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その場に1人残された八戒は、先ほどのことを考えていた。
彼とここで出会ったのも誤算。彼に自分の弱みを握られてしまったのも誤算。しかし、敵の中でも異端であろう1人と接触できたことは、ある意味よかったかもしれないとも思いなおしていた。
『明日1人になる時間を作ってくれ』
彼はそう言った。
いったいどうするつもりなのだろう。言われなくても、どうせまたこの痛みがくる前に1人になるつもりなのだが。
八戒は横になりながら、先ほどのことを考えていた。
痛みと戦っていたためだろう。とても疲れている。
もう動きたくない。このままここで休みたい。
そう思いはするものの、待っている彼らのことを考えると早く帰らなければならない。
ここにいる時間が実際のところどれくらいなかわからないが、痛みを耐える時間というのは結構長く感じられる。だからこそ早く。
悲鳴をあげる体に鞭を打ちたちあがると、ふらつかないよう手足に力を入れて、ゆっくりと宿屋へと向かう。たまに木や壁によりかかり、空を見上げるなどして、体を休めながら。
「あれ。八戒、顔色悪くねえ?」
宿屋の前で犬と遊んでいた悟空は、のんびりと歩を進めて戻ってきた八戒を見て、足元にまとわりつく犬とともに近づいていった
「そうですか?はりきりすぎて疲れたのかもしれません」
はんなりと微笑するその顔には、確かに疲労の色が伺え、何かどこかいつもの彼とは違うものが感じられた。
しかしそれが何なのか、悟空は言葉にすることができなかったが。
「………」
「部屋で休んできますね」
「あ、うん…」
何ごとか言いたげな悟空の視線には気付いたものの、八戒は気付かないふりをして部屋へと戻って行った。
「どしたよ?」
小首をかしげながら八戒が行った方を見つめている悟空に、町から戻ってきた悟浄が声をかけた。
「大丈夫かなあ、八戒。何かさー…何か、変」
「帰ってきたのか?」
「うん」
「どこが変なんだ?」
「わかんねーよ。だけど変、な感じがする」
悟浄は悟空が変だという八戒の顔を見ていない。でも後姿ではどこも変なところは感じられなかった。今までだってよく笑顔でごまかす彼だったが、後姿でものを言うことがよくあったから。
「ふーん」
念のために三蔵に言っておくかと、嫌がる悟空を引きずって宿屋の中へと入っていった。
一方。部屋へと戻った八戒は、ベッドに横になりたい衝動をぐっと我慢し、浴室へと直行していた。
暖かい水の粒子が降ってくる。体を暖かくさせ欲室内をも暖かくさせるそれは、とても気分をリラックスさせてくれた。本当は嫌な汗をかいた後なので体を洗いたかったが、もうそこまでの気力は残されていなかった。
このままベッドに入ったら、寝つきの悪い八戒でもさすがに即刻眠りの淵に入れるだろうという状態で、だるい体をベッドまで運んだのに、タイミング悪く邪魔する音がした。
コンコンときっちり2回、ドアをノックする音。
それで誰かはすぐに知れた。
慌てて身に力を入れ、今の状態を隠す。
もしかしたら、悟空が自分のことを言ったのかもしれない。それならなおさらしっかりしなくては。
「いかがしました、三蔵?」
「明日のルートの確認をしたかったのだが…」
確かに悟空が言うように、八戒の顔には疲労の色が伺える。
一応、それでもしっかり動いているようだが、見るからに青ざめた顔はどうやっても隠しようもなかった。
「具合でも悪いのか?」
「疲れているだけですよ」
それでも三蔵は納得がいかないのか、八戒の顔から瞳をそらさない。
「あの…」
何もかもを探るような眼差し。その強さに八戒はいたたまれなくなる。
すべてを見通す千里眼はさすがの彼でも持ち合わせていないはずだが、隠し事さえあっさりとあばかれてしまいそうなほどだった。
三蔵はすっと左手を伸ばすと、八戒の前髪をかきあげた。
コツン。
「熱はないようだな」
ご丁寧に右手で八戒の後頭部を抑えて言う。
自分に縫い付けて離れられないようにしているため、八戒は身をひきたくともひけないでいた。
それこそが三蔵が見通しての行動だったのだが。
「だから、具合は悪くないですって…。ちょっ……」
あまりにも慌てている八戒がおもしろいのか、熱を測った今でも額をつけたまま離れる気配が見られない。
しかも、ふっと不敵な笑いを口元に浮かべ。
「何を慌てる?至近距離で俺を見るのは毎度のことだろう。こういうようにな」
軽く振れるキスをすると、やっと彼は満足げにゆっくりと離れていった。
八戒はといえば、口に手を当てて目をそむけ、赤くなっている。
「お前は突発的な行為に弱いな」
いつもは、食えないひょうひょうとした態度で、何を考えいるかわからない笑顔をしているのに。
だからかもしれなかった。たまに見せるそういう姿が、とてつもなくいとおしく思うのは。
「………」
些細な八戒の抵抗は、瞳を少々きつくして、三蔵を睨むくらいだった。
その姿にくっと喉元で笑う。
「とにかく。ルートの確認は夜でもかまわん。それまでゆっくり休んどけ」
そう言い残すとベッドへと八戒が入るのを確認しないまま、部屋を出て行った。
次の日。彼らは予定通り、西へと向かっている。
村までの行程は2日ほど。
順調すぎるほど順調に、着々と次の村までのポイントを通過して行く。
このまま行けば、もしかしたら予定より早く到着できるかもしれない。
やはり寝床はベッド。部屋は個室に限る。少しでも早く着きたいのは、みんな同じ思いだった。
ジープには可哀相だが、やはり1日中同じ体勢でジープに乗っているのは、ゆううつだったから。
しかし八戒にとって今一番ゆううつなことは、2日間の運転よりも、ジープで座ったままとる睡眠よりも、このあと迎える昼食だった。美味しいと感じられない食事をあたかも美味しそうに食べ、その後襲いくる激痛に耐えなければならないのだ。
どれもこれもが嫌なこと。
昨日は運転中に痛みが訪れ、不覚にも耐えていたのを三蔵にはばれてしまった。今回もまた同様なことが起こりたくはなかったので、どうしたらよいものかと昨晩の夕飯前にずっと考えていた。そして苦肉の策が夜にたくさん食べておき、翌朝は胃がまだ重たいという理由で食事をとらないというものだったのだが。
昨夜あれだけ元気に食べていたので誰も疑う者はいなかったし、朝も具合が悪そうだと言われることはなかった。
せこいとは思ったが、この作戦が幸を征してか、今日は案の定、まだ痛みは訪れてこない。
おかげでまだ彼らには自分の変化を悟られてはいないようである。
そして多分、そろそろ…。
「八戒〜。ハラ減ったーっ」
予想通りである。
「そうですね。そろそろお昼にしましょうか」
適当な木の下でジープを止め、お弁当を広げる。たちまち、いい香りが自分たちを包み込んだ。
食欲をそそる色とりどりに飾られた食物。少しでも水分補給にと、水気の多い果物もある。中でも、ここまでの旅の疲れをとるためには糖分が必要とばかりに、おまんじゅうまでもが入っていたのには、宿屋の主人の配慮の行き届きに頭が下がる思いだった。
みんなが美味しそうに箸を進める中、今回もまた機械的に食事をすませ、嬉しそうに水分を摂取する八戒だった。
「では、川か湖があるか、探してきますね」
重箱を洗うためである。ついでに水が確保できたら、この先はまったく水に困ることはない。まだ充分水も残っているのだが、あることにこしたことはないのだから。
川や湖を探すのはいつものこと。
だからそれを疑う者などいるはずもなく。
八戒は自然に1人になることに成功したのだった。
ここらへんでいいだろうか。
実際のところどれくらい彼らと離れているかはまったくわからないが、それでも少しは歩いたので声が聞こえることはないだろう。
木陰に座り込み、葉と葉の間から上を見上げる。
青々とした涼しげな空。少し離れた木の枝で食事をしている可愛らしいリス。風に身をまかせている木々。
どれもこれもが、これから自分に訪れる苦痛の時間と現実とは無関係なところにある。
いつもなら身近に感じられる自然も、とても遠くに感じられ、そしてそれが残酷にも思えるのだった。
いつかは訪れる死。
だから死ぬことには何も感じないが、その最期の瞬間まで苦痛がまとわりつくのには嫌悪を感じる。加えて、三蔵を守らないまま逝くのも悔いが残るし、今のこのときとは打って変わって向こうの世界では1人になることを考えると畏怖を禁じえない。
そこまで思って愕然とする。
もし、向こうの世界に行って彼らのことを忘れてしまったら。
自分の身に変化が訪れるギリギリまで彼らの近くにいて旅を続け、彼らの仲間であることを実感し、三蔵を守り、三蔵から愛を貰って、幸福感を抱えて死んで行こうと思っていたのに。
1人になっても、それでやっていけると、そう思っていたのに。
まだ確実にそうなったわけではないのに、心に広がった更なる恐怖がいつまでも八戒を支配していた。
「…待たせたか?」
呆然と空を見上げている八戒が何を考えているのかわからないが、なぜか近づけない雰囲気を感じた紅孩児は、少し考えたあげくあまり時間がないことに気付きしぶしぶ声をかけた。
それでもまだ八戒は空から瞳を離さない。
「…別に待ってなんかいませんよ」
あなたのために時間をさいたわけではない。自分のためだ。
これはいつまでも彼らとともに、三蔵の近くにいれるための、小さな抵抗。
昨日紅孩児に言われたから、ここにきたわけではない。
「ところで、何の用ですか。1人の時間を作れだなんて」
「単刀直入に言おう。これを飲め」
紅孩児が広げた手のひらの上には小ビンが数個乗せられていた。
「…何です、これ?」
あまりにも単刀直入すぎると思う。
あたかも彼は自分の敵である。ましてや自分たちの命を狙う、大将なのである。その人から飲めと言われて、はいそうですかと素直に飲む馬鹿がどこにいるのだろうか。
「あの実には、体力の低下が一番悪い。もし低下中に実が活動を開始したら、成長は極端に早くなる。だからそういうときにはこれを飲め。これは一時的に実の活動を抑えるものだ。三蔵たちの前にいるときなどにもいいかもしれん。知られたくはないのだろう?」
「………」
「あの実にきく薬があるはずなんだ。それを今探させている。それまでこれで我慢してくれ」
もしかして、昨日1人になれといったのは、これを渡すためだったのだろうか。
「…どうして僕にここまでしてくれるんですか?あなたは僕たちを邪魔だと思っているはずです。なのになぜ…」
「ただ、おまえたちとは正々堂々と戦いたいだけだ。それと…八百鼡が心配している…」
すまん李厘以外には知らせてしまったと、紅孩児は謝罪する。
彼らは敵。自分たちの目的を阻む者同士。
なのにこんなにも暖かい妖怪が、まだここにいる。
「!!」
そして突然、苦痛の時間が開始した。
「…っ」
八戒の顔がゆがんだ。
眉を寄せ、瞳をぎゅっと閉じ、きつく口元を閉じている。
木に寄りかかっていたが、耐えきれずにごろんと横になってしまった。
確実に痛みは昨日より強くなっているようだった。
「くっ…んっ……」
荒く浅く吐く息。青ざめる顔。額ににじむ汗。
苦痛と戦う八戒にできることとしたら…。
紅孩児はぐいっと力強く八戒をあお向けにする。
少しでも痛みが和らいでくれる体制を無意識に探そうとしてもがく彼を、体の上に圧し掛かることで動かさないよう固定する。そして手にしていた1つの小ビンの蓋を開け中身をあおると、急いで八戒の口を自分のそれでふさいだ。
含んでいた薬を流し込み、八戒が飲み込むまで口を離さない。
離してしまったら、口から漏れる苦痛と一緒に薬まで出てしまうから。
しかし。タイミング悪く、それを目撃してしまった人物がいた。
ここ最近4人の時間が多いので、たまには付き合ってやろうと、あからさまにならないよう時間をずらして後を追ってきたのだった。おかげで彼を見失ってしまったため、思いの他見つけるのが遅くなってしまったのだが。
そして偶然目撃した。
地面に横たわる八戒。覆い被さる人から受けているキスに、嫌がる気配すら見せない。そして、こともあろうにその相手が紅孩児なのだ。
一瞬、思考が真っ白になる。
暖かい抱擁。優しい口付け。甘い吐息。
2人のキスシーン。
今までのすべてが嘘だったのだろうか。
裏切られたと感じたとたん、身は怒りに震えた。
ぎゅっと手のひらを握る。
目をそらしたくともなぜかそらせないでいる、目の前の情景に耐えるように。
ぎりっと歯ぎしりをした。
今まで素直に騙されていた、自分が腹立たしくて。
ゆっくりと離れて行く2人を目にしたとき、八戒の昨日の姿が脳裏に浮かび、やっとすべてが理解できた。
1人で出かけて行った理由。
疲れて帰ってきた理由。
シャワーを浴びていた理由。
……そういうことか。
苦虫を潰した表情を浮かべた三蔵は、黄金に輝く髪をかきあげゆっくりと息を吐くと、その場を静かに離れて行った。
真実を知らないままに。
そしてこの緊迫した状態を見ていた人物がいたことを、八戒にも紅孩児にも知られないままに。
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