|
|||||
久し振りにゆっくりできる時間だった。
偶然か意図的か。移動中は順調に進むのに、街に着き早々に買い出しをすませ、楽しいが騒々しい食事を終えて、あてがわれた部屋に戻りやっと肩の力を抜く。そしてのんびりと落ち着けると思った矢先に、必ずといっていいほど敵が遊びにきてくれる。
それがここ最近の日々の過ごし方である。
最初はせっかく休めるはずだったのに、と肩を落とす程度ですんでいたが、さすがにこう毎度のこととなると、いいかげん苛立つ感情をおさえるのは難しくなってくる。だからこそ、こうしてゆっくりと羽をのばせることがいかに幸せであるか、八戒は身をもって感じていた。
窓に面したテーブルセットの椅子に腰を落ちつかせると、暫し空と木々が同化した、窓の外の闇を見つめる。
上部には小さくとも綺麗に輝く色とりどりの石が散りばめられており、月がでていない夜だけにいっそうそれらは目をひいた。
いったいどれくらいの時間、そうしてぼんやりと星を眺めていたのだろうか。
視線をテーブルへと戻すと、久し振りに読む本のページをめくり始める。
たとえその本を読むのが久し振りと言えども、それまで読んでいたページは挟んであるしおりが教えてくれる。
そこを開けば、ふちが桃色の白い可愛らしい小さな花が貼ってある、細長いしおりが目に入った。
その花を八戒は凝視する。
それは八戒が必ずすることだ。
読書ができるような余裕ある時間がとれるときには、必ずこの花を見れるよう、そしてそのときの思い出を形にできるよう、こうしてしおりにしたのだ。
「そういえば…」
八戒は視線を上げると、室内を見まわす。
そんな気のきいたものがあること自体あまりないことだが、もしかしたらと視線を漂わせると、求めていたものにぶつかることができ、宿屋の心遣いに感謝した。
八戒の視線がたどりついた先はカレンダーである。
「明日は14日ですか」
最近の忙しさですっかり忘れていたが、明日はバレンタインである。
今夜は女性たちが、明日男性に渡すチョコレートを一生懸命作っていることだろう。
そういえばなんとなく街中が甘い薫りに包まれていたような気がする。
「また、この時期が来たんですね…」
八戒は手元のしおりに視線を戻すと、当時のことを思い出していた。
それはまだ旅を始めたばかりの、ちょうど1年前のことだった。
野宿かと危ぶまれた行程だったが、敵に遭遇することなくスムーズに移動できたおかげで、日が落ちかけた夕刻に街へと着くことができた。
その街は緑豊かなところで、中心部は様々な店が軒を連ねる活気あるところだが、少し離れると各々の家に小さいながらも畑を持つという、今までにはない珍しい街だった。街の住人のほとんどが、日中はお金を稼ぐために中心部に借りた店へ出向き、夜は家族の住む家へと戻って行くということらしい。
そして自分たちが腰を落ちつかせた宿屋にも、例に漏れず畑があった。
しかしその宿屋は、食料調達を時給自足で補わず、お金が入る分材料を買ってしまうようで、普通畑で野菜や果物を作っている家が多い中、その宿屋は花畑にしていた。人に部屋を貸すのだから少しでも華やかにするためだ、との主人の言葉である。
そんな会話で馴染むことができたこともあり、八戒は宿屋の主人に頼み込んで台所を借り、バレンタインだからと、大勢で食べるのにちょうどいい大きさのチョコレートケーキを、自分たちの分とそして貸してくれたお礼にと宿屋の家族の分の、合計2つわ作りあげ、食後のデザートはそのケーキとなった。
しかしそれは八戒にとってみんなのために作ったものであり、三蔵のためには別に用意したのである。
普通、こういう場合女性ならば、綺麗な箱の中に見た目良く並べて入れ、ちゃんとラッピングしてから、それにあったリボンで飾りをして渡すのだろうが、八戒にはそんな時間もなければ、女性でもない。ましてやそれを見て三蔵が喜ぶとも思えないので、八戒はただの皿の上に三蔵に渡すチョコを乗せた。
それでも借りた皿は見た目のいい皿を選び、並べるのもちゃんと見た目良く。その心遣いは忘れない。
コンコン。
きっちり2回、三蔵の部屋の扉を叩いた。
今日は1人部屋なので、悟空にも悟浄にも気遣うことなく、このチョコを渡すことができるのである。
扉を叩いた音で、それが誰なのかわかったのだろう。
「勝手に入れ」
そう憮然とした声で部屋の主は言った。
三蔵は八戒がこうして丁寧に自分の部屋を訪れるのを、あまり好んではいない。
もちろん悟空や悟浄が扉を叩かずに勝手に入ってこようものなら、腹が立ってハリセンをお見舞いしているだろうが、他人とは言えない関係の八戒に、他人の家を訪問するように扉を叩かれ、あげくのはてに返事がするか扉が開くまでドアの前で待たれるというのは、三蔵からすれば他人行儀そのものに感じられてしまうのだ。以前そのことを八戒に言ってやめさせようと思ったのだが、「親しき中にも礼儀あり、ですよ」などとにっこり笑って言われてしまったので何も言えなくなってしまい、今では諦めモードに入っている。それでもまだ完全には諦めていないようで、八戒が見た三蔵は声同様憮然とした表情をしていた。
顔を上げもせず、新聞に視線を向けている三蔵。
その彼にと、テーブルの上に煎れたてのコーヒーと、そしてチョコを乗せた皿を置く。
扉が開かれたときからコーヒーの香しい薫りが室内に充満したので、八戒がそれを持ってきてくれたことくらいは見なくともわかったが、しかしもう一皿追加があるとはさすがに思わず、テーブルに置かれた音が1つ多く三蔵の耳に入ったとき、やっと彼は視線をテーブルへと向け、それが何か確認した。
「………」
そして八戒を見つめると、その皿に乗せられたチョコを指差して口を開く。
「何だこれは」
「いちごです」
「…それくらい誰でもわかる。そんなことを聞いてるんじゃねえ」
「ああ。バレンタインのチョコですよ」
ちょっと奮発してしまいました、と八戒は笑顔で言った。
実は今年お初で口にする苺なのである。
一粒の苺の半分をチョコでコーティングした、彼だけの特別なバレンタインのチョコ。コーティングしたチョコはケーキを作ったときの残りだが、使用した苺は三蔵のためだけに買ったのものである。
「これならあなたも食べてくれるだろうと思いまして」
本当は大福でも渡そうかとちらりと考えたのだが、しかしバレンタインに大福など聞いたことがない。そのときに、苺大福から連想したのがこのチョコというわけだ。
笑顔のまま三蔵の向かいにある空いた椅子に腰をかけると、八戒はにこにこと三蔵を見つめる。
まずはこの苺を食べないかぎり、八戒は話しもしないだろうと感づいた三蔵は、読んでいた新聞を畳んで端に寄せると、皿の中の一粒を手に取って口の中へと入れた。
「いかがです?そんなに甘くないでしょう?」
「…ああ」
先ほどのチョコレートケーキはさすがに甘く数口でやめてしまい、残りは全部悟空の胃袋に収められたが、これなら甘ったるい物が苦手な三蔵でも食べることができる。確かにぜんぜん甘くないと言うには語弊があるが、それでも甘さ控えめなのは事実だ。苺は苺だけで食べるのが三蔵の好みだったが、以外にも美味しいし、それにせっかくのバレンタインとして八戒が作ってくれたものだから。
「よかった」
八戒の笑顔に深みがかかった。
それがあまりにも嬉しそうで。幸せそうで。
なぜ自分が照れなくちゃなんねーんだと思いながら、八戒に悟られないよう顔を外へとそらした。
窓の外には細い月。
あまりにも細いので外を街灯のように照らすことはできなかったが、それでも月は地上に光を注ぎつづけ、ほんのりと外は明るいように感じられた。
うっすらと見ることができる外の景色。
だからこそ、じっくりと見てしまうのだろう。
ガタッ。
「三蔵?」
「それ食いながら待ってろ。すぐ戻る」
そう言い残して、三蔵は部屋を出て行った。
寸前まで三蔵は外を見ていた。だから外に何か見つけたのだろうかと八戒は視線を向けてみたが、別に異常は見られないし、敵の気配を感じることもなかった。
「これ食べながら、ですか。一応三蔵に渡したチョコなんですけどねえ」
作った本人が食べてしまっては、あまり意味がないのではないだろうか。
とは思うもののついつい手が伸びてしまうのは、苺がとてもみずみずしく見えるからだろう。
「よかった。今年の苺は甘いですね」
梅干の酸味は好きなくせに、果物の酸味は嫌う三蔵なだけに、八戒は思った以上の苺の甘さにほっとしていた。
そんなつかの間の時間。
すぐに三蔵の階段を昇ってくる足音が聞こえてきた。
そんなに短時間で用が済ませるなんて、ますますもってわからない。
普段とあまり変わらないようでどこか急ぎ足にも感じられる足音を立て、途中どこにも寄ることなくまっすぐこの部屋を目指してくると、扉が開かれ三蔵が入ってきたとたん、テーブルの上に投げられたそれ。
とさっ、と軽い音を立てて落ちたそれは、1本の花だった。
今まで様々な花を目にしてきたが、今日まで見たことがなかった花。
ふちをピンクで飾られた白いその花は、片手で花を覆ってみてもまだ余裕がありそうなほど小さいが、なぜか人の心を強く引きつけるものだった。
だからこそ、八戒もその花をよく覚えていたのだが。
「三蔵、これ…」
「うけとれ」
「うけとれって…これ、ここの畑に咲いていた花でしょう?」
「見つからなけりゃ、わからん」
「そんなこと言って…」
それじゃあ泥棒じゃないですか。
その言葉はあえて口にしなかった。
いや、できなかったと言った方が正しいかもしれない。
そらされる視線。荒く腰掛ける態度。
どれをとっても三蔵からは想像できないほど、落ち着きのないものだったから。
「それだから坊主らしくないって悟浄に言われるんですよ」
有難うございますと、それでも感謝の意を述べる八戒。
その彼の顔を三蔵はガラスごしに見つめた。
外は闇。ほんのり月明かりが照らされていても、日中透明なガラスが今では鏡と化している。
そこに映った八戒は笑っていて、先ほどと同じく嬉しそうでいて幸せそうなものだったが、それに温かみが加わった微笑みはとても綺麗で、三蔵はその笑顔をいつまでも瞳に焼きつけていたのだった。
あれからもう1年。
悟空も悟浄も相変わらずで、三蔵との関係も相変わらずで、そして相変わらず西への旅を続けているが、日々確実に変わっていることもある。それでもこの思い出は変わることなく、自分の手元に形として残っているのだ。
他人がどう思おうが、自分にとっては大切な大切な宝物として。
「今年は何にしましょうか」
そして彼は今年、どんなことをしてくれるのだろうか。
しおりの花を見つめ、今でも鮮明に覚えているあのときの三蔵を思い出し、くすくすと笑った。
「忘れられませんよ、ずっとね」
悟空にも悟浄にも、そして当の本人である三蔵にも言えない、たった1人の幸せな思い出。
「っと。そろそろですね」
もうそんな時間なんだと、星を眺めていたのが長かったのか、思い出に浸っていたのが長かったのか、どちらにしろまたこの本を読み進めることができなかった。
先ほど食事を終えた後、明日のルート確認をするために三蔵に部屋へ来るよう、時間を指定されていたのだ。
八戒は元にあったように思い出の形をゆっくりと本に閉じ込めると、もしかしたら今日はまだ読書をする時間があるかもしれないと、テーブルの上にそのまま置いて、目的の三蔵の部屋を目指す。
「お待たせしました、三蔵」
三蔵が驚かないよう扉を開くのと同時に声をかけ、八戒は三蔵の部屋へと姿を消して行った。
END