社会科学というもの





こんな事を言うと、文科系の人には怒られそうですが、社会科学といわれるものは、まだまだ自然科学に比して見れば「科学」の様相を呈しているとは言い難いと思います。

私がこんなトンデモない事を主張するかを説明するには、正統な自然科学と言う物が、何故「科学」であり、トンデモ本が何故「擬似科学」なのかを説明する必要があるでしょう。

基本的に、物理学、化学、工学に代表される自然科学というのは、検証・実証する学問です。
理論物理学は実験で実証されなければ、ただの仮説であり、物理学的な定説にはならないのです。
ここを勘違いしてはいけません。こちらの理論通りに自然が動いてくれるとは限らないのですから。

だから、理論的にはどんなにキレイに見えても、実証できなければ−つまり実験結果がその理論にそぐわなければ−それは誤りなのです。

逆に、量子論に代表されるように、一般常識的に見れば荒唐無稽というか、考えようによっては哲学的とも思われるような理論であっても、実験的実証がなされれば、それはそれで正しいのです。

証拠が十分にあるのに、根拠も無く否定するのは、証拠が無くても信じる事と同じです。それは宗教であって科学ではありません。

自然科学に関するトンデモ本が、何故擬似科学なのかといえば、理論的な整合性が無いと言うだけではありません。

勿論、理論的整合性がなければだれも試そうとはしないでしょうが、理論的には良くても、過去の実験結果から既に否定されたか、あるいは実証や実験そのものが絶対に不可能なモノであるから「トンデモ」なのです。

例えば、こんなトンデモ本があります。
「宇宙はこうなってる。何故なら‘ウンモ星人’に手紙で教えてもらったから。」
なんてのは、(これが理論的でないのは明らかだけど)誰も検証できないので科学とはなり得ないのです。だから、億に一つ、この著者の言うことが本当だとしても、この著者が認められることは決してないのです。

だれでも、どこでも、同じ条件を与えれば同じ結果を得る・・・これが検証できる、と言う事です。

共産主義やら社会主義やら唱える人には申し訳ないが、そういう人達の特徴として、理論的に正しければ正しい科学であると思い込んでいるように私には見えます。

テレビで、日本共産党の不破委員長(当時)が、
「ソ連が崩壊したからと言って、社会主義が誤りであった訳じゃない。科学という物はそんなものじゃない。理論的には社会主義は依然として正しい。」
という趣旨の事を言っていましたが、科学とは何かを全く理解していない発言です。

この発言を聞いて、何も言わない社会科学者もまた科学を理解していません。

一般的に言えば、科学と名が付くものに於いては、一つの例外を示せばその理論が誤りである事を示すには十分です。
それが別の理由による特殊な例外である事を証明しない限りにおいては。

秀才、切れ者で通っている不破委員長でさえこの調子なのです。
ご存知の通り、社会主義は様々な国で実験され、否定されました。成功した国なんてありません。
つまり実験によって否定されたのであり、社会科学が科学であるというなら、社会主義は科学的に否定されたと認めるのが科学者の態度でしょう。
それができないという事は、科学者ではないという事であり、社会科学が科学ではないという証です。

これは、「社会主義は正しい。何故ならマルクスというエライ学者さんが言ったから。」
と言うのと本質的には同じです。検証されていないものを正しいとするその姿勢においては。
つまり、信じるか信じないかという事であり、宗教と同じなのです。

物理学ならどうか?
理論的に完璧にみえても、否定された理論は数知れず、ましてやアインシュタインが言ったから正しい、何てことは絶対にありません。
それどころか、アインシュタインが犯した間違いだって枚挙にいとまがありませんが、実験事実に合わないから否定されたんであって、それ以上でも以下でもないのです。

(ある相対論懐疑派のトンデモ本に、「“アインシュタインは天才だから正しい” と物理学者に言われて、自分の考えを否定された」 なんて大嘘が書いてあった。これが真っ赤な嘘であることはこの事からも明白です。物理学者は、アインシュタインの間違いを発見できはしないかと鵜の目鷹の目、だからこその検証実験です。読者はトンデモに騙されてはいけない。こんな事が書いてあると信じたがる人が多いようだが。)

そもそも、自然科学における実証・検証という考え方が社会科学、人文科学には合わない、とする考え方もあるようですが、それならば何故「科学」を名乗りたがるのか? 単純に「社会学」では何故いけない?
単に、自分がやってる事、自分の考え方の正当性を主張するための方便にすぎないんじゃなかろうか?

科学を名乗るのであれば、何故なのかを言うだけでは十分ではありません。それを第三者が検証可能な形で示すか、そうでなければ自ら証明しなければならないのです。それこそまさに「科学する心」というものです。

という訳で、相当な批判があるのは承知の上で‘かつ’は敢えて主張します。
今もって、社会科学は擬似科学である

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注:私は資本主義に正義があるといってるわけではありません。
  社会主義が否定されても、それは資本主義の証明にはなっていない点に注意して下さい。