|
||||||||
薄い氷で覆う様にして、澱んだものを覆い隠してしまう。
ただ流される侭に凍りつかせてしまうのも、屹度そう悪いことではないのだと思う。
いつかは、溶け出したそれにも痛みを感じなくなる日が来るのかも知れない。
でも、今はまだ。
爪跡みたいに、思い出す度ツキツキと痛むから。
忘れたいわけではないけれど、今はまだ。
口にしないで、しまっておきたい。
口にされることも、求めないから。
ちらちらと舞う白い切なさを窓越しに眺めて、最高僧は舌打ちをひとつ。
粋も無粋も置き去りに、道行きが滞ることに対して不機嫌を示す。
安宿の一室は、暖房器具もろくに働かない。寒かった。
この寒空の中、オープンカーでドライブとしゃれ込む…ことを思うと、随分マシな環境だったが。
逗留を決め込んで以降、三蔵は一歩も外に出ていない。
マルボロに口をつけて、深く吸い込んだ。
冷えた空気のかわりに、灰を満たす緩やかな毒。
吐き出すと、その白さが外の雪と同じに見える。
悟空と悟浄は、争うようにして外に出ていった。
雪を見てはしゃぐ悟空に、悟浄は肩を竦め、
こんな寒空の中、どうして外に出たがるのかねお子様は…などと云いながら。
どちらも酔狂なことだ、と三蔵は思う。
トン・トントン。
軽く響くノック。
「こんにちは。 一寸いいですか?」
続いて、八戒が入ってくる。
三蔵は入れとも否とも答えていないが、敢えて咎めたてることでもない。
視線をやって、座るように促した。
「コーヒー、いれてきたんですけど…どうです?」
「ああ…。」
三蔵が軽く答えると、マグカップをひとつサイドテーブルの上に置き、八戒はベッドに腰掛けた。
部屋にひとつしかない椅子は、三蔵が占拠しているから。
自分のマグカップを両手で包む様にして、八戒は口をつける。
「……。」
「……ふぅ。」
暫くふたり、無言の侭にコーヒーを飲んだ。
話す可きことがあるわけでもないし、話すに相応しいことがあるわけでもなかったから。
沈黙は、苦痛にはならなかった。
ただ、ふいに思い立って八戒は口をひらいた。
「まだまだつもりそう、ですねぇ…。」
答えを求めたわけではない。なんとなく、云ってみたのだから。
「…ああ、積もるだろうな。」
答えが返って、少し驚く。
かすかに目を丸くしている八戒に、三蔵が気付いたかどうか。
「今日ね、薄くなんですけど、洗面台に氷が張ってたんです。」
小さく笑って、指先でその薄さを表現する。
「…この調子では、蛇口も凍るんじゃねえのか?」
「ええ。 だから、少しだけ水を出したままにするらしいです。
…そうしたら、氷もはりませんし。」
口調に微妙な翳りを感じて、三蔵は問い掛ける。
何故気付いたのか、わからない。
また、自身が問い掛けた理由も今ひとつわからなかった。
「氷に拘りでもあるのか?」
口に出すと、間が抜けた言葉。
「いいえ? …ただ、氷とか雪って、なんでも覆ってしまえるなって。」
「…そうか。」
そのあとまた無言に戻り、ふたりでコーヒーを飲んだ。
カップが空になって、それから。
マグカップをふたつ持ち、八戒は部屋を出る。
「それじゃ、お邪魔しました。」
ふたり、何を話すでもなく、ただコーヒーを飲んだだけ。
それでも、ひとりきりより、暖かかった。
コーヒーのせいなのか、ともにいた人物のためなのか、わからないけれど。
再びひとりになった部屋。
見るともなしに外を眺めていると、白いものは愈々勢いを増して地表を覆い隠そうとしていた。
やがて悟空と悟浄が帰ってきた様子。
宿の中に入ってくるなり、三蔵の部屋迄ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が届く。
腹が減れば帰ってくる、という辺り、如何にも奴ららしい。
飯を食うか、と立ち上がると、丁度よく悟空が迎えにきた。
バタン!とドアを勢いよくあけて、大声で叫ぶ。
「三蔵、メシ!!」
「…俺はメシじゃねぇ。」
主語述語の成り立たぬ台詞に、訂正を加えてみる。
通じなかったらしい。
悟空はきょとんと三蔵を見上げるだけだ。
「…もういい。 メシにするんだろう?」
促すと、そう、メシ!と走り出す。
八戒の部屋の前でも、メシにしようぜ!と声をかけて。
食事を済ませ、八戒が告げるのを、おぼろげに聴いていた。
「…凍っちゃいますから、少し水を……ですよ。」
ああ、先刻も云っていたことかと三蔵はひとり合点した。
「それじゃ、おなか出して寝て、風邪ひかないでくださいね?」
ハートマークでもつきそうな口調。
この言葉は、悟空に、というよりも寧ろ、悟浄に対して紡がれたものだろう。
気付いた悟浄は、へいへい、と肩をすくめてみせる。
こんな寒ぃ夜に出歩く女もいないでしょ、と笑って、
なんなら俺があっためてやるけど?
付け加えた台詞は、笑顔でかわされた。
馬鹿が…と、三蔵の呟いた言葉に、まだ早い時間だが各々部屋に戻る運びになる。
まだ雪は降り続いて、曇る窓硝子の外側はいかにも冷え冷えとしている。
日暮れが早く、夜明けの遅いこんな季節には、することもなく。
雪が治まるのを待ち、ただじっとしているだけ。
蛇口をひねった。
細く流れ出す、透明なもの。
数秒眺めて、排水溝にかすかに残る、氷に気付く。
気紛れに触れて、痺れる様に冷たい水に、手を引いた。 当然の結果だ。
冷えた指先を握り締め、ふたつ隣の部屋にいる筈の男の言葉を思い出す。
『…ただ、氷とか雪って、なんでも覆ってしまえるなって。』
覆いたいものがあるのだろうか。
屹度、覆っていることさえ気付かせない、あの男は。
氷や雪で隠しても、消えるわけではない。
隠して埋めて忘れてしまえば、或いは楽になれるのかも知れないが。
忘れられる筈がないと思う。 そして、それは多分正しい。
考えて、くだらない、とかぶりを振った。 暴き立てようとは思わない。
溶けるまで待てばいい。 そう思うわけでもない。
ただ漠然ともどかしく、じわりと指先を浸す微かな痺れの様に、不快だった。
夜半の内に、雪はやむだろうか。 振り続けるだろうか。
そして、微量の流水は、本当に凍らないのだろうか。
朝になって、薄氷が張っていたら。
また馬鹿みたいに触れてみる自分が脳裏に浮かんだ。
いっそ、割り砕いて粉々に。
そんなことを考え、三蔵は洗面所を離れた。
薄い氷に手をつけて、割ってしまいたい様な気がするのに。
どうしても、割る気にはなれない侭でいる。
今だけは、このままで。 そっとしておいて。
END
|