SAIYUKI
NOVELS 62
白装束をぬいだとき 2002.3.14
SANZO×HAKKAI
 綿のようにふわふわした大きな雪が、丸一日休む間もなく降り続いた翌朝のこと。八戒は背中に温もりを感じつつ、意識をゆっくりと浮上させた。
 カーテンで遮断させてはいるものの、外が明るくなっているのを理解し、次いで時計で今の時間を確認してみれば、いつもより少々早めに目を覚ましたことを知る。まるで子供のようだと口元にほんのりと笑みを乗せながら、隣で寝ている三蔵を起こさぬように注意しつつ、さっそくベッドを抜け出した。
 光りが漏れぬように三蔵とは反対のカーテンを少しだけめくってみる。わかってはいたのにパアッとさしこんできた光りに驚いて、三蔵が起きてしまわなかったかとヒヤヒヤしながら目を向けてみたが、相変わらず彼の背はこちらに向けられたままだったので、八戒は明らかにほっとした表情を浮かべた後、改めて外の景色を見つめた。
 広がるは一面の銀世界。すべての物が白く塗り替えられ、それらに太陽の光が反射してキラキラと輝いている。
 まだ何者にも汚されず、壊されず。漂う様々な香りや音など、すべてのものを覆い隠してしまったその雪で化粧された光景は、触れれば壊れてしまいそうな危うく儚い印象を受ける。そんな、いつもとはあまりにも違いすぎる景色を見ていると、まるで異世界に足を踏み入れてしまったような気が、八戒にはしてくるのだった。
 その幻想的な世界を見ることができるのは、一年間という短くも長い年月の中でも数えるほどしかなく、その数少ないときを八戒は楽しみにしていて、だからこそきっと、昨夜突然振り出した大雪で、その世界を見れるかもしれないという期待が湧きあがり、寝ていた八戒をこの時間に起こしたのかもしれない。
 三蔵の様子を伺いながら、なるべく音を立てないようにして着替え終えた八戒は、とある一点を見つめたまま、しばらくその場に佇んでいた。雪が積もっている外を出歩くのには、いつもの服装ではさすがに寒いかもしれない。だから何か上に羽織れるような物でもあればと、考え込んでいたのだ。ところが結局は考えただけで、探すという行為すらせぬままに、八戒は部屋を出て行ってしまった。神経質な三蔵のこと、これ以上動く気配をさせたり、物音をたててしまっては、彼が目を覚ましてしまうような気がしてならなかったから。それに上着がなくとも、早く帰ってこれば大丈夫だろうと、そう考えたすえのことだった。
 こうして八戒は冷え切った空気の中、それでも少しだけ笑みを浮かべて、寒々とした中にもどこか安らぎを感じさせてくれる雪へと足を踏み出し、さくさくと軽い音をたて、周囲の散策を始めたのだった。





 三蔵は穏やかな眠りについていた。
 たまたま打った寝返りで、下にしていた左腕を右腕へと変えるのと同時に、伸ばされた左腕はポスンとシーツの上へと置かれた。それからしばらくは動く気配を見せなかったが、ピクリと小さく指先が震えた後、まるで何かを探し求めているように、狭い範囲内ではあったが上下に腕が移動していく。ところがどんなに動いても一向に手に触れるものはなく、三蔵はゆっくりと瞼を持ち上げると、瞳を自分の胸元へと向けてみた。
 そこは本来ならばポコッと膨らんでいるはずだった。腕には寝ているためにいつもより高くなっている愛しい人の体温が感じられ、その彼の穏やかな寝息も聞こえなくてはならなかった。それなのに現状は寝息以前の問題で、三蔵の視線が向けられている、狭いながらもちょうど一人分空けられたその空間には、布団がシーツにペッタリと張りついている状態だった。
 三蔵は再度八戒の温もりを感じ取るために、彼がいたはずのその場所に手をおいてみる。まだ完全に冷たくなってはいなかったが、それでも八戒がこのベッドを出てからずいぶんと時間が経っていると思わせるほどではあった。
 今度は手をそのままに首だけをさまよわせる。
 やはり彼の服は見当たらない。
(雪景色を見に行ったか)
 ずっと彼とともにいるのだから、八戒が雪の降った直後の景色がとても好きなことくらい、三蔵はわかっている。だから彼が今いない理由を寸分も違えることなく理解して、また先ほどの穏やかな眠りへと戻ろうと、瞳をゆっくりと閉じていった。
 ところが次の瞬間、三蔵の瞳が見開かれた。そしてすぐにもう一度室内を見まわす。
 なぜ、そこにそれがある。
 まさか…。
 気だるさや眠気などを湧いた不安が吹き飛ばし、三蔵の内を締めている。そしてそれは室内にある荷物を確認し終えた時点で、怒りへと変わってしまっていた。
「ちっ。世話やかせやがって」
 三蔵は苛々しげにそうぼやくと、急いで身支度を始める。
 たとえ太陽が出てるといえども、外にはまだ雪が積もっているはずだった。加えて今は朝なのだ。最近温かい日が続いてきて、だんだんと春を感じさせるようになってきたといえども、どう考えても外気は冷えていることくらいわかるではないか。きっと彼のことだから、寝ている自分を起こしてしまうかもしれないという危惧と、早く帰れば大丈夫という安直な考えから、上着を取らずに出ていったのだろう。
 しかしその間、彼は寒い思いをしてしまうのだ。
 子供ではないのだから、そんなことくらい重々承知しているはずだから、それでも行くということはその寒さを覚悟してのことだろう。だが、もしそうだとしても。彼が好きで行ったとしても。彼が寒さを感じることには変わりがない。その身を震わせながら、いつものあの薄着で自然が作り上げた期間限定の景色を鑑賞するのだ。それがまた、自分にいらぬ気を遣ってのことなだけに、三蔵の苛立ちは募ってしまうのだった。
 見かけによらず、きついことを言ったり人を見捨てることもあるが、基本的には身内にはとても甘く優しい八戒。そんな彼に常々願うことは、もう少し自分のことを考えてもらいたいということ。特に今回のようなときはその願いが強くなる。そんなとき三蔵がどんな気持ちになるかまでは、きっと彼は考えていないだろう。
 いつになく早いスピードで着替えをすませた三蔵は、忘れず八戒の上着をひっ掴むと、彼を追うべくツカツカと宿屋を出た。
 昨晩降っていた雪は、たったの一晩で真っ白く綺麗な銀世界へと変貌させていた。それでいて、雪がしきりに降っていたとは思えないほどの青空で、そこから姿を現している太陽は日の光りを地上に降り注ぎ、白い雪をよりキラキラと輝かせていた。
 音も泣き声も一切しない、とても静かな朝。
 大きなボタン雪だったから、すぐには止むはずがないことくらい予想してはいたが、まさかこんなに積もるとは想像もしなかった。ところがそのおかげで、八戒のと思われる足跡を簡単に見つけることができ、新しい雪を踏みしめサクサクという音を発てながら、彼の姿を探して歩く。
 きっと彼は三蔵が探しているとは思いも寄らないだろう。歩きながらこの雪化粧を楽しんでいるはずだった。しかし三蔵はそれどころではない。刻一刻と足が冷たくなっていく中で、少しでも早く八戒を見つめるために、景色を楽しむことはなく、ただ歩調を早めていくばかりだった。
 彼の足跡は公園を横切り、奥にある林へと伸びている。先は真っ白で、雪が積もり、あまり段ささえも見られないほどの雪の繋がり。歩き慣れない雪だからだろうか、近いはずのそこへと結構な時間をかけて歩いた三蔵の瞳に、やっと鮮明な色が浮き上がった。
「何してやがる」
 しゃがみ込んでいる八戒のその横顔に向けられた声が、少々荒くなってしまったのは仕方がないだろう。ところがそんな声などもう慣れてしまったのか、それとも気にも止めないのか、ゆっくりとこちらを向いた八戒は、三蔵が手に上着を持ってきているのを目に留めながらもさらりと言葉を綴った。
「別に持ってきてほしいだなんて、僕は頼んでませんけど?三蔵?」
「お前…」
「冗談ですよ」
 今回のように、にっこりと微笑んでくる彼の顔が子悪魔に見えるのは、きっと自分だけではないはずだと、このとき三蔵は強く思った。
「春の訪れです」
 そうして元に戻した八戒の視線を辿ってみると。
 木で遮られ、あまり雪が積もっていない部分。そこにはとてもとても小さくはあったものの、冷たそうにな土からちょこんと顔を出した芽があった。
「まだ温かくもないのに、すでに春の準備を始めているんですね」
 身を凍らせる風が吹き、白く綺麗で儚い印象とは対照的の、驚異的な力を発揮させる雪が降る、冬という季節。これを越えるのは簡単なようでいて、実際はとても難しい。気を抜けば病気や寒さで死人が出るほどだが、そんな冬さえ越えてしまえば、何もかもが暖まる穏やかな春がやってくるのだ。
 寒々しい枝には可愛らしい芽が。冬眠していた動物は活動を再開する。冬を越えることのできたことを祝ってくれるように花も綺麗に咲き乱れ、鳥たちも美しい歌声を披露してくれるのだ。
「……待ち遠しいですね」
 雪景色を見るのには、また一年待たなくてはならないのはとても残念だが、春が訪れるということは嬉しいことでもあるし、心を温かくしてくれるのはたしかだった。
「別に春がこようがきまいが、俺は何とも思わんがな」
「そうですか?」
「ああ。まして春がきたなら…」
 三蔵はさらに一歩を踏み出して八戒に近付くと、後ろから座り込んでいる八戒へと自分の上着で包み込んだ。
 温かい三蔵の体温。
 三蔵の香りに包まれたこの感じ。
 それは二人だけの夜の時間にも似ていて、安心できるような、身体を熱くさせられるような、そんな感じだった。
「こんなこともできねえだろーが」
「……これじゃあ、悟浄ですよ、三蔵」
「あんなエロと一緒にすんじゃねえ」
「だって…ねえ……」
 それでも八戒の顔はとても嬉しげで。小さな反論はしてみたものの、それでも、こんな珍しいことをしてくれるならどうでもいいか、などとも考えてしまうのだった。
 もうすぐやってくる春。
 春がきて、もし三蔵が同じことをもう一度やってくれたのなら。
 薄着になってはずだろうそのときは、今以上に三蔵を感じることができるのだ。
 春がきて幸せなのは、新しい芽を出す植物だけではない。
 綺麗な花を咲かせる花だけでもない。
 冬眠から覚めた動物だけでもなく、蜜を求めて飛びまわるミツバチ達だけでもない。
 こうして自分もまた、幸せなのだ。
 実際三蔵がまた同じように抱きしめてくれるかどうかはわからない。むしろ照れやな彼のこと、やってくれないことの方が確率的には高いだろう。
 三蔵のコートに包まれながら、彼に抱きしめられ、彼の体温と優しさを感じる中、でももしかしたらとそう思うと、やはり春がくるのが待ち遠しくなる八戒だった。






END