SAIYUKI
NOVELS 36
離獣が求める最期 7  2000.10.27
SANZO×HAKKAI
 大きなベッドに横になっているのは八戒だった。
 薬が効いて寝息さえ聞こえないほどとても静かだが、顔は穏やかにも見えるが頼りなげにも見え、青ざめた色をしている。いや、青白く見えるのはもしかしたら彼のそのあまりにも白い肌のためなのかもしれない。
 それとは対照的なのは唇の赤い色だった。苦痛を漏らさないためだろうか、唇を強く噛んでいたのだろう。うっすらと血をにじませてしまっている。
 そんな彼を、また様子が少しでも変化したら早く何だかの処置ができるようにと、紅孩児と独角そして八百鼡が見つめる。
「八百鼡。こいつは食事をしてなかったんじゃないのか?」
「ええ。……もう、無理なのでしょうか」
 食事をしなくても栄養分を取ろうと気集うを始めた種。思ったより早い進行具合だ。
 薬は部下に探させている最中だが現状では今だに見つかる気配がなく、予想外にも種の成長が早くてこのままでは手遅れになってしまうかもしれないとの危惧が脳裏を横切る。
 それは三人にとって心が痛むものだった。
 絶対に助けるつもりで彼を手中に収めたのだ。このことだって発案者は彼ら3人である。どうしても薬を見つけ元の元気な体で仲間たちのところへ戻ってもらいたいのが、3人の願いである。
 それなのに…。
 このままでは確実に死に至るだろう。
 敵なのに暖かい手を差し伸べてくる彼。彼が味方だたのならどんなに良かっただろうと、何度も強く思うほど好印象の彼。
 何を思っているのか、八百鼡は八戒を凝視したまま小さく淋しそうに呟いた。
 すると突然立ちあがる。
「これ以上、時を無駄にできません。私、薬を調合してみます」
 紅孩児と独角が何も言葉も返せぬまま、そして彼女も返事を期待していなかったのか、一人勢い良く部屋を出て行った。
「じゃ、俺はちょっくら探しに行ってみるか」
 ゆっくりと立ちあがると独角も席を立つ。
 悟浄のあの瞳は今回のことに関して何か掴んだかもしれない。
 そう直感しただけに、八戒のためにも悟浄のためにも仲間の元に返してあげたかった。
 仲間に見取られぬままひっそりとここで朽ち果てずまた敵として戦うためにも、必ず死なせないと心に決めるのだった。
 2人が出て行った部屋はひっそりと静まり返っている。
 いつもなら聞こえない時計の秒針の音を耳が拾ってしまうほどのこの静寂は、まるで彼を死の淵へと誘っているようでもあった。
 本当にこのままでいいのか?
 これでいいのだろうか。
 彼の意思を尊重してここまできてしまったが、本当にそれでよかったのか?
 あのときの三人の姿が思い浮かぶ。
 悟浄の厳しい口調と視線。
 三蔵の終始無言のさまと鋭い眼光。
 悟空の必死に八戒を求める姿。
 それが脳裏に強烈に焼きつけられてどうしても忘れられない。
 本当に彼らに真実を言わなくていいのか。
 …今なら間に合うのではないだろうか。





「嘘だ」
 彼には似つかわしくない、頼りなげなその声。
 必死に伸ばされる手。
 あまりにも可哀相でその手を掴もうと伸ばした自分の手が、ペンキで塗られたように真っ白な色をした細い枝だったことに、そのとき初めて気がついた。
 指だったそれは先につれてだんだん細く長く伸び、手首はまだ心持ち腕の名残りが残っている。
 はっとして八戒は自分の体を見まわしてみた。
 2本だったその足は膝から下がすでに太い1本の幹になっていて、地面にしっかりと根をはらして自分の居場所を確立しており、体を動かしてもてこでも動かすことができない。動かせるのはまだ木へと変化していない上半身のみで、それを立証させるように八戒は後ろを向いてみた。
 そこには三蔵と悟浄がこちらを向いて立っていた。
 自分を見つめる4つの瞳には、信じられないものを見たような驚愕とおぞましいものを見たような嫌悪が混ざり合っていた。
 表情は今まで自分には一度も見せたことがないほど堅く、自分と彼らとの間には目に見えないが確実に厚くて高い壁が存在していた。
「あ……ああ…」
 彼らに自分のこの醜い姿を見られたくなくて、八戒はまだ動く細い腕で自分の体を必死に隠す。
 それが無駄な抵抗だとわかっていても、そうせざるをえなかった。
 一番見られたくない人たちだったから。
 なのに八戒の意志とは裏腹に、無常にも体の変化は急速に進んでいく。
 膝から足の付け根へ。
 手首から肘へ。
 色は肌の色と変わりはないが、曲げようと思っても堅くて曲げられず、動かそうにも自分の意思では動かせない。ただ大自然に自分の身を任せるまま。
 布が風に揺られる音が聞こえたかと思うと、後ろにいた悟空が空を飛んで三蔵たちの元へと見事に着地した。そして八戒を凝視する。
 先ほどまで悟空の顔に浮かんでいた悲痛の表情は今ではすっかり消えており、彼にもこんな顔ができるのかと思えるほど、冷淡とも言える無表情が締めていた。
「見ないでください」
 八戒は声に出してそう必死に叫びたかった。
 叫んだつもりだった。
 しかしそれは言葉になっておらず、ただ頭の中に響くだけ。
 カチャリ。
 三蔵が無言で安全装置を解除して銃口を向ける。
 元は西を目指し喜怒哀楽を共にした仲間だった八戒に、何の戸惑いもなくきっちりと標準を定めている。
 まだ自分が未来のことを知らず、暢気に彼の傍にいたころ。
 朝は三蔵の軽い口付けで目を覚ます。
 天気のいい日は、伸ばした足に三蔵の重みを感じたり、彼の肩に寄りかかったりして、木陰でのんびりと読書を楽しむ。
 夕方が肌寒いころなどは彼の上着を借りて、暖かさと彼の薫りとの両方を味わって。
 夜は三蔵の腕の中、お互いがお互いを温めるようにして眠りにつく。
 そんな甘い時間を過ごした恋人との思い出を否定するように、彼は見事に切り捨てて自分を見つめている。
 そして判決を下すように三蔵は口の端に笑いを乗せると、ゆっくりとレバーを引いて行った。
 ……ガゥン…。
「…はっ!」
 八戒は一瞬にして眠りから目を覚ました。
 夢?本当に夢だろうか。
 それはあまりにもリアルすぎた。
 実際、こんなにも心臓が痛んでいるではないか。
 額に浮かんだ嫌な汗を右手で拭いながら、そのまま瞳を隠すように腕を乗せて瞳を閉じた。
 まだ耳にこだまする銃声。
 まだはっきりと浮かぶ彼らの冷たい視線。
 だんだんと堅い木へと変化していく体の異変。
 どれもこれもが生々しい。
 これは本当に夢?夢は夢でも正夢だろうか。
 つきん。
 これくらいならすでに慣れた痛みだったが、無意識に胃のあたりに手を当てる。
「痛いのか?」
「えっ」
 声をした方を見て、やっと紅孩児が近くにいたことに気付いた。
 タンスに背を預け腕を組んでこちらを見つめている敵の彼は、今では本当に敵なのか見方なのか八戒にももうすでにわからなくなってきているほど、彼はその仲間は自分に優しくしてくれている。
「いえ、大丈夫です」
 そう大丈夫。これくらいの痛みならなんともない。
 彼らにあの瞳を向けられることに比べれば、これくらい全然平気。
「…覚えているか?」
「ええ」
 意識を手放す前の、あのときの彼ら。
 いまだ自分を求めてくれる悟空。
 何も言ってもらえなかったことに対して怒っているふうの悟浄。
 敵の1人としか見ていないようなまったく感情のない瞳をした三蔵。
「あまり考えこむな。負の感情はストレスをたまらせ体を弱らせる。それは種にとってお前を支配する絶好のチャンスになるんだからな」
 考えこむなといわれても、いつのまにか考えていまうのだから、仕方がない。
 シャワーを浴びているとき。お茶を飲んでいるとき。庭をひっそりと見ているとき。
 気付けば色々と考えてしまっている。
 脳裏に今までの様々な場面がまるで映画のように鮮明に流れ込んできて、あのときどうすればよかったのか、どう声をかければよかったのかなどと、もう終ったことをとやかく言ってもどうしようもないのに、未練がましく考えているのだ。それに気付いて慌てて思考を別のものへと向けてみるが、少しすればまた戻ってしまっている。
「ええ…」
 無理な相談だと思いつつ、彼も自分のために言ってくれているのだからと、口先だけの返事をする。
「薬だが。残念ながらいまだ見つかっていない。独自に独角も探しに出かけたが、八百鼡が調合を試みている」
「八百鼡さんが…」
「だから…」
 今まで淡々と話していた紅孩児だったが、突然何かを見つけたのか瞳を見開くと、話しを中断してツカツカと八戒の傍へと近寄ってくる。
 なにごとかとただ見つめるしかない八戒の顎に手をかけると、くいっと心持ち持ち上げて顔を近づけ、瞳をじっと見つめる。
 まるで何かを探るように。探すように。
「…お前、左右目の色が違うのか?」
「えっ、違いますか?とても精巧に作ってくれたので、そうわからないと思ったんですが」
「義眼なのか?」
「ええ」
「………」
 確かにほんの少しの色の違いだった。だから紅孩児ももしかしたらと思って、近付いてじっくりと確かめたのだ。しかし今までだって何度か彼の瞳を覗き込んだことはあった。なのに気付かなかったというのはどういうことだろうか。
 …まさかな。
 違うと思いたいし、まだまだそこまでは達していないはずだ。そう、ふと浮かんだ可能性を否定してみるものの、嫌な予感を拭うことはできなかった。
 紅孩児は洗面台に行って手鏡を持ってくると八戒へと差し出した。
「見てみろ」
 素直に受け取って自分の瞳を移してみる。
 確かに左右少しだけ色が違うようだ。あまりじっくりと見たことはないが、最初この義眼を見たときはあまりにもオリジナルとの区別がなくて、感心したことを記憶している。
 それとも太陽の見すぎかなにかで、瞳の色が変わるということがあるのだろうか。
「どうだ?」
「そうですね…確かに色が少し違うようですね」
「どんな感じにだ?」
「んー…以前より瞳の色が薄くなったような気がします」
「!!」
 八戒が鏡を凝視して瞳をまだ観察しているのもかまわずに、紅孩児は断りもなく彼が着ている上着のボタンを外しにかかった。
「ちょっ、何するんですかっ」
 そんな八戒の抗議もなんのその紅孩児は手を休めることなく性急に動かし、最後には面倒だといわんばかりに強引に前を左右に開いた。
 あまりにも力強いそれに我慢の限界がきたボタンが、大きな音を立ててどこかへと飛んで行く。
 さらけ出された八戒の上半身。
 ここ最近では飲み物しか摂取しないために、体の肉付きが少し衰えたような印象を受ける。
 しかしそれよりも気になるのはあまりにも白い肌である。それはこういうのが「透き通る」ということだと実感させられるほどのものだった。
「………」
「あの…もういいですか?」
「あ、ああ。すまん」
 八戒がはだけた上着のボタンをとめ、最後の1つがどこに飛んでしまったのかをキョロキョロと探る視線を辺りに向けているのを何気なく見つめながら、紅孩児はとある噂を思い出していた。
 そういえば肌は木に。瞳は葉に。それぞれ変化する準備のため、だんだんと色が変わっていくといっていなかったか。そのようなことを昔耳にしたことがあるような気がしてきた紅孩児は、予想より遥かに種の進行が進んでいる現実を着きつけれるのと同時に、自分たち考えが甘かったことを痛感した。
「どうしたんですか?」
「あ、いや…」
 このままではいけない。薬を暢気に待っている時間などない。
 早くどうにかして手を打たなければ、とんでもないことが怒るような気がしてならない。
「外は暗い。もうこのまま休んだ方がいい」
「はい…」
 紅孩児はベッドに八戒が潜り込んだのを確認すると、電気を消してやり静かに部屋を出て行ったその足は八百鼡のところへと向かっていた。
 残された八戒は眠りにつこうと試みたものの、何度か寝返りを打ったのち諦めが込められた溜め息を吐くと、ベッドから抜け出して脱衣所へと向かった。
 先ほど見たあの悪夢。あのときにかいた嫌な汗が自分の体にまとわりつき、どうしてもそれがかんに触って眠れないのである。紅孩児が言った通り八戒もすぐ眠るつもりでいたのだが、こんな調子ではいつまで経っても眠ることができないだろう。だからさっとシャワーでも浴びて、少しでもこの不快感を取り除ければいいと思っていた。
 ついさきほどわざわざとめたボタンをもう一度上から外して行く。
 一番下は短い糸だけが顔を出しており、いかにもボタンがあったことを知らせている。
 明日、絶対に見つけなくては。
 そう強く心に決めて上着を脱いで丁寧にたたむと、そっと棚の上に置こうとして振り向いた八戒は、目的を果たすことなくその場で固まってしまった。
 視線の先には大きな1枚の鏡。
 そこには幽霊かと思えるほど怖いくらい白い人物が、緑の瞳を見開いていてこちらを見ていた。
 自分はここまで白い肌をしていただろうか。いつの間に…。
 ああ、なるほど。
 八戒はやっとすべてを理解した。
 紅孩児が話していた瞳のこと。突然上着を逃した理由。驚倒していた彼。
 それですべてが納得が行った。
 ぱさりと軽い音が足元でした。ゆっくりと視線をそちらに向けると、そこにはせっかくたたんだ上着が、くずれて頼りなく落ちていた。少し視線をずらせば自分の2本の足がある。
 これは太い幹になるんだ。
 だるそうに両手を上げ、不健康そうに白くなってしまったそれを凝視する。
 この指は枝となるんだ。
 夢は正夢。悪夢などではなく…。
 確実に自分は変身していっているんだ。
 どうあがいても、それは無駄なことなのだ。
 呆然としたまま、小さな窓から望む月を見つめた。
 真っ暗な中で浮かぶ、まるいまるい月。外を明るく照らすほどの存在感のある月。
 赤や白と様々な顔を持っているが、今日は黄色くとても輝いていていた。そのさまは、まるで今は遠い存在になってしまったあの人を連想させた。
 輝いている綺麗な姿。本人にはその気がなくとも、どうしても目立つその姿。
(…三蔵)
 優しかった指。優しかった唇。優しかった瞳…。
 思い出していた彼の姿が、先ほどの夢の彼と一緒になる。
 冷たい眼差し。いらないものを排除する、残酷な瞳。
 そしてやっと八戒は自分の本心に気付いた。
 誰だって人間が木へと姿を変えていくところなど見たくない。気持ち悪いに決まっている。それならば見せる前に姿を隠してしまおうと。そして種をなくし、また今まで通り何気なく、彼らと合流しようと。そう思っていたのだ。
 美しい体裁で言葉を並べ、それがあたかも真実のように言っていた理由。
 彼らに迷惑をかけたくない。
 彼らに醜い姿を見せたくない。
 何が迷惑をかけたくないだ。何が醜い姿を見せたくないだ。
 結局のところ、彼らに疎ましく思われるような瞳を向けられるのが嫌だっただけではないか。
 そんな自己中心的な考え方で、すべての関係ない人たちをまき込んでしまった。
 三蔵には嫌な思いをさせ。
 悟浄には心配をかけさせ。
 悟空には悲しい思いをさせてしまった。
 紅孩児には悪役になってもらって、
 八百鼡や独角には共犯者になってもらって、人のいい彼らを利用してしまった。
 乾いた笑いが口からこぼれた。
 八戒は両手で自分の顔を覆った。
 何からか隠すように、しっかりと手で覆う。
 …もう疲れた。
 嘘をつくのも。痛みに耐えるのも。
 すっと頬を涙が伝う。
 もう戻ることのできない日々。
 敵に追われていても。たとえ危険に溢れていても。
 昼は皆で笑い語り合い、夜は三蔵とお互いを確かめ合う。
 それがいかに幸せに満ちていたかが今ならわかる。
(………三蔵…)
 もう生き延びなくてもいい。薬だって手に入らなくていい。
 どうせもうすぐこの体ものっとられるのだから。
 以前、自分の死期を悟ることができると耳にしたことがあるが、それが嘘ではないことを実感していた。
 あと少ない時間でいったいどんな恩を三蔵に返せるだろうか。
 それは自己満足にしかすぎないが、それでもそれだけは遣り残したくなかったから。
 彼には素敵な思い出を貰ったから。
 それを胸に抱いていけば、自分は幸せな気持ちでこの世を去ることができるだろう。
「…三蔵」
 以前何度も声にした名前。
 忘れようにも忘れられるはずがない名前。
 こんなにも大切な名前なのに、もうあまり口にすることがなくなってしまった名前。
 それをもう一度。
「三蔵」
 できることならあなたの暖かい腕の中で、ゆっくりと眠りに着きたかった。
「三蔵…」
 自分で自分を抱きしめる。
 しかしそれが彼の腕の変わりになるはずもなく。
 ひっそりと涙を流し、彼の人を想うのだった。
「三蔵。…さん、ぞうっ…」
 涙は後から押し出されるようにして、一粒ずつではあるが頬を伝っていく。
 それに濡れた寂しげな彼の声が三蔵に届くはずがないのに、それでも壊れたように八戒は何度も何度も呼ひ続ける。
 それが何かの呪文のように。
 しかし八戒自身、もしかしたら名前を呼びつづけていることを気付いていないのかもしれなかった。
「さん…ぞう…」
「三蔵っ!!」
 はっとして振り返る。
 一瞬、八戒の声がしたような気がしたが、目の前にいるのは憮然とした表情をした悟浄だった。
 ちょうど八戒のことを考えていたために、幻聴が聞こえたのかもしれない。
「………」
「すっごく嫌そーにしてンのは、気のせいですかね」
「安心しろ。気のせいじゃねー」
「あっそ」
 悟浄の返事を待たずして、三蔵は体の体勢を元に戻すと月を見つめた。
 よくこうやって八戒も月を飽きずに眺めていたものだ。
「ところで。話しがあんだけど」
 俺はないと言いたげに、悟浄を無視する三蔵だったが、彼はやめるつもりがないようで、強引に話しを進めて行く。
「つーわけで、悟空。お前先に部屋戻ってろ」
「えーっ、何でだよっ」
「ガキにはわかんねー大人の話しってもんがあるんだよ」
「彼、ガキじゃねーもん」
「へえー、お前がねえ。ほおー」
 あからさまに馬鹿にしたその口調と視線に耐えきれなくなった悟空は、ちぇっと寂しそうにすごすごと部屋を出て行った。
「さて」
 一変した悟浄の鋭い声。
「八戒と何があった?お前、八戒が紅孩児のところにいるの、知ってたんだろ?」
「別に」
「ごまかすなっ!何かあったのはわかってんだよ。じゃなきゃ、八戒があんな行動をとるわけねーだろっ」
 三蔵はまだ月を眺めたままだった。その背からではさすがに三蔵の気持ちなどうかがえるはずがない。
「………」
 緊迫した空気が部屋に充満する。
 それは息を苦しくさせるもので。
 悟浄の鋭い視線が背中を刺して、自分を促している。彼がこの話しから引く気がないことも、ましてやごまかせる相手ではないこともわかっている。それでも口が重いのは、自分にもやましいことがあるからだろう。
 ふう。
 三蔵は大きく息を吐くと、懐からマルポロを取り出して1本口に加える。
 ゆっくりと煙をすって肺に充満させると、同様にゆっくりと吐きだす。まるで自分の頭を整理させるように。
 そしてポツリポツリとはなし始めた。
 紅孩児とのキスシーン。彼からの誘いとはいえ、強引にした情事。
 八戒を思い浮かべ、そのときそのときの状況を思い出しながら話す。
 目を閉じて抵抗せずに受けるキス。文句も言わずただ目を瞑って自分を受けとめていた八戒。
 悟浄は三蔵の告白をだまったまま聞いている。
 ききたいことはやまほどあるだろうに。
 そのせいもあるが、時間が解決してくれたのかもしれない。多少まだわだかまりがあるが、あのときほどの哀愁や憎悪、強行はなかった。
「…そんで?今はどう思ってんだよ」
 話し終えるのを待っていたように言葉を発した悟浄は、三蔵の予想とは反してとても穏やかなものだった。
「本当はわかってんだろ。何かがおかしいって気付いてんだろ。それとも知るのが怖いのか?」
「貴様……」
「臆病になっちまったんだな、三蔵サマはよ」
 カチャ。
 鋭い眼光。怒りを乗せたまま、三蔵は悟浄を射る。
「それ以上口にするなら殺す」
「…俺はなあ…」
 三蔵が向ける銃口に臆さず、いまだ不自然なくらい穏やかに話す悟浄。だが。
 瞳を閉じゆっくりと開けたときには、三蔵に負けじ劣らじなほどの憤怒が悟浄の瞳を支配していた。
「怒ってんだよっ!」
 突然襲いかかってきたのは悟浄だった。
 今の激情をそのままに、力の加減などせずに三蔵に拳を振る。
 ガタンっと激しい音が響き渡った。
 持っていた銃は手から離れ、テーブルが動き椅子が倒れ、乗っていたカップが無残にも床に叩き付けられて粉々になる。
 口内が切れたのだろう。三蔵の口の端からは赤い血が滴っていたが、それをどちらとも気にはしない。
「そんなに言ってほしいのか?なら言ってやるよ。八戒が、ンなことするわけねーだろ。あいつは器用な恋愛なんかできねーし、恋愛に対して臆病になってる。だからお前がいるのに、他の奴を見れるわけねーんだよ!」
「………」
「どーしたんだよっ」
 音を聞きつけた悟空が、心配になって様子を見にやってきた。
 馬が合わないようで実のところ結構気があっていると思われる三蔵と悟浄は、よく口喧嘩はするものの真面目なものはなかった。ましてや殴り合いなど、知り合って今まで、最初の1回しかお目にかかったことがないほどだ。それなのにもかかわらず、聞こえてきたのは人が激しく物にぶつかる音。悟空じゃなくとも気になるのは当然である。
「…嫌な役回り、させんじゃねーよ…」
 状況を説明されず悟空が理解できないまま、悟浄の小さな呟きでそれはお開きとなった。
 三蔵にもう一度、頭を冷やさせるために、悟浄は悟空の腕を掴んで部屋へと戻っていく。
「…本当にどうしたんだよ」
「いや。三蔵の馬鹿さ加減に呆れただけさ」
 その残された三蔵はと言えば、起き上がった体制のまま月を眺めていた。
 考えることは八戒。
「器用な恋愛ができねぇ、か…」
 右手で流れた血を乱暴に拭う。
 視線を手についた自分の血へと向ける。
 ぎゅっと拳を強く握り締めた。
「確かにな」
 瞳を月へと戻す。
 輝ける月光は暖かく、三蔵を包み込むように降り注ぐ。
 それはまるで八戒の腕のようだと思った。
 何が起ころうとも彼は自分に腕を広げてくれた。
 さまざまな感情が彼の中に存在していても必ず腕は暖かく、そっと優しく包んでくれる。
 そんな彼の腕に似た暖かい光りだと思っているのに、しかしなぜか今思い浮かぶのは、月を眺める寂しげな八戒の姿だった。






続く