文学としてのSFの可能性

 

どういう訳か、日本では純文学と大衆文学の区分けが存在するようです。後者は、正統的文学とは見なされていない(らしい)。

SFは、前者の側からは大衆文学として、後者の側からは純文学(の亜流?)として見なされているような、不安定きわまりない状態か?
(私はスペオペとかは除外しています。何故かネット上ではスペオペの人気が高いようですが。)

そもそも、こんな区分けに科学的意味づけは出来ないと思うので、私はナンセンスと信じますが、文学ファンには重要な違いらしい。

SFについての私見を述べさせていただくと、少なくとも、SFが純文学ではないとする人にSFに詳しい人はいないと断言できる。
考えてもみて下さい、どこにその必然性、蓋然性がありますか?
逆もまた然り。なんでSFだと大衆が楽しめないと言えますか?

私が英語を学んだ恩師が、彼は初めは前者の側だった訳だけど、SFの翻訳をしてからというもの、
「いま考えると、これからの文学の可能性はSFしか無いんじゃないかとさえ思える」
と言うような事をおっしゃっていました。

そこまで言う自信は、私は持たないが、少なくともSFであって、文学的価値の極めて高い物も数多く読んだな、という自信ならあります。

さらに、物理学者の類も手に負えない人が多い。SF=魔法みたいな言い方を平気でする人がいるわけです。
つまり、SFを読んだことが無くて、そのくせ「SFじゃないんだから、そんな事は起こり得ない」といった事を平気で言うのです。
完全に用語の選択ミスですね。マスコミにもその手合いが多いからでしょう。

現代物理に完全に合致、乃至は少なくとも矛盾しないような新しいアイデアを付け加えた物でなければ、今や、いわゆるハードSFとしては通用しないのは、SFファンなら誰でも先刻ご承知ですわね。当たり前です。サイエンスのフィクションなんだから。
勿論、時代的な物はありますよ。昔のSFだと火星人がでてくるのは珍しくないけど、あれは天文学的観測から、火星に生物がいるんじゃないかと信じられていた頃の話です

海外では、名のある科学者や技術者がSFを書くのは珍しくないので、こんな言い方をする人は少数波でしょうが、日本ではSF自体が前述のように市民権を勝ち得ていない上に、科学者や技術者が書くSFは殆ど無い事もあって、どうも誤解が消えないようです。

‘かつ’は文学青年だった昔から、SFが好きで(純文も娯楽小説もですが)、技術者になってもSFが好きです。
どちらの立場から見ても、SFが面白くないとする人達は、SFを読んでないとしか思えないのです。

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