SAIYUKI
NOVELS 44
離獣が求める最期 10(後編)  2001.2.6
SANZO×HAKKAI
 西を目指す旅もまた以前同様4人に戻り、何ごともなかったかのように再開された。
 運転は八戒、助手席には三蔵、その後ろには悟浄と悟空。
 後ろからは悟浄と悟空の言い争いが聞こえ、痺れを切らした三蔵が凶器で脅し、八戒が柔らかく微笑んでその場をおさめる。
 食事も必ず4人で食卓を囲み、せわしない時間を過ごす。
 今までと、表面上なんら変わりのない旅。
 しかし確実に変わったことはある。
 悟空は散策に必ず八戒を連れて行くようになった。
 買い出しは八戒1人で行くこともあったが、今では必ず悟浄がついて行く。
 宿はどんなに空室があっても2人部屋を1つは取り、そこを三蔵と八戒が使うようになった。
 それは暗黙の了解であったが、しかし部屋に関してのみ三蔵には譲れない理由があった。
 八戒を他のメンバーと同室にしたくない理由。それはもちろん夜にあった。
 八戒は今食事後に薬を飲んでいる。紅孩児から貰ったそれは実の活動を抑えるというもので、以前にも飲んでいたようなのだがみんなに隠れて飲んでいた彼なので、実際飲む場面を目撃すると以前と変わらない日常に思えていたときでも、やはり昔とは違うという事実をつきつけられる。しかしそれ以上に、確実に違う時間が流れて八戒を苦しめていることを知らしめるのが、静まりかえった闇が訪れる真夜中の時間だった。
 柔らかく微笑み、誰もがささくれだった心に安らぎを与えてくれる笑顔を浮かべる八戒。その笑顔は今も健在しているが、しかしどんなに明るく振舞っていても、やはり不安を拭うことはできないのだろう。
 それに三蔵が気付いたのは、再度八戒をこの手で抱きしめることができるようになってから、2度目の夜を向かえた日のことだった。
 みんなが頭からつま先までどっぷりと眠りの波に体を預けている、誰もが寝静まった真夜中。
 穏やかな寝息を立てていた八戒が、突然うなされ始めた。三蔵も眠りについていために、それにすぐ気づくことができなかったが、三蔵が八戒を起こすために体を起こそうとしたとき、八戒ははっとしたように意識が覚醒したようだ。
 暫くの間天井を見つめているのは、自分の居場所を確認しているようだった。
 ゆっくりと両手を持ち上げ指先を見るのは、自分の体がまだ変化していないことを確認しているようだった。
 そしてその後不安の色を浮かべたまま三蔵が眠る隣のベッドへと視線を向け、三蔵の姿を確認したところで、やっと不安の色をなくし顔のこわばりが解けられるのだ。
 ほとんど毎晩といっていいほど、それが繰り返されている。
 そんな痛々しい姿を目にするたび、三蔵は彼を抱きしめ少しでも安心させてやりたくなる。しかしその弱々しい姿を八戒が誰にも見られたくないと思っているのはわかっているし、三蔵も自分意外に見せるつもりなど毛頭なかった。そして八戒がいつか自分に助けを求め、すがりつきたくなったとき、すぐに手を差し伸べてやれるほどのところにいたかったのである。
 こうして不安と穏やかさが危ないながらも保たれている時間は急速に流れていき、村や町を点々としていくのが5日目に入ったとき、誰もが待ち望んでいた紅孩児からの連絡が入った。
 どういう意味があるのかそのときにはまだ三蔵たちにはわからなかったが、あまり人がいない宿をとって待機してほしいというものだった。
 あまり人がいないということについて、三蔵たちは考える。
 宿屋に人がいないということなのか、それとも宿屋の周りに人がいないということなのか。
 どちらにしろ難問には変わりないことで、大きな街ではどこも宿屋を大勢の旅人が利用するし、住民も多い。だが反対に例え小さな村だとしても、他の街や村から離れた場所にあるのなら、そこはやはり旅人が必ずといっていいほど立ち寄り宿をとるものなのだ。
 そんなことを考え模索しながら移動していき、連絡があってから2つ目に訪れたひっそりとした村で、なんとか条件にあったところを抑えることができた。
 それは村の郊外にある、古めかしい空家。あまりにもひっそりとしているのでこの村に移住してくる人は少なく、ましてや以前ここに住んでいた人もどこかの村へと移住していったという。
 まだこの空家に引っ越しの予定が入っていないことから、暫くの間借りる許可を村長から取ることができた。人のいい村長は必要な物は言ってくれれば用意すると、そこまで見知らぬこの旅人に優しい手を差し伸べてくれたのだ。
 彼らは丸2日の間、普通の家庭のように過ごした。
 全員が旅のことなど忘れて、このつかの間の家族関係を満喫していた。
 1日目は近くの川へ。
 小さな川魚が泳いでいるところまで見ることができる、とても澄んだ川だった。悟空は手で魚を掴むことに熱中し、悟浄は川でのびのびと泳ぎ、三蔵は悟浄が作った簡易釣竿で釣の見張りを頼まれ、八戒はご飯の支度をしている。
 2日目は近くの森へ。
 朝から八戒が味がわからない不安があっても、それでも頑張って作ってくれた豪勢なお弁当を持参してのピクニック。悟空は好奇心旺盛の動物たちと暫しの間交流し、悟浄は日差しを体一杯に浴びてのお昼寝タイム、三蔵と八戒は緩やかな風を感じて読書を満喫した。
 そんな穏やかな時間を過ごしていたが、重大なことを忘れてはならないというように、暗雲が空を覆い尽くした3日目に、訪問者などあるはずもない玄関の扉を叩く堅い音がとうとう彼らの耳に届いた。
 扉を開けたそこには予想通り紅孩児たちが立っていて、紅孩児、八百鼡、独角と3人の面子がそろっているのに途中経過というわけではあるはずがなく、つまりはやっと実を消すことができる薬ができたという希望ある明るい話だと思っていたのに、3人の面持ちは決して明るいものではなかった。そのことに不安を覚えた三蔵たちも緊張した面持ちで彼らを招き入れた。
「…これです」
 紅孩児たちと三蔵たちとの間に挟まれたテーブルの上に置かれた、茶色でできたガラスの小ビン。置かれたときに出た小さな堅い音が、とても大きく聞こえたような気がするほど、室内は静まり返っていた。
 紅孩児たちの行動、言葉、仕草など、1つ1つに痛いほどの視線と意識が集中する。
「予想以上に時間がかかりましたが、どうにか間に合ったようで安心いたしました。元からある薬が見つからぬ間に、薬ができましたので持参しましたが…」
 もう誰かが捨ててしまったのか、探して欲しくないほど見つけにくいところにしまったのか、とにかく独角1人で探すには困難なもので、何日も篭って研究した結果八百鼡が薬を作った方が早かったのだ。
 本当ならば良い話のはずだった。だがそれには問題があったのだ。
 元からある薬はほぼ1日で完全に実が消えてなくなる。もちろん八百鼡も同じ効果が得られる物を作ったのだが、元のは本人にはまったく影響がないのに対し、作った薬は少々強めにできてしまったようだった。薬を作るのにある程度の日数がかかったとは言えども、広い目で見れば元からのに比べ短時間で作ったために、どうしても影響がないようにはできなかったのである。それを作るにはまだまだ時間とモルモットが必要だった。
 とにかく、強い薬のために体が拒否反応を起こす可能性が少なからずあるのに加え、実も強い抵抗をすることが予想されるというのだ。
 八戒が受けた傷は順調に治ってきているし、失った体力もこの1週間でほとんどが回復していることだろう。それでも軽視することができない。
 もしそれに負けてしまうことがあったら…。
 独角が薬を探し出すのを待つのもいい。薬ができたことだし、これからは八百鼡も独角を手伝うことだってできる。はっきりと言えば、そちらの方が八戒本人にもなんの影響もなく、いつのまにか実が消えているというくらい、すんなりとことが運ぶのだ。だがそれが見つかるまでに実がもし活発化したら、急速に八戒の体は変化していくだろう。
 これを飲むことによってまた今まで通りみんなと西へ旅ができるかもしれないが、八戒だけ旅の先が黄泉の国となる可能性もあるのだ。
 良いことばかりではないからこそ、服用する八戒本人に選んでもらうために彼らは来たようだ。
 八百鼡が作ってくれた、この薬を持参して。
 彼女もとにかく一生懸命だったのだろう。目の下にはうっすらと隈ができている。
「………」
「私のことは気にせず、飲むか飲まないかをよく考えて決めてください。明日また参ります」
 選択権は八戒にゆだねられた。
 薬探しは引き続き行う旨を言い残すと、紅孩児たちは八戒が結果を出す前に、慌てて帰っていった。
 テープルの上に置かれた薬。
 その薬を無言で凝視している八戒。
 三蔵、悟空、悟浄の視線が交互に向けられる。
 八戒が出す答えを待っている。
 しかしそんな絡みつく視線には気付かないのか、八戒は1人考えにふけっていた。
 西への旅を諦めたこともあった。
 三蔵の隣を諦めたこともあった。
 そしてこの後の人生を諦めたこともあった。
 どうせ1度は諦めたこと。飲まなければ薬が見つかる前に死ぬことだってありえるのだ。それなら少しでも可能性がある、この薬を選んでもいいのではないか。
 それに今なら…。
 例えもし負けて彼らの元から離れることになっても、今なら三蔵の腕に抱かれて旅立てるかもしれない。
 八戒がそう決断したとき、まるで八戒の心の声を読み取れるかのように、三蔵はタイミング良く悟浄を意味ありげに見つめると、悟浄はやはり三蔵のその意味をきっちりと読みとってくれて、悟空とともに静かに部屋を退出していった。
「決まったのか?」
「…はい」
 揺るぎない瞳でまっすぐ三蔵を見つめてくる。それと同様にはっきりと八戒は決断の結果を口にした。
「飲んでみます」
「そうか……」
 八戒が出した結果に三蔵はとやかく言うつもりは毛頭なかった。八戒の人生だ。三蔵が何か言えるわけでもないし、どちらが正しいのかは今の時点ではわからない。
 だから彼がこれから起こすであろう行動をしっかりと見つめ、見守っていこうと思っていたのに。
「三蔵、お願いがあります。しばらくの間、1人にして欲しいんです」
 瞳も言葉も、どちらともに八戒の強い意志が見られた。なのに穏やかで暖かい声音と口調は、それでもそれが願いでも要請でもなく、強制に近いほどのものだと感じられた。
 こればかりはどうしても譲れないというのだろうか。
 しかし、そんなのは許さない。
「ざけんな。もう忘れたのか?離さんと言っただろう」
「でもっ」
「何を気にする?弱くなりそうな自分か?負けてしまいそうな姿か?」
「いえ…」
「じゃあ何だ」
「……醜い姿を見られたくないんです…」
 自分の醜い姿など見せたくない。苦痛にゆがみ震えてかすれる耳障りな声を漏らしている、そんな醜い姿を。それでなくとも肌が白くなってしまい気持ちが悪いというのに、醜い姿は化け物と等しい姿になりそうだ。
 そんな姿を誰にも見せたくない。見られたくない。
 あれほど強いと感じられた八戒が、一瞬にして弱々しいものへと変化していた。
「誰しも醜さなど持ってるもんだ。それを隠しもせずにさらけ出すのは馬鹿がすることだが、ときには出した方がいいときもある」
「………」
「負けそうなときは俺を見ろ。少しは違うかもしれんぞ」
 三蔵はテープルの上に淋しげに置かれている薬を取ると、蓋を空けて中身を一気に口に含む。
「え?」
 そうしてゆっくりと八戒へ近付くと、口を近づけていった。
 そっと触れる唇。
 そっと開く唇。
 ゆっくりと少しずつ含んだ液を流し込む。
 それは以前三蔵が目にした光景と酷似していた。しかし違うのことは、この薬が安らぎを与えてくれるのではなく、苦痛をもたらすであろうということ。
 口の中の液体がなくなっても三蔵の唇は離れないどころか、口付けは深くなる一方だった。
 腕をゆうるりと上げ優しく抱きしめられる。その力をもだんだんと強くなっていき、自分1人ではないことを教えてくれるものだった。
「ん…ふっ…」
 何かが体の隅々まで染み渡って行く感じがする。
 髪の毛の先からつま先まで。細胞の1つ1つまでそれが浸透していく。
「あ…ああ……」
 塗り返られる体。
 戻ろうとする体。
 しかしそれを安易に許してくれないものがある。そうしてそれは最後の足掻きをするために、八戒の体内で暴れ始めた。
「……くっ」
 ぶわっと毛穴の1つ1つが開いた感覚。そこから汗が噴出し、吐き気が襲いそうになる。だがそれを感じるよりも早く、苦痛が増した。
 八戒は強く三蔵は押して体を離す。このまま抱き合っていては、自分は彼に何をするかわからない。意識が保っていられるうちはいいのだが、もし理性がきかなければ気づかぬうちに彼を傷つけてしまうかもしれないから。
 押されたことで三蔵がどこかをぶつけたかもしれないなどという危惧をする余裕も、彼が今どこにいるか確認する余裕も、今の八戒にはすでになくなっていた。とにかく苦痛を耐えることしか考えられず、力なく横たわってうずくまると自分自身を強く抱きしめる。そして声を漏らさないように、ぐっと唇をかみ締めた。
 強く強く。さらに力を込めて。
「唇を噛むな」
 その言葉と同時に三蔵は八戒の体を抱きしめた。
 どうして。これじゃあ何のために離れたのかわからない。
 驚いて力がなくなった口に、三蔵の指が入ってきた。
「声を漏らした方が楽だぞ」
 ふるふると首を振る。
 外してと声にはならなかったが唇を動かす。
「傷つけてもかまわん。お前が楽になるならな」
 優しい声。
 暖かい腕。
 すがり付きたい体。
 八戒の頬をすっと涙が流れ落ちる。
 そうだ。もう1人ではない。自分だけではないのだ。
 負けてはいけない。彼を残してはいけない。離れてはいけない。
 だから、この苦痛を乗越えることができるのなら、苦痛の声も醜い姿も晒してもかまわない。
 彼を1人にしてしまうくらいなら…。
 今までいかに三蔵を裏切ってきたのかをやっと理解した八戒は、なりふり構わずにこの孤独な戦いを真正面から受け止めることにした。
「あっ、ああ……あーっ」
 開かれた唇からは止めどなく声が漏れ、もう止めることなどできはしなかった。
 その声が大きくなるとともに、三蔵を抱く八戒の力も強くなっていく。
 それが三蔵にはまるで自分を呼んでいるようにも感じられるのだった。
 そんな彼らの戦いを遠くから受け止めている人物がいた。
 悟空と悟浄だ。
 2人が割り当てられた寝室はすぐ隣だった。
 それぞれのベッドに腰掛け、目前にある1枚の扉を凝視する。
 そこには鍵などかけられておらず、ノブを回せば簡単に開いてしまう。もし鍵が掛かっていたとしても、渾身の力を込めて体当たりすれば、やはりすぐ扉は開くだろう。
 それなのに扉が拒絶しているようだった。
 ノブを回す気にも、この扉を開く気にも2人にはなれなかったのである。
「ああーっ」
 そこから漏れてくる八戒の苦痛の声。
 断末魔のような叫び。
 その苦痛の声は耳を塞ぎたくなるもので。初めて耳にするもので。
 それでも悟浄は微動だにせず、この叫びをしっかりと受け止める。
「お、俺、ちょっと……」
 とうとう耐え切れなくなった悟空は、この部屋から出て行こうとした。
 いや、この痛々しい八戒の声が聞こえなくなれば、どこでもよかったのだろう。
 しかしそれを許さないのは悟浄。
 しっかりと悟空の腕を掴み。
「逃げんなよ。これは八戒だけの問題じゃねーだろ。たまたま偶然実を取り込んだのが八戒ってなだけで、もしかしたら俺たちだったかもしんねー。今回のは八戒が俺たちの分も背負ってくれたんだ。なのに八戒は今たった1人で戦かってる。確かに俺たちは何もできねー。手を差し伸べることも、変わることもな。だがな、だからこそ俺たちはしっかりと目を空けて、八戒の戦い振りを見てなくちゃなんねーんじゃねーか?」
 堅く閉じられた扉を見据えて悟浄は言う。
 中にいる八戒の姿を透視するように。
「…うん」
 ぎしっとベッドが悲鳴をあげた。悟空が腰を落ちつかせた証だ。
 悟浄同様、穴があくほど一点を見つめる悟空。
 そう、1人じゃない。孤独の戦いじゃない。
 自分たち全員の戦い。
 それを八戒が気付いてくれればいい。
 悟浄はふと視線を窓に向ける。
 さっきまで曇っていた空はとうとう我慢しきれずに、涙を流し始めたようだ。今ではそれは激しくなり、地面を叩きつけるようなほどだが、その音にもまさる声が聞こえてくる。雨の音がその声を消してくれればいいと八戒の苦痛さえも洗い流してくれればいいと思うばかりだった。





 どんなに辛いことがあろうとも、なからず朝はやってくる。
 雨が厚い雲をも流してくれたようで、昨日とはうってかわった青々とした素晴らしい空だった。
 だからだろうか。鳥のさえずりもがどこか楽しそうに聞こえる
 その声に起こされるようにして、八戒はゆっくりと瞳を開いた。
 目に飛び込んできたのは金糸。
 それをたどって行けば、紫の瞳にぶつかった。
「三蔵…」
 彼は自分を離さないといった。その言葉が真実であるように、ずっと傍に付き添っていてくれたのだろう。あの地獄のような時間も、そしてこの夢のような時間も。
 乗越えられたのは彼のおかげ。この幸福感を感じられるのも彼のおかげ。
 八戒は内に広がる暖かさを隠さず顔に乗せ、三蔵に微笑んでみせた。
「やっと笑ったな」
「え?」
 今までだって笑っていたはずだ。
 みんなとともに行動できるようになってから、特によく笑うようになったと思っていたのに。
「お前の笑顔は久しぶりだ」
 三蔵も口の端に笑みを乗せ、どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 彼はわかっていたのかもしれない。
 拭うことのできなかった不安。そのため笑みが上辺だけのものになっていたことを。
 今までの笑顔が曇っていたことを。
「…そうですね。久しぶりです…」
「もうすぐメシの時間だ。食えそうか?」
 食事をする。それはすなわち八戒の体内から実が消えてなくなったということだ。
 八戒はテーブルに乗せられた料理の数々を想像してみる。
 久しぶりに美味しそうと思うことができた。
 どんなにそれが幸せなことなのか、今ならよくわかる。
「…ええ」
「もう大丈夫のようだな」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「迷惑かけられた覚えはねーな」
 三蔵は八戒から視線をそらすと煙草を取り出して火をつける。
 そう言えばその姿を目にするのも、とても久しぶりだった。
「支度したらこい。奴らがうるさくてかなわん」
 そう言い残すと三蔵は部屋を出て行き、その後を煙が追って行った。
 よく見れば自分は昨日とは違う服を着ていて、これも三蔵がやってくれたのだと容易に想像できた。
 口にはしない、彼の優しさ。
 こんなところにもそれを感じることができる。
 自然に浮かぶ笑みを消さずに八戒は急いで着替えると、くすぐったい気持ちのままリビングへと足を向けた。
「おはようございます」
 なんだかくすぐったい気持ち。
 生まれ変わったような感覚。
 それはあまりにも時間が経ち、忘れそうだが絶対に忘れることのできない、悟能から八戒へと変わったときを思い出させるものだった。
「ハヨ」
 短く返事をする悟浄の顔は、
 そして悟空は。
 八戒を凝視すること数秒。だんだんと笑顔へと変わっていって。
「おはよー、八戒」
 それは泣き出しそうにも感じられるものだった。
 久しぶりに口にする食事は、あの砂のように感じられたのが嘘のようだった。
 体が軽くなった感じもなく、空洞になった感じもない。
 舌を変えたわけでもなければ、みんなと一緒の食事をしていることも同じ。
 それなのにこんなにも違う味覚は、今まで実を取り込んでいたという事実と、今はもう消えてなくなっているという結果を実感させるものだった。
 そんな食事に浸っていたとき、扉を叩く音がした。
 もしかしたらと思い開けてみれば案の定そこには紅孩児たちが立っていて、その面持ちは昨日と変わらず堅いままだった。昨日言っていた服用するかしないかの結果を聞きにきたようだ。
「これ、お返しします」
 八戒はそれだけ言うと、八百鼡が置いて行った小ビンを紅孩児へと差し出した。
 それが考えた末の結果だと、紅孩児たちは解釈した。
 薬を探し出すのを待つという答えを。
 ところが渡された小ビンのあまりの軽さに、紅孩児は瞳を見開く。
「…飲んだのか?」
 それは紅孩児一行の誰もが想像していなかったようで、八百鼡も独角も驚きを隠せないようだった。
「はい」
 その晴れ晴れしい笑顔が、飲んだことで良い結果が生まれたことを告げていた。
「色々とお世話になりました」
「大したことはしていない。それに俺としては、あの家にいてくれた方が嬉しかったがな」
 かちゃ。
 突然紅孩児の後頭部に固いものがつきつけられた。
「冗談もわからんのか」
「ふん。そうには思えん口っぷりだったな」
 三蔵の紅孩児を見る目は、いつになく鋭いものになっていた。
「次に会うときは敵、か」
 独角のその言葉に。
「覚悟しとけよ」
 挑戦的な言葉で返す悟浄。
「お相手、よろしくお願いいたします」
 ペコリと丁寧にお辞儀をして言う八百鼡には。
「まかしといて。手加減しないから」
 自身満々で悟空が答えた。
 つかの間の仲間。つかの間の友人。それがまた自分たちが認めた唯一の敵へと変わるのだ。
「その言葉、忘れるなよ」
 姿を見せたときの面持ちとは違い、
その紅孩児の言葉が消えて行くのと同時に、彼らの姿も消えていった。
 またこれからは戦いの毎日。
 騒がしい日々が待ちうけている。
「さあ、食ったら出発するぞ」
 また始められる西への旅。
 しかしそれは今までとは少し違ったものになりそうな、そんな予感を感じさせるのだった。






END