城下町長府

大化の改新(645年)以降、この地方は穴門、阿武の二つの国が合わせて長門の国となりました。その国府(役所)が置かれていたことから、「長門の国の国府」がつづまって、長府と呼ばれるようになりました。長府といえば忘れてはならないのが、明治維新の中心として活躍した奇兵隊や長府報國隊の拠点として深く関わった地でもあります。高杉晋作や坂本龍馬ら多くの志士たちが、この地より日本の夜明けのために奔走しました。特に高杉晋作がわずか80人を率いて起こした<功山寺>挙兵は有名です。この挙兵がやがて、武士の時代を終わらす事になったのです。櫛崎城址(くしざきじょうあと)に長州藩の支藩として長府藩が成立し、後に居城としてこの櫛崎城(くしざきじょう)を再築します。初代藩主は毛利秀元(毛利元就の孫)で、当時36200石(後に5万石)。 櫛崎城の、この付近は関見台と言われており、幕末には奇兵隊等が外国船の見張りをした所でもあります。

<長府藩侍屋敷長屋>この長屋は長府藩家老職であった
西家の分家(長府藩御馬廻役、220石)の本門に附属してい
たものです。現在の位置より500m程南にあったものを保存の
ためにここに移築したもので、壇具川沿いに建っています。
一見長屋風ですが構造の重厚さ、特に仲間部の屋格子窓の
造り等は上級藩士の住居の趣を残しています。建築規模や
格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測されています。

長屋の外見0壇具川
 

<古江小路>城下町長府の中でも、もっとも城下町の
面影を残す古江小路。この城下町長府の武家屋敷は
合戦に備えての防衛的配慮がしてあり、土塀は防壁として
築かれています。町筋は必ずしも碁盤の目ではなく、
T字形になった部分や、わざと迷路のように作られた
所もあります。また、この小路には、長府藩初代藩主
毛利秀元(ひでもと:毛利元就の孫)により、京都から招か
れた侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄であった菅家
長屋門があります。この古江小路一角は城下町
長府へ来られた方が必ず訪れる場所です。

壇具川上流0土塀0菅家長屋門の外見
 

<長府毛利邸>明治36年に、長府毛利家第14代
藩主毛利元敏(もととし)によって、建てられた邸宅です。
明治天皇の行在所(あんざいしょ)としても使われ、現在は
その部屋が公開されています。また、邸内の池泉回遊式
庭園は石灯篭、楓、池など絶妙な配置により、安らぎの
空間を演出しています。長府散策の祭に、休憩所として
ホッと出来る場所でした。

正面門0玄関0庭園

<忌 宮 神 社>

西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在したと言われています。また、西暦195年には、渡来人が蚕種を献上したという蚕種渡来地の碑が境内の一角にあります(シルクロード日本上陸の地)。また、1800年の歴史を誇る「数方庭祭」は、西暦197年朝鮮半島より攻めてきた敵の大将塵輪(じんりん)を、仲哀天皇自ら弓を取り倒したことから始まったといわれてます。毎年8月7日から一週間この境内の「鬼石」の周りで『敵の大将の首獲ったどぉ〜!』と歓喜の踊りが行われ、その勇壮さに天下の奇祭と呼ばれています。言伝えによるとこの石の下には、鬼の様な塵輪の首が埋まっているそうですよ〜、なんか怖い。今回、「数方庭祭」は見る事は出来なかったですが、たまたま春の例大祭に遭遇しました。ドドドッ、と、お神輿が出て行った後、静かになった境内で神のお使いの神鶏が、元気良く鳴いていましたよ。

神社正面0鬼石0祭殿0鳥の神紋0神鶏0

お神輿0例祭の様子0 0
0

春の例大祭の模様。餅撒きを
したらしく、地元のおば様に
紅白のお餅↓を頂きました

戴いた餅

<豊功神社>

祭神は応神(おうじん)天皇、武内宿禰(すくね)、大国主大神穂田元清、毛利家歴代の長府藩主を祭神としています。本殿は昭和44年焼失しましたが、平成13年11月10日に再建されました。この豊功神社から望む満珠・干珠島の風景は素晴らしく、特に初日の出には多くの人々が訪れるらしいです。満珠・干珠の島は壇之浦の合戦の際、源氏軍が兵を集結させた島らしいです。この二つの島は、神功皇后が竜神から授けられた2つの珠(満つる珠、干る珠)から生まれたという伝説の島。二つの島が寄り添うように見えるこちらの神社からの眺めは思わず、おぉ!と声を上げてしまうほど綺麗でしたよ。ただ、黄砂の影響で空の青が色っぽく見えたのが、残念。満珠・干珠島の二つの島は然記念物となっています。

00000神社に行く時に通った小道0鳥居0長州と言えば、、この紋。

満珠・干珠0近景の満珠・干珠

<関見台公園>

この付近は関見台と言われており、幕末には奇兵隊等が外国船の見張りをした所でもあります。もう閉鎖された水族館の鯨館。お尻から入るところがおもろい〜、残念ながら顔は見れなかった。この公園には、お城の一部と思われる石垣があるのですが、この石垣が居城として再築された櫛崎城なのかしら?よくわからん…。公園として整備されていました。かなり高台にあるので、すごく急な坂を登ったので疲れた。長府の城下町が一望できて気持ちよかったよ、下には人口の砂浜があります。

0櫛崎城の一部0

城下町を望む0人口浜0鯨館0

<櫛崎城址>

長州藩の支藩として長府藩が成立し、居城としてこの櫛崎城を再築します。初代藩主は毛利秀元(毛利元就の孫)で、当時36200石(後に5万石)。 お城に行こうと思って歩いていたら、豊功神社に着いてしまい、あれっ?お城はどこ?!と参道前を見渡したら、すぐ脇にありました。う〜む、存在感が・・・ナイっ。。危うく通り過ぎるところでした。しかも、石垣の上にはまるで天守閣のように、個人のお家が何件か建ってました。普通、城跡ってお家建ってます?文化財として保存するとかすると思うのですが。。。見た時、度肝を抜かれました!石垣の上に住むってどんな感じなんでしょうね。

0やっと見つけた櫛崎城0城の石垣0石垣の上に民家が!?

長府観光協会HP参考】


→帰りは小倉まで車で送ってもらって、のぞみに乗って新大阪まで帰りました。小倉駅はモノレールの駅もあって、まるで近未来都市のようでした。

… 感謝 … 

今回仕事が忙しい中、私達に付き合ってくれたK君、ありがとう!美味しいものも食べれたし、見たい所も観光出来ました。満足、満足の旅行でした。観世音寺の宝物殿と櫛崎城を見つけた時の衝撃は、どんな綺麗な景色より思い出として残る事でしょう。又、KANちゃんのライブやチャーリーさんとこで飲んだりしょうね!

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