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昔の名で呼ぶその人を確かに探していた。心構えもしていた。
「見つけましたよ、悟能」
しかしその言葉だけで以前の弱い自分の姿が駆け巡り、天地はひっくりかえり、胃の中はぐちゃぐちゃにかきまわされた感じを受けた。でもそれは一瞬。今の自分はそれでまいってしまうほど弱くはない。
まして。隣には悟浄がいてくれる。
何よりそれが八戒にとっては心強いことだった。
声のした方をバッと見る。
「清一色…」
「なっ、何で奴がここにいんだよ…って、えっ?」
確かに姿は清一色。木の枝に座り、ニコリと八戒に笑いかけている。
しかし椅子代わりにしているその枝は細く、そしてそこにいる彼は枝より少し大きいくらい。どんなに考えても清一色の体は小さく、だいたい20センチくらいだろう。その小さいからだで、ちょこりんと座っているものだから、悟浄も八戒も想像とはまったく違う風体に呆気にとられるばかりで、八戒においてはあれほどまでにあった戦意がすっかり喪失してしまっていた。
「……つ…」
このままでは八戒のためにもまずいと、まだよく働かない思考で考えた悟浄から出た唯一の言葉は。
「つぶせ、八戒っ」
「はいっ」
「ちょっ、ちょっと待って下さいよ」
その声も以前とは違って、少し高めのどちらかといったら可愛らしいものへと変化していた。
あわてて枝から飛び降りると、悟浄と八戒の踏み潰そうとしている足を巧みによけて、悟浄の体にへばりつくと上へ上へと登りはじめた。
「…相変わらず、すばしっこさは健在ですね」
「…『きゃ〜蛾よー。気持ち悪い〜』つって蛾を振り払う女の気持ちがわかるような気がするワ…」
悟浄は何か思うところがあるのか、身をぶるぶる振るわせながら必死に振り払うのを絶えている。
めったにお目にかかれない彼のやせ我慢姿を、こんな状況ながらも微笑ましく見つめてしまう八戒だった。
うんしょうんしょと、やっと悟浄の肩まで登った清一色は、ちょうど八戒と目を合わせて話すにはよい高さだからか、そこに座って腰を落ち着かせている。
「不躾な人たちですねえ」
ため息まじりに言うその姿を八戒は観察する。
体から身にまとう服までもがミニサイズになっていて、髪も以前と変わらずにひと房だけが腰まで長い。三蔵に切り取られた右腕もちゃんと再生している。以前と違うことと言えば、あの蛇を思わせる細い目が少し大きくなっているくらいだろうか。いや…、雰囲気までもが少し違うような気もする。あの粘りつくようなそんな感じは一切なく、以前の彼を知らずに今の彼に出会っていたら好印象を与えるのではないかと思うくらい、ニコニコしているその顔はみょうにさっぱりとしていた。
「どうしてお前がここにいるんだ?」
「決まってるじゃないですか。猪悟能が気になったからですよ」
「…やんねーぞ」
「悟浄、それはちょっと違う気が…」
そんな真面目な顔して言わなくても…と、何をあんなミニチュアに敵意を持たなくてもいいのにと、八戒には思えてならない。しかし悟浄にとっては重大なことだった。せっかく好意を持って傍にいてくれるようになった猫を、むざむざと他人に取られたくはないのだ。
「以前の我は感情をもてあましていました。猪悟能という人物に興味を持っていたのは事実です。でもそれ以上に猪八戒という人物に興味を持った。そしてどうやって変わっていったのかをも。それを強く感じたとき我は存在したんです、もう1人の我とともに」
「もう1人?」
「エエ。あちらの方が前の我により近いですが」
その言葉で納得がいった。雰囲気が違うと思ったのは、彼特有の毒々しさがなかったのだ。言葉の端々に見え隠れしていた毒気もすっかり消えている。
「んで?その毒が多い片割れはどーしたよ?」
「毒が多いとは失礼な。ちゃんといますよ、今は別のところですがね」
八戒は今もまだ傍観者だった。何を考えているのかその表情からはわからなかったが、じっと清一色を凝視して、彼と悟浄との会話に耳を傾けている。
まずいと、悟浄は思った。
嫌っていた清一色はもういない。
目の前にいるのはまったくの別人といっていい。姿は同じだが、向けてくる感情はまったく違うもの。加えて今の彼はミニチュアのちびちびの可愛らしいものだったりするのだ。
こいつはこういうちっこいのに弱いんだよなー。
そういえば以前も捨てられていた子犬から離れられないでいたのを思い出す。
あれは買い物の帰り道だった。
小さなしかし深い木箱に入れられた子犬。
確かに自分も可哀想だとは思ったが、うるさいのは嫌いだし、たまに小猿が遊びにくるだけで手一杯なのだ。ジープもいることだしこれ以上小動物が増えても困るというのが現状だったので、悟浄は他に引き取り手が現れるのを祈って見て見ぬふりをしていた。しかし八戒はじっと子犬を見つめて動かない。八戒もよく悟浄の気持ちがわかるので飼いたいとは言わなかったが、それでも動こうとはしなかった。
突然「これ持っててください」といって荷物をよこした八戒は、「ここで待っててくださいね」と言い残して来た道を戻っていった。
待つこと数十分。彼は品の良さそうな老婦人を連れて、戻ってきたのだ。
後から聞いた話だが、彼女は以前街で知り合いになった婦人で、子供がいなくなって淋しいと言っていたのを思い出したのだそうだ。
もちろんその子犬は老婦人に引き取られて行った。
そういえば、ジープも八戒が連れてきたんだっけ。
そう考えると、悟浄の嫌な予感はますます強いものへと変わっていった。
八戒は無言で手を清一色へと差し出した。
その手に喜んで乗り移る清一色。
また手のひらにちんまりと座っている彼を凝視する。
「…わかりました。一緒に来て下さい」
やっぱり…。
やはり悟浄の予感は的中した。
「八戒ぃ〜」
のんびりと悟浄と肩を並べて歩いてくる八戒を見つけた悟空は、ジープから飛び降りると元気良く走って近づいてくる。そんなに急いでどうするというくらいぐんぐん近づいてくるその姿は、本当に悟空らしいと思えるほどだ。
そのまま八戒に突進するのではないかと危惧してしまうほどのスピードだったが、数歩手前でピタリと立ち止まると、ある一点を凝視する。
八戒の頭上。そこには清一色が大人しくちょこんと座っていた。
「…それ、何?」
「食いモンにゃ見えねーだろ?」
「うん、そうだけど…あっ、ぬいぐるみかー」
手を伸ばしてくる悟空の意図をいち早く察知すると、八戒は頭に座っている彼を落とさないよう、ゆっくりと慎重にかがんでやる。
ちょうどよい高さのところで悟空はそのぬいぐるみを大切に取ると、手に乗せてしげしげと見つめる。
「ちっせー。でもこれすっげー誰かにそっくしじゃん。本物みてー」
本当にぬいぐるみなら18の男がそれで楽しく遊ぶのもなんだが変なものだが、しかしその人形はうりふたつといっていいほど清一色に似ているのだ。もちろん彼本人なのだから似ていて当然なのだが、そんなことがありえるなどと誰だってつゆとは思わない。それは悟空も例外ではなく、八戒にどこで見つけたんだーなどと、ぬいぐるみの体をムニムニと触ったり揉んだりして無邪気に楽しんでいる。
「もういいでしょう?そろそろ手を離してくださいよ」
「!!」
とっさに手に乗せていた清一色を横に寝かすと、もう片方の手でぱふっと蓋をしてしまう。
手のひらには小さいながらもときどき何かが当たる感触がある。その手をじっと見つめる悟空。
「………」
さっきまであんなに楽しそうにしていたその顔から一変して、今は何も浮かんでいない。固まってしまっているようだ。
ゆっくりと顔を上げて八戒と悟浄の顔を見る。その目は、今の見た?何?どういうこと?と物語っていて、ありありと動揺しているのが彼らにはわかった。
悟空からしてみれば、何か回答が得られるかもしれないという少しの期待と、もしかしたら自分と同じように慌てるかもしれないという希望に似たものがあって2人を見たのだが、八戒は苦笑を浮かべたままだし、悟浄にいたっては体を曲げて笑っており、笑いすぎて立ち上がれないほどだ。
この矛先は、もちろん残るただ一人へと向けられる。
「三蔵ーっ」
手と手の間にまだ清一色を入れたまま、悟空はジープで悠長に新聞を読んでいる三蔵の元へと走り出した。
「三蔵っ。さんぞーっ」
その言葉しか今の思考回路には出てこないのかと疑いたくなるほど、大声で保護者の名前を連呼している。
そしてすぐ後にはその声に負けじ劣らじと、あまりの大きさに近くの鳥が驚いて羽ばたいて避難していくほど、すぱーんっといい音が森中に響き渡った。
「…ってー」
「うるせー。1回呼べば充分だ」
また口にしてみろ次は一発じゃすまねーぞとでもいうように、三蔵は手にしたハリセンで左手を軽く叩きながら、右手首の準備運動をしている。
「これっ。ホラ、これ見てみろよっ」
悟空が走っている間、内臓がシャッフルされたようになってしまった清一色は軽いめまいを起こしているようで、ゆっくりと蓋になっている手をどけると目を閉じてぐったりとしていた。
パン、パーンッと、またいい音が連発する。
「いらねーものを拾ってくるなと何度も言ってんだろっ。早く捨てて来い、バカ猿がっ」
「っててて。わかったよ」
「待って下さいっ、三蔵。それ僕のですっ」
本当に捨てかねないその雰囲気に、あわてて八戒は声をかけた。
「…何を考えてる」
「いえ、ただ一緒に連れていこうかと」
その爆弾発言に即座に反応したのが三蔵と悟空だった。
「馬鹿も休み休み言えっ」
「連れてくのかよーっ」
2人が猛反対するのは当然だろう。今は随分と小さく可愛らしくなってしまった清一色だが、彼には苦い思い出がある。それは八戒も百も承知のはずだし、この中で一番彼に被害を受けているのも八戒のはずだった。
なのに、どうして。
「彼が今の僕を知りたいと言ったんです。それなら見せてあげようと思いました。以前とは違う僕を…」
そして彼ら3人をも知ってもらいたいから。
絶望と悲しみに明け暮れた毎日。
殺戮を繰り返すたびに手に残る生々しい感触と、生暖かい色鮮やかな赤い血に染まっていく体という、ひどく鮮明な悪夢にうなされた毎夜。
そんな苦しみの日々から救ってくれたのが、この3人だった。
新しい命を持つ手助けをしてくれたのは三蔵。
しばらく忘れていた、心から笑うことを思い出させてくれたのは悟空。
愛に怯えた自分に手をさしのべ、愛で包んでくれたのは悟浄。
その彼らといつまでもともにあれたらと思うようになった自分。
「今の自分は嫌いではないですから…」
そう思える日がくるとは、あのときは想像もしなかった。
昔を思い出す八戒の顔には薄く笑みが浮かんでいた。
「…ふん。俺は面倒みんぞ」
「ええ。有難うございます、三蔵」
さきほどの言葉は、言った本人はさらりと流したつもりでも、聞き手にはひどく心に残るものだった。
「ずりーよ、八戒。そう言われたら、嫌っていえねーじゃん」
「ずるいですか?すみません、悟空」
色々言いながらも、三蔵も悟空も結局八戒がよければそれでいいと思っていたのだ。
悟空から清一色を受け取る。
すでに彼は体調の悪さが直っていたようで、今の会話を静かにじっと聞いていた。
「悟浄も。すみません」
「別に俺は否定してねーけど?何かあったらすぐつぶせばいいことだしぃ〜」
ああ、悟浄らしい、と八戒は思った。
悟浄はいつもそうだった。
八戒のすることを黙って見ている。そして黙って手助けしてくれるのだ。
いつもの優しい彼の言葉にニッコリと微笑むと、その笑みを手のひらにいる小さな人物に向けて同意を求める。
「というわけです。一緒に来てくれますね?」
「そうすれば今のあなたを作った要因がわかると?」
「ええ」
「わかりました。しばらくご一緒させていただきましょう」
こんなことになろうとは。
一難去ってまた一難。昨日の敵は今日の友。
まさかあれだけ嫌な思いをした敵と、一緒に旅をすることになるとは。
まだ紅孩児の方がましだ。
そう誰しもが思ったことだろう。
「この旅の間、一色と呼ばせていただきますね」
八戒だけは例外かもしれないが。
もしかしてこの状況をただ1人楽しんでいるのではないかと、疑いたくなるほどだった。
小さな小さな1人を加えて、奇妙な旅が始まった。
END