるはずがない。
「………」
「いいわけもできんか。当然だな」
きっちりと蓋を閉めて静かに立ち上がると、もう話をする必要はないとばかりに、その場を立ち去った。
「お前が…ああいうことをするとは思わなかった…」
その言葉を残して。
何を言われてもいい。怒鳴られてもいい。殴られたってかまわない。
でも。最後の三蔵の声音が、あまりにも寂しそうで。悲しそうで。
それが一番八戒にはこたえるものがあった。
冷ややかな瞳。静かな口調。そして悲しそうな声音。
三蔵の言葉や姿が、何度も何度も頭の中を駆け巡り、自分を責めたてる。
洗い物を終えても八戒はそこから動けずにいた。
水辺に座り込み、水面を凝視している。
やはり始めから無理なことだったのだ。
彼らに種のことを知られることなく、今まで通り三蔵の近くにいて。紅孩児たちには種に効果のある薬を探してもらい、知られることなく種を抹消する。
二兎を追う者は一兎をも得ずというではないか。
こみ上げてくる笑い。それは自虐的なもの。
でも、まだいい。いらぬ誤解がかかってしまったが、まだ自分の体のことについてはばれていないようだから。まあ、今回の件で、体全体で自分のことを拒絶していそうな彼のこと。もう真実を知ったとしても、何とも思わないかもしれないが。
とにかく。ばれていないのなら、それでいいじゃないか。
そう納得しようとして、八戒はとある事実に気付いた。
昼の移動中。あのなんとも言えない空気は自分が原因だったのだということ。
事の発端は自分。
自分がここにいたいというわがままのために、三蔵にあんな表情をさせてしまっただけでなく、悟空や悟浄にも迷惑をかけてしまっている。
ここにいたことで…。
もう、いられない。ここにいられるわけがない。
大切なのは三蔵。大事なのは悟空と悟浄。
自分の居場所を作ってくれた彼らを不快にさせてまで、ここにいるつもりは毛頭ない。
そして八戒は決心した。
今のこの意志が揺るがないうちにと、早々にみんなの元へと戻ると、ジープのライトの光りで新聞を読んでいた三蔵の元へと向かう。
幸いにも悟空と悟浄は森の探検をしているのだろう。ジープの他には三蔵しかおらず、どこからかかすかに聞こえてくる騒がしいそうな悟空の声で、ここから少し離れているところに2人がいることが理解できた。
「三蔵。ちょっといいですか?」
「………」
チラリと視線を新聞から八戒の方へ向けると、無言で話の先を促す。
「以前、あなた言いましたよね。思う道を進んでいいって」
「ああ」
「その言葉に甘えてもいいでしょうか」
「…わかった」
短い言葉。そっけない態度。
三蔵は新聞へとまた視線を戻した。
「ありがとうございます」
もうこちらには感心がないように記事を読んでいる三蔵に、聞いているかわからないがお辞儀をして礼を述べる。そして自分と接触をもたないようにしているのを感じ取った八戒は、話を終えるとすぐにその場を離れた。
別れるのは明日。疑いを持たれぬよう、次の村でにすることにした。
しかし用意はしておかなければ。着いたらすぐにでも別れられる用意を。
2人が帰ってくる前に。
これでいいんだ。
これで彼らはのびのびと旅を続けることができるだろう。
自分も無様な姿を見せてしまうのではないかという不安から解放される。
それなのに、心にふく風はなぜだろう。
そんな自分が嫌で、わきあがるものには目をそむけた。
今日まで楽しく過ごせたのも彼のおかげ。
この世に生かしてくれた、彼のおかげ。
自分を愛してくれた分だけ。自分に幸せをくれた分だけ。
感謝の気持ちをこめて、あなたを守りたかった。
そのためには……。
すれば敵の動向や、三蔵たちに向けられる刺客のことも、わかるだろう。
敵の自分にも、とてもよくしてくれる紅孩児たちを利用してしまう自分が、とても汚いことはわかっている。それに対していいわけもしなければ、飾りごとで隠すつもりもない。もともと自分はそういう人間だったから。
彼のためだったら、何だってしよう。
たとえこの先、何が起ころうとも。
たとえ大荒れになろうとも。
飛び込んでみることにする。その大きな渦の中に。
あの人を。どんな形ででも、いつか守ることができると信じて。
たとえ、これからの行動が、裏切りと証されても。
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