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世界を闇が支配するこの時間。
通常であれば夜行性の動物などは活発な活動をしているはずなのに、闇の王を恐れているのだろうか。なぜか今日は鳴りを潜めていた。
そんな静寂の夜のもと、動き出すものがいる。
この静けさを壊さないように、ゆっくりと静かに。
そこから少し離れた大樹を目指すと、根元に腰を落ち着かせ、背を太い幹にあずけて空を見上げる。
雲1つない空には赤・青・白などの光が瞬き、そしてそれらを統率するかのように、大きくまんまるのお月様が存在を主張していた。
そんな大小たくさんの光を体に浴びながら彼はくつろいでいたかと思いきや、実は思案中だったようだ。
八戒は1つため息をついた。
投げ出していた両足のうち、片方のみ膝を立てる。髪をかきあげた右手はそのまま首の後ろまできて、頭をささえるようにしてとまる。
その一連の動きは映画などで見るスローモーションのようにゆっくりとしていた。
「忘れられたと思っていたんですけどねえ…」
返り血で赤く染まった服。
鉄格子の向こうには、倒れこんだ長い髪の少女。
さきほど見た夢の映像が、思い出したくもないのに頭の中で繰り返される。
名前が変わってから、まして西をめざして旅立ってからはあまり見ることはなかったのに。
運転しどうしの上に、連日で睡眠はジープの中という無理な態勢のものだったので、体の疲れがあまりとれていなかったのだろう。それに加え、今日は朝から1人につき1ダースとくらいの多大なる歓迎を紅孩児から受けていたので、疲れがピークに達したようだ。
本来なら夢も見ずにぐっすりと眠りたいところだが、あまりにも体が疲れると体に反して目がさえてしまったり、嫌な夢を見て余計に疲れてしまったりするものだ。
「今日のパーティにはおまけがついていた、というところですかね」
軽い口調のわりには、八戒は苦虫を殺したような表情をしていた。
その表情がすーっと薄れていく。
「何をしてる」
完全にさっきの感情が顔から消えたとき、タイミングよく後ろから声がかけられた。
八戒は誰が来たのか気配でわかっていたのだろう。振り返りにっこり笑って三蔵に話し掛ける。
「いえ。ちょっと夢見が悪くて。気分転換に空を見ていたんです」
「あまりジープから離れるな。猿が起きたら心配するぞ。まあ、めったなことでは起きんがな」
「じゃあ、今日はお腹すいて起きちゃうかもしれませんね。夕食は草のフルコースでしたから」
食べ盛りですものねと言う八戒に、砂漠が水を吸うのと同じだろうと三蔵は返す。
「…起こしちゃいました?」
三蔵の気配を感じたときからずっと気になっていたことを八戒はやっと口にする。
皆を起こしてはいけないと、ジープを離れるときには細心の注意を払ったつもりだったのに。
実際、悟空は別として、悟浄は多分いまだ夢の中だろう。しかし三蔵はもとから睡眠が浅い方なので、自分が席を立ったときにすでに気配で起きてしまったのかもしれない。
「…夢見が悪くてな…」
三蔵は八戒が上半身を預けている木に自分も寄りかかると、1本のマルボロに火をつけ、煙をくもらせて言う。
確かにいつもなら八戒の考えている通り、不自然な動きだけで目を覚ましてしまっていただろうが、今回は本当に三蔵も夢見が悪かったのである。
完全な真っ白い世界だった。
そこには2つの体だけが横たわっていた。
三蔵はじっとそれらを見つめている。
そんな間にもピクリとも微動だにず、誰なのかもわからないその2体は、だんだんと土気色へと変色していく。
何をすることなくただその成り行きを見つづける。
ふと声が聞こえた気がした。
目はまだ2体から離れずにいたが、その声に意識を集中させる。
そして…。
江流と呼ぶ光明三蔵の声が聞こえた。
江流と呼ぶ朱泱の声が聞こえた。
このときになってやっと気付く。
この2つの亡骸が光明三蔵と朱泱のものだと。
守ることのできなかった人。自分が殺した人。
霞がかっていたのが晴れてきたそんな冴えた頭でよくあたりを見まわしてみると、そこには悟空、悟浄、八戒までもが血を流して倒れていた。
そこで、はっと目を覚ました。
額には汗がにじんでいる。
何もかも隠してしまう真っ暗な夜の世界。自分たちを隠してくれる、覆い被さるくらいのたくさんの木々。2つの寝息と1つの元気のいいいびき。
さきほどとはまったく違う世界なわけで。夢を見ていたことも自覚していて。なのにそれを信じられない自分がいるのも確かで。
三蔵は1人ずつに目を向け、それぞれの様子をうかがった。
自分が弱い人間だとはちっとも思わないが、それでもなぜか朱泱から受けた傷がうずいているような気がした。
無意識に傷跡に手を当て、小さくため息をついて目を瞑る。
そのときだった。八戒が目を覚ましたのは。
「奇遇ですねえ」
口には出さないが、その言葉が天邪鬼な三蔵の天邪鬼ゆえの優しさだと八戒は勘違いしていた。
本当のことだとはつゆほど思っていない。
三蔵が煙草を吸い終わるころあいを見計らって、八戒は立ちあがる。
「あれ。三蔵。汚れてますよ」
どこで汚したものなのか。着物のすそには土がついていた。
目ざとく見つけた八戒がかがんでパッパッとはたいてみる。少しはとれたようだが、それでも完璧にはほど遠い。
「とれませんねえ」
法衣なのでちゃんと汚れを落とすつもりのようだ。どこを歩いて来たんですかと言いながら、しゃがみこんでそのひと塊の汚れに対面している。
自分より少し背の高い彼がしゃがんで小さくなっているその姿は、まるで子供が何かの恐怖から身を隠すようにして丸まっている姿を連想させられた。救いを求めているようにも感じられる。
本当は?…そんなの決まっている。
いつもそうだ。
笑顔を絶やさない、八戒。
辛いときに作る笑顔はとても大変だろうに。
そんなときまで無理しなくてもいいのに。
みんなの思いに反して、八戒はどんなに辛いことがあってもそんなことはおくびにも見せず、笑顔でいつも隠しとおしてしまう。
八戒は心配させまいとしてだろうが、三蔵たちからすれば他人行儀に感じられる。
もちろん家族とはいわない。あかの他人だ。
だがあからさまに他人扱いされてしまうと、しゃくにさわるのも事実だ。
三蔵は八戒の姿を見つめながら、物思いにふけっていた。
そして、突然頭を横切った映像。
横たわっていた体。血を流していた八戒。
いつかこの体も夢と同様に体中の血が流れ出て、冷たくなってしまうのか。
夢を夢だと実感したかったのかもしれない。三蔵は八戒の背中に口付けるように、ゆっくり覆い被さってきてやんわりと抱きしめた。
三蔵のあまりにも突然ならしからぬその行為は、充分に八戒を驚倒させた。
首から腰までにかかった重さ。そして暖かい人肌。
今までの会話でこの経緯に至る話はしていなかったはずだ。
「…どうしたんですか、三蔵?」
しかし、三蔵から返事は返ってこなかった。
「…三蔵?」
八戒は三蔵を促すように、首を軽く動かした。
優しく抱きしめられていたために少し身じろぎをしただけで、三蔵の重みが背中から消える。戒めがなくなったために自由に動けるようになった八戒は、三蔵の真意を知るためにも対面して話そうと立ちあがる。
そのとき突然三蔵が動いた。
まだ立ちあがりかけている八戒の腕をつかみ、ぐいっと自分の方へとひっぱる。不安定な態勢のまま胸に倒れこんできた体を左手で支えると、リードするように自分の体ごと反転させ、三蔵と八戒の場所を入れかえる。その勢いを衰えさせないまま八戒を木に寄りかかせ、八戒の体の力が抜けている間に左足を八戒の足の間に割り込ませ、左手は腕をつかんで木に押さえつけたまま、右手は八戒の顔のすぐ横に自分の体を支えるように木に手をつける。
降りまわされるかたちとなったあまりにも突然の行為に、八戒は木に寄りかかったあと衰えぬ勢いのままズルズルとその場で座り込んでしまった。
「…三蔵…」
あまりにもスムーズに運ばれた一連の流れに逆らうこともできず、まためくるめく視界の変化に何が起こったのか八戒は理解するのが大変だった。
あれよあれよといううちに、三蔵の胸に飛び込み、背中に衝撃を受け、いつのまにか自分は木の根に座っていたという感じだ。
ただ呆然と三蔵を仰ぎ見る。
その瞬間、それまで頭の中をしめていた驚愕や困惑などはすっかり消えてしまった。
何もかも忘れてしまうほどの美貌。
月光を背後から浴び金色の髪をさらに輝かせて立つ三蔵の姿はとても神々しかった。尊大な態度、大いなる自信、何も恐れることなくひたすらまっすぐ前を向く紫の瞳。もしかしたらそれがまた、何者をも寄せ付けない、近寄りがたい雰囲気に拍車をかけているのかもしれないが、それさえも彼にとっては魅力の1つになっている。
とても綺麗だと、いつまでも見ていたいと、そう思った。同時に、このときの彼の姿を多分一生忘れることはないだろうと、八戒はそう感じた。
こんなにも綺麗な人が自分のことを気にかけて、そして求めてくれている。
それは何ともいえない快感でもあった。
八戒は三蔵から目を離せぬまま、そんな考えを巡らせていた。
しかし三蔵にはその視線が違う意味にとれたようだ。
「夢見が悪いといっただろう」
三蔵も八戒を凝視していたが、右手を八戒に差し出しながら言った。その右手に八戒は自分の右手を乗せ、三蔵に助けてもらいながら立ちあがる。
「…わかりました」
三蔵に言ったのか。それとも独り言だったのか。判断できないほど、静かに、それでいて何かを決心しかのようにきっぱりと言いきった。
「三蔵。ついてきてください」
有無を言わさない語調と強い眼差しで言うと、三蔵の返事を待たずして、スタスタとジープからだんだんと離れ、森の奥へと歩き出した。三蔵はかならずついてきてくれると確信しているな態度だった。
三蔵も確かに八戒のことは信用している。意味のない行為などしない八戒なので、疑いもせずについては行くが、どうも釈然としないものがある。まして視覚を期待できないこんな森の夜半時では、あまりジープから離れるのは得策とは言えない。
「どこまで行くつもりだ」
初めて歩く道。真っ暗なうっそうとした森の中。だからこそ実際はジープからそう離れていなかったのかもしれないが、三蔵には長い距離を歩いたように感じられた。
「そうですねえ。この辺にしましょうか」
キョロキョロと辺りを窺っているその姿は、なんの緊張感も感じられず、何を考えているのかが皆目検討もつかない。
「あ。嫌だなあ。いかにも、という感じですよね」
視線の少し先に見えるものは…あれは小屋のようだ。
もしかしたら八戒はその小屋の存在を知っていたのではないかと疑われても仕方がないくらい、あまりにも偶然にしてはタイミングが良すぎるほどだった。もちろんそんなことがあるはずもない。もし知っていたら、もとからここを今夜の宿泊場所に提案しているはずだからだ。
小屋に近づいてみる。中からもその周辺からも人の気配は感じられない。
それでも八戒は、どなたかいらっしゃいますか、と声をかけながら中へと足を踏み入れる。
もちろん、返事があるはずもない。
中に入ってみると、空家だということがはっきりとわかった。
三蔵たちのように、たびたびここを訪れ使用する旅人がいるのか、蜘蛛の巣や目だった埃はないようだ。しかし、室内がとてもシンプルなのである。家具があまりない。確かに以前は誰かの住まいだったようだが、引っ越したあとの部屋と理解できた。
そして寝室。
ここにはベッドが2つ並べられていた。フカフカでもなく掛けるものもないものだったが、無人にしておくにはもったいない感じだし、野宿よりだんぜんいい。
ひととおり見終えた八戒はダイニングの椅子に腰掛けて煙草を吸いながら待っている三蔵の元へと戻る。
「水も出るようですし、電気も使えるようですよ。お茶を入れますね」
「何を考えてる」
「何って…」
「何故ここにつれてきた」
「…先に行動に出たのはあなたですよ、三蔵」
「……」
なぜあのときあんなことをしてしまったのか。
今までも八戒とは関係をもったことはあった。もちろんそれは八戒だからこそで、誰でもいいとか、その場限りとか、そんな軽いものじゃない。
でもこれじゃあ、夢に流されてるだけじゃないか。
そこまで弱い人間じゃない。
「何で躊躇しているかわかりませんが、強いだけの人なんていないと思います。関係をもつことに理由なんて様々です。夢見が悪かったんですよね。それで僕を求めてくれるのはすごく嬉しいですよ。必要とされているわけですから。それに…」
何もできないでいる三蔵に、今までの笑顔を崩して八戒は続けた。
「僕も…今は人肌が恋しいんですよ」
それは微笑という仮面をとった、彼の本当の姿だった。
頼りなくね先ほど背中をみて三蔵が感じたそのままの彼。
その彼を見て、三蔵は動いた。
「八戒、まだかなー」
もう何度目かの呟きを、悟空はまた口にした。
「腹へったよーっ」
「木の実でも取って食ってろ、猿」
さっきから悟浄は嫌な予感をぬぐえなかった。
今朝は珍しく早く目が覚めたので、いつもならもうとうに起きている八戒とゆっくりモーニングコーヒーでもしゃれこもうと思っていたのに、近くを探しても彼の姿は見えなかった。
それだけならここまで気にはしなかっただろうが…。
「なあ。三蔵も一緒かなー」
「多分な」
(三蔵もいないってどーいうことよ)
なんだか釈然としない面持ちで、いつもよりおいしいとは思えない煙草を、ただいつもの習慣というだけで口にくわえていた。
「あ、八戒だ。お帰りーっ、腹減ったよーっ」
「お待たせしました。散歩していたら空き家を見つけたので、台所を拝借してきたんですよ」
「わーい。いっただっきまーす」
遅くなってすみませんと言ってお弁当を広げながら、相変わらず保父さんぶりを発揮してニッコリ笑って悟空の世話をやいている。
悟空は待ちに待ったご飯にありつけることを素直に喜んでいるようだが、そんなことでだまされる悟浄ではない。
「へえ…空き家ねえ」
チラリと傍らにいる金髪美人へと視線を投げる。
「もしかして、今日のお散歩は日の出前から?」
「何がいいたい」
「大浴場には行かない方がいいかなってコト」
「……」
チッと舌打ちして煙草を吸う三蔵を見ると、やはり悟浄の予感は的中のようだ。
「三蔵、悟浄。早くしないと悟空に全部食べられてしまいますよ」
見た目では昨日までと変わりないように振舞っている八戒だが…。
「八戒、だいじょーぶ?」
「?…何がですか?」
突然の悟浄のいたわりの言葉がどのことを指しているのか八戒にはまったくわからない。
…まさか。もしかして…。
一瞬浮かんだ1つの答えは、自分自身にやましいことがあるからそう考えてしまうのだろうと、すぐ否定してしまったが…。
「それとも今日の運転は俺がやろーか」
「あ…あの…」
「三蔵様のおかげで大変だったんだから、本当なら責任とらせばいーんだろーけど。でも、俺、まだ死にたくないしィ」
「今すぐ殺してやる」
空は快晴。向かうは西。
昨夜の悪夢は忘れて、今日もまた遠足を楽しみながら銃声がしそうな予感がした八戒だった。
END