<功山寺>

倉時代創建、唐様(からよう)建築の美しさを保つ仏殿は、わが国最古の禅寺様式を残しており国宝に指定されています。元々は長福寺と呼ばれていたのですが、今の様に功山寺と呼ばれるようになったのは長州藩毛利秀元の菩提寺とされてからだそうです。幕末には明治維新の転機となった高杉晋作が騎兵隊からの賛同を得れないまま、わずか80人程度で挙兵した場所。この行動は、長州を再び討幕へと導きました。功山寺挙兵をきっかけに、維新が大きく動きます。晋作を始め幕末・維新ファンなど歴史ファンが訪れております。その他、ここには“五卿潜居(ごきょうせんきょ)の間があります。

功山寺ホームページから文章抜粋】

境内の裏には坂本竜馬の護衛を務めた、長府藩士三吉慎蔵の墓などがあります。三吉慎蔵は龍馬の命の恩人だ、この人が居なければ、竜馬はもっとはやくに死んでたかもしれん。五卿潜居の間には行かなかったのですが、お寺には湧き水があったので飲んでみたよ〜。冷たくて美味しかった!幕末の志士達もこの水飲んで、喉を潤してたかも!?お寺は禅寺っぽくて、ひぐらしの鳴き声が似合いそうな、そんな落ち着いた雰囲気でした。功山寺挙兵は幕末では有名な出来事ですが、このお寺から事が起こったんだよねぇ。自分の藩で内戦してまで、長州を倒幕へと導くにだから晋作は凄い。(と、いうか危険人物で、一歩間違えばキチガイとも…?!いや、冗談です。)

00正面門0仏殿0禅寺様式の窓0小坊主看板

<万骨塔>

昭和8年10月に尊攘堂(現長府博物館)と共に功山寺内に竣工式を行ったそうです。この万骨塔の目的は、明治維新を中心とした国事に命を捧げた多くの霊を供養するために、尊攘堂と共に長州藩士桂弥一が建立したもの。討幕派・幕府側に関係なく、国事に命を捧げた多くの霊の名が石に刻まれています。塚には「一将功成って万骨枯る」の碑とあります。明治と言う新しい時代になるまでに日本人同士で切あいして、沢山の人が亡くなっていたんだなぁ、と改めて思いました。なんとなく攘夷派に光が当たる時代ですが、こ〜ゆうのを見ると幕軍もかなりの犠牲を払い、新しい世の中になったんだと痛感します。悲惨な事には間違いないですが、歴史的には面白いな、と思います。攘夷派には武士だけじゃなく、林六郎の様な僧侶や竹志田熊雄の様な神職さん達も活動してたりして(志半ばで無くなってますが)色んな人が関わってて、それぞれの熱意が伝わってくる熱い時代なのよ。関係ないですが、うちの旦那さんの母方の家系をずーっと辿っていくと、武市半平太と関係がある血筋らしいです。。瑞山先生かぁ。会ってみたかったなぁ、絶対無理だけど。

0橋本左内0佐久間象山0吉田松陰0桂小五郎改め木戸さん0久坂玄瑞

00坂元龍馬0中岡慎平0寺田屋で亡くなった八名0山城の山崎天王山亡くなった長州藩士

0武市半平太0西郷隆盛0大久保利通0白虎隊0七卿

<長府博物館>

幕末結成された長府藩報告隊士でもあった桂弥一(かつらやいち)が、私財を投じて高杉晋作の挙兵で名高い功山寺境内に建設したもので、明治維新の研究や志士達の顕彰活動を行ったもので、維新資料を中心とする博物館資料は全国的に高い評価を受けています。長門尊攘堂と呼ばれ、のちに財団法人長府博物館となり、昭和55年4月1日下関市に移管されました。また、博物館本館が平成11年6月7日登録有形文化財となりました。収蔵品は重要文化財の和同開珎遺物を始め、旧毛利家遺品、乃木希典の他、幕末・維新では坂本龍馬や高杉晋作、白石正一郎、長府藩報告隊士、吉田松陰、久坂玄瑞、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、吉田稔麿、前原一誠、七卿などの貴重な資料が保存されています。収蔵数15,000余点。……と、HPにありましたが、展示内容は幕末志士の資料はなく、少し残念。みすも公園にあった長州の大砲がありました。あと、興味をひかれたのは、村上水軍関係の物ぐらいかなぁ。

長府博物館HP】 

ちょっとナポレオンみたい?!0 高杉晋作の霊石0 00 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と言われた高杉晋作。
危険なお・と・こ〜。

←功山寺で挙兵した晋作の像

実は、京都の京大内にも尊攘堂があります。
行った事ないから、詳しい事はわかりませんが(なんじゃそら)。
京都尊攘堂にもいつか行ってみようと思ってます。

霊石を撮るのに一生懸命になりすぎて肝心の万骨塔の前景写真を撮るのを
忘れている事に、後で気が付いた。。。あと博物館の正面写真も!

晋作ワンカップ0維新発祥之地