SAIYUKI
NOVELS 58
Queen of the Night 2001.10.18
SANZO×HAKKAI
 半間ずつの真っ白いカーテンを勢いよく左右それぞれに寄せてみれば、この瞬間を待ち望んでいたように、シャッと擦れた音とともに、眩しいほどのこれまた白い陽の光が一斉に入り込んできた。
 八戒はあまりの眩しさに瞳を細めたものの、それはほんの一瞬で、すぐに視線を空へと向けた。
 昨夜まで降っていた雨はすっかりやみ、空は嬉しそうに青く澄み渡っている。その海を泳いでいる雲は、以前教えていた子供が同じような光景を見て「綿菓子のようだ」と表現したのをふと思い出したほど白く、そしてふわふわとしていた。
「んー」
 窓を全開にして空気の入れ替えをする。その空気を浴びながら、一つ大きく伸びをした。
 あまりにも目覚めのよい朝だった。こんなにも目覚めがいいのは久しぶりで、ふと何気なしに時計を見てとても驚いてしまった。
 いつもより30分も遅いではないか。
 八戒は慌ててすぐに身支度をし始めた。
 ぱさぱさと衣音がする中で、ぱたぱたと室内を慌しく歩く音も重ねてしていく。珍しい主人のその慌てぶりに、ジープはベッドの上で横になったまま首を少しもたげた状態で様子を伺っている。
 ぴょこんと頭を出し、小さな耳をときおりピクリと震わせて、これまた小さな瞳をじっと向けてくる、そんな小さくて可愛らしい姿なれど、彼はとてもこの旅にとって重要な役割を占めている存在だし、毎日一番の功労者でもあるのだ。そんな彼に今日も一日頑張って欲しいという願いを込めて、小さな頭をそっとなでて朝の挨拶をする。
「おはようございます、ジープ」
「ぴ〜」
 気持ち良さそうに瞳を細め、黙って甘えているジープ。自分から離れて行く八戒の手を名残惜しげに見つめ、そのまま視線は小さくあくびをしている八戒へと向けていた。
 たくさん睡眠が取れたわけではなかった。いつも気にしないようにはしているのだが、やはりいくら時間が経過しようと1人で過ごすには雨の日はとても難しいようだ。おかげで昨夜はいくら経っても雨の音が耳に付いて離れず、寝につけたのが遅かったのである。だから今日は寝坊をしたとはいっても、それでもいつもよりは少し睡眠が少ない方だった。
 それなのにこんなに目覚めがいいのはどうしてなのだろうか。
 何かいい夢でも見たのかもしれないと、八戒は今朝方見た夢の内容を思い出すよう試みたものの、夢を見なかったのかもしれないと思えるほどに、小さなかけらすら思い出すことができなかった。
 もしかしたら子供がよくやる高揚からなのかもしれない。遠足前夜、明日がとても楽しみで、遠足のことを考えてはわくわくして眠れない、というようなことである。それでも昨晩は、高揚という子供みたいなことはとくになかったと思う。しかし子供というものはこのようなとき、普段ならいつまでたっても起きてこないくせに、夜には寝坊しないようにちゃんと目覚し時計をセットして、自分から時間通りに起きてくるものである。寝起きに見せるぼーっと寝ぼけた様子もなく、それはもう目は冴えまくっている状態で。そんな子供の朝に似ているような気がしているのだ。
 まったくこんな年になって童心に返るとは…。
 八戒は小さく笑った。そういえば悟浄もそんなことがあったこと思い出したからだ。彼もまだまだ子供心を忘れていないようである。
 実のところ今日という日がくることを、八戒は何とも思ってはいなかった。これから過ぎて行く年月をあえて数えて何になる、と思っているからである。とにかく今を生き、死ぬときは死ぬ。ただそれだけなのだから。
 だが、そんなどうでもいい日と思っていた気持ちを変えたのは、昨日の悟空の言葉だった。
「明日は八戒の誕生日だなっ。プレゼント、期待しててな」
 何がそんなに嬉しいのか、悟空はニコニコと笑っている。
「ああ、そうでしたねえ…」
「『そうでしたねえ』って。お前、他人事のように…」
 悟浄は少々肩を落したように、頭をテーブルの上に肘をついている右手にかっくりと乗せた。
 呆れたように言うそんな彼のセリフからは、八戒の誕生日をちゃんと覚えていたことを伺い知れた。彼はみかけによらず律儀なので、同居していたときも八戒の誕生日だけは必ず外泊せずに戻ってきて、祝ってくれていたのである。
「うーん…。実際、どうでもよかったんで…」
 人の誕生日は盛大に祝うくせに、いつも彼は自分のこととなると話は別になるのだ。
「何でっ!俺はどうでもよくないっ!!」
「…有難うございます」
 あまりにも力説して言う悟空に、八戒は少々押され気味である。その、どうもまだ「他人」というようによそよそしく見せる一面がある彼の態度に、悟空はさらに力を入れて訴えた。
「うしっ。絶対に張り切ってやるっ!」
 そのときの彼の言葉と様子がとても気になっていて、あれほどどうでもよかった自分の誕生日が、今ではうそのように楽しみになっているのである。あれだけ張り切ってくれていた悟空が、今日は自分のためにどのようなプレゼントを用意してくれるのか、それが楽しみなのだ。だからこそ、子供の遠足のときと同じなのではないかと思っていたのである。
 八戒は考えごとをしていたおかげで思いのほか支度に手間取っていることを、時計の針が示す時間で知ることができた。
 悟浄はどうかわからないが、すでに三蔵と悟空は起きて待っていることだろう。
 寝坊してしまったことで先行き不安の一日ではあるが、今日は自分の誕生日。どんな一日になるかと少々期待をしながら、皆が待っているであろう下階へと降りて行くと、予想通り三蔵と悟空はすでにテーブルに座って待機をしていた。
「八戒、はよっ!」
 八戒が朝の挨拶をするよりも先に、めざとく見つけた悟空が挨拶をしてくる。元気一杯のいつもの声で挨拶をしてくれる悟空は、いつも八戒に元気をくれるのだ。
「おはようございます、悟空。すみません、寝坊しちゃって…」
「ううん。そんなことよりさ、八戒。誕生日おめでとっ!」
「有難うございます」
 にっこりと微笑む八戒に、いつしか悟空も笑みを浮かべる。
「悟浄がきたらご飯にしましょうね」
「うんっ!」
 まちにまった朝ご飯。それまではいつもの彼だったのだが、どこか元気がないように見えるのは八戒の気のせいだろうか。
「……?」
 あんなにいつも元気に溢れていて、何があってもあまり弱気になどならない彼が、いったいどうしたことだろか。たしか昨日までは元気だったはずなのだが…。
「どした、八戒?」
「悟浄…」
「おはよーさん」
 彼が昨夜、街から戻ってきたのは夜中だったようだ。それなのに、遅めとは言え自分でちゃんと起きてきたのは、たぶん一日のリズムを崩されたくない三蔵に袋叩きに合わないためだろう。元に彼の目は少ししょぽくれていて、とても眠たそうである。
「おはようございます。いえ、気のせいならいいんですが、なんだか悟空、元気なさそうな気しません?」
「んあ?」
 たしかに言われてみれば、そんなような気はするが…。
 悟浄は八戒と同様、悟空の様子を伺ってみる。だが、込み上げてくるあくびを殺し、生理的に出てきた涙を人差し指で拭いながら、彼は八戒の不安を全面否定した。
「どうせ腹でも壊したんじゃねえの?腹出して寝たりしてさ。気にするこったねえよ。ほらほら、メシにしようぜ」
 悟浄がだしたその仮定は、とてもありえそうで。だからこそ、彼の否定があまり納得のいかないものだといえども、あまりにも彼があっさりとしているものだから、もう少し様子を見てもいいだろうと考え始めていた。
「ずいぶんゆっくりのお出ましだな」
 乾いた音を立てて読んでいた新聞を丁寧に畳み、眼鏡を外しながら視線を悟浄だけにきっちりと向けて言い放つ三蔵だが、そんな冷たい言葉も視線も今回ばかりは悟浄は何とも恐くない。なにせ八戒も同じ時間に起きていたのだから。
「今日は八戒もだぜ」
 そのことを強調するように、八戒の肩を組んでぐいっと1歩前へと出させるが、それこそが三蔵にとってはお構いなしなのである。
「だからどうした。八戒はジープを運転しているが、貴様の場合はただの夜遊びだろうが。寝坊の理由がまったく違うんだよ」
「ただの、とは聞き捨てならねえな。生理現象なんだから仕方ねえだろっ」
「正当化すんじゃねえ」
 顔を合わせてからの早々の口喧嘩は、早くもハリセンが飛んでいた。
 1人で先に10品近く注文した悟空は今回三蔵の標的にはなっていないので、まだ注文するつもりなのかじっとメニューを見つめている余裕すらあるようだ。
「なんだよ。テメエは八戒がいるからそんなことが言…」
「悟浄。それ以上口にすると、僕も黙ってはいませんからね」
 にっこりと悟浄の言葉を遮るように言った八戒は、笑顔とはうらはらに、少々言葉の節々には刺々しいものが感じられた。
 悟浄は顔色を音がしそうなほどにさーっと青ざめさせ、悟空はあれほど視線をメニューから動かさなかったのにパッと八戒へと向けさせた。三蔵だけがただ1人、我関せずとばかりにもう1部のメニューへと手を伸ばしている。
「…ごめんなさい」
「わかればいいんです」
 チェッと少々すねながら悟浄は悟空の隣へと座る。ちょうどそのころ、先ほど悟空が注文したものが来始めており、テーブルの上に並べられた食事の数々を呆れた色を瞳に乗せて見つめると、色はそのままに視線は悟空へと動かして言葉を口にした。
「あんま食べっと、さすがのお前も腹の調子よけい悪くすっぞ」
「あ?何言ってんだよ、悟浄。俺、腹壊してねえよ?今までだって壊したことねえし」
「…腹じゃなかったのか」
 じゃあ、さっき八戒が元気がなさそうだと言っていたのは、別のことだったのだろうか。相手が悟空だけに考えても考えても悟浄にはわからず、結局のところは「ま、いいか」で終ってしまうのだった。
 悟浄は気持ちを一転させる。
 三蔵が使っていた灰皿を左手で寄せると、右手では咥えた煙草に火をつけて、一日の元気の源を取るべく脇から悟空が見ているメニューを覗いた。しかし何かに気付いたのか、慌てて視線を悟空へと戻してしまった。
 いつもあれほど食っておいて……腹を壊したことがない?
 テーブルには続々と食事が運ばれてくる。それをとても美味しそうに口にする彼とそのスピードを、またもや呆れたように見つめる悟浄だった。





 ちょうど太陽が薄い雲から顔を出したころだった。
「ここなんていかがでしょうか?」
 それまでうっとうしいほど木々が立ち並んでいたのだが、すぽっとそこから抜け出したようである。
 太陽の日差しが存分に注がれ、柔らかな草の絨毯の上を爽やかな風が走りぬけていく。さーっという音が耳に心地よい場所だった。
「ここでお昼にしていいですか、三蔵?そろそろ悟空のお腹も騒ぎ出すころでしょうし」
 八戒が三蔵に同意を求めたところで、その言葉に賛同するように悟空のお腹の虫が、ぎゅるるん、と派手に鳴いた。
「すげえ、八戒っ!」
「伊達に一緒に旅はしてませんよ」
 あまりにも盛大に感心してくれるものだから、八戒はついくすくすと笑ってしまう。
 そのときも悟空はいつもの彼となんら変わりはなかったが、それでも食事の支度をしていても、食事をしている最中でも、八戒は慎重に彼の様子を伺っていた。
 他愛ない会話。耳慣れた三蔵の罵倒とハリセンの音。悟空の食べるスピード。
 どれもこれもいつもと異変は感じられないのに、やはりどこか悟空の元気がなくなっているようだった。
「ふう。食った食った。おっ、どーした、サル。浮かない顔して」
「本当にどうしたんですか、悟空?今朝からですよね、元気ないの?無理は禁物ですよ」
「……あのさ、八戒っ」
「はい?」
 心配を表一面に現している八戒が、悟空をじっと見つめる。
 しばらくの間見合っていた二人だったが、悟空ががっくりと音が聞こえてきそうなほど大きく肩を落としたことで、さらに八戒は不安の色を濃くさせた。
「……悟空?」
「ごめんっ」
 肩を落し、顔は下に向けたまま、辺り中に響くほどの大きな声で悟空が謝罪する。あまりにも大きな声だったので、早々に食べ終わって木陰で身体を休めていたジープが、目をぱちくりさせて小首をもたげて悟空をじっと見つめたほどである。
「…あの…?」
「……俺、さ。あんなに言っていたのに、結局プレゼント見つけられなかったんだ…」
「ああ、なんだ。そんなことですか」
 あまりにもせっぱ詰まったような声音で謝罪するものだから、てっきり昨日買ったばかりの保存食をいつの間にかすべて食べられてしまったのかと思ってしまった。
「そんなこと、じゃねえよっ!大事なことなのっ」
「はあ…。でも僕、気にしませんし…」
 たしかに期待はしていたものの、自分の誕生日に一生懸命になってくれることだけで、とても嬉しく思っていたのが事実だった。確実に自分は悟空にとって「どうでもいい人」ではなく、プレゼントを懸命に探してくれるほどの「大切な人」という部類に入っていることが理解できたのだから。
 しかしそんな八戒の気持ちは悟空には届かなかったようで、以前として彼は落ち込んだままである。
 すっかり肩を落としてしょぼくれているその姿は、いつも元気で走りまわっている可愛い小犬が、耳を垂らしてしっぽもたらして、顔までもを下にして佇んでいる姿を連想された。それはもう、あまりにも強すぎるほど感じる悲哀に、見ているこちらまでもが移りそうなほどである。
「…なんだか、デザート食べたくないですか?」
「は?」
 あまりにも突然の話題転換に、一瞬誰もがついていくことができなかった。
 悟空は項垂れていた頭を上げて、悟浄はぽかんと少し口を空けたために咥えていた煙草を落しそうになり、三蔵はそれまで何があっても一切反応せず新聞を読んでいたのに、そこから顔をあげたほどだった。
 3人全員の視線が八戒1人に集中する。しかし疑問と困惑を盛大に含んだその複数の視線を浴びても、八戒は先ほどと少しも変ることなく同じ笑顔を保ったままだった。
「こんなにいい天気で。こんなに風も気持ち良くて。こういう日って、こういう青空の下で草の香りを嗅いで、のんびりと寛ぎながら果物でも食べるなんていう、ちょっとリッチな気分を味わいたくなりますよね」
「……ああ、まあ…確かに、な」
「と、いうわけで、悟空?」
「な、なに?」
「何か美味しそうな食べ物を取ってきてくれませんか?そうですねえ…できれば、先ほども言いましたけど果物とかがいいですね。でもそれは悟空におまかせしますから」
 向けられる笑顔は悟空だけのもの。暖かで穏やかで、見ていて安心してくるようなそれは、どこかほんの少しだけ甘えがあるように感じるのは、めったにそのように甘えることはしない彼を考えると、もしかしたら気のせいかもしれない。だが彼にとってはそんなつもりがなくとも、いつもきっと無意識だろうが、どこか一歩距離をあけて接してくるところがあるので、それを思うとその距離が一気に詰められたような気がしてとても嬉しくなってくるのだ。
 ぱあーっと悟空の顔には笑顔が広がっていく。そして極め付けに、にぱっと笑うと。
「うんっ、わかったっ!」
 先ほどのまでの落ち込みはどこへやら、元気よく森の茂みへと入っていった。
 あまり甘えを口にするとは好きではないが、今のように悟空がいつもの元気を取り戻してくれるのなら、たまにはこういう甘えもいいかもしれない。
「じゃ、俺も手伝ってくっかな」
 うんしょとばかりに悟浄は立ちあがると、そう言いながらも急ごうともせず、のんびりした歩調で悟空の後を追っていった。
 吹きぬける滑らかで優しい風が、残る三蔵と八戒を撫でていき、ほんのりと身体を暖かくしてくれる。
 八百屋には栗や梨などの果物がすでに顔をそろえ、たまに夜までもが冷ややかになってきている。目で見る分にも、そして身体で感じるにも、少しずつではあるが確実にそれらは秋へと移り変わって行っていた。あれほど生暖かかった風も、今ではたまに冷たく感じられるときもあるが、今日は外で食事をするにはもってこいの、とても快いものだった。
 そんな中、三蔵は木によりかかり、朝読み途中だった新聞を読んでいる。うるさすぎるほど元気な2人はおらず、加えて今はこの状況なので、すっかりあたりは静まり返っていた。しかしこの沈黙は、八戒にとってはとても安心できるものになっている。
 八戒はゆっくりと瞳を閉じた。
 風と、そして沈黙と。その両方を身体全体で感じたかったからだ。
 そういえばこういうときの沈黙を、三蔵はどう思っているのだろうか。
 ふと、そんなことを考えてみる。
 人の感じ方は十人十色。沈黙が嫌いでそれを避けるために鉄砲のように話しをする人もいれば、気まずい沈黙すら何とも思わない人もいる。
 三蔵なら絶対に後者に決まっているのだが、しかしそれでも自分との沈黙だけは、自分が感じているのと同様に、「何とも思わない」のではなく「安心できるもの」になってくれればいいと、もし今はそう思わなくともこの先そのように感じるようになってくれればと思う。
 そんな考えごとをしているうちに、いつしか八戒は自分の身体を重く感じていた。だんだんと思考は霞がかかり、ほんの少しだけでいいから休みたいという欲求が強くなってくる。
「…寝たらどうだ?」
 そんなときに悪魔の囁きが聞こえた気がした。
 だんだんと細まる目。だがそれを拒むように瞼を上げて瞳をしっかりと見開いてみるが、それでもまた少しずつ瞳を細めていく。
 そんな睡魔との葛藤を見ていた三蔵は、その格闘している姿を見て、なぜか居たたまれない気持ちになってきたのだ。
 それほど眠たいのなら、この場で寝てしまえばいいのに。
 何をそこまで拒むほどのものがあるのか。
 悟空と悟浄のことを思うのか。それとも日中のうたた寝というのをしたくないのか。
 理由はよくわからないが、八戒は今、一生懸命、睡魔に反発しているのだ。
 そういえば、八戒が今朝方寝坊をしてきたのを思い出した。悟浄などと違って寝坊といっても、たかだか30分ほどのことなのだが、寝坊という行為がとても珍しいのだ。先ほどまで、眠たそうな姿など露にも見せなかったが、やはり毎日の運転は彼に疲労を溜まらせているようである。
 だからこそ、それほど眠いのなら寝てしまえばいいのにと、三蔵は声をかけたのだ。
「………」
「おいっ」
 八戒はゆっくりと瞼を持ち上げると、三蔵を見すえる。しかしその瞳には生気がなかった。
「……ああ、僕ですか…」
「お前しかいねえだろうが…」
 いつもの優しげな口調とは少し違うそれ。
「もう一度…言ってくれますか?」
 これは……。三蔵は信じられないように瞳を見開いた。
 八戒が寝ぼけているからである。
 いくら密接な関係になっていても、たとえ旅を始めてから同室になることが多くても、こんな姿を見たのはもちろんこれが初めてだったりするのだ。改めて彼の疲労度がピークに達していることを認識した。
 よくよく考えてみれば、彼は毎日長時間の運転だけをしているわけではないのだ。自分たちと同じく敵と闘い、なのに連日の強行の上に野宿をすることもしばしば。そればかりか、家事全般も八戒が1人でこなしてきているのである。たとえ、昨晩ベッドという寝心地のいい場所で睡眠を取ることができたとしても、たった一夜だけで彼の疲労がまっさらになるわけではないのだ。
 朝の寝坊と、今の寝ぼけ姿。完璧に今の彼には睡眠が必要だった。
 こんなことならあの街でもう一泊すればよかたと、今さら後悔しても遅いことを三蔵は強く思ったが、それでも八戒のねぼけ姿など、後にも先にももう見れないかもしれないと思うと、八戒には申し訳ないが今回この選択をしてよかったのかもしれない、などとも思ってしまうのだった。
「横になって寝ろ」
 自分がどう思っているかなど微塵にも出さずに、三蔵は繰返す。
「いやです。この方が寝やすいからいいんです」
 ボケボケした口調は変らずに、瞳をゆっくりと閉じながら八戒は言う。
 んな訳ねえだろうと思ったもののあえて口に出さなかったのは、寝ぼけている人間に何を言っても無駄だということを、嫌というほど理解しているからだろう。
 三蔵は呆れ混じりに溜め息をつくと、視線を新聞へと戻した。しかしどこまで読んでいたか目で探り、まだ先へと進まぬままに、三蔵はもう1度八戒を見ることとなった。
「…でも…」
 眠ったと思われた八戒が言葉を綴ったからである。
 彼は再度、ゆっくりと重たそうな瞼を上げ、虚ろな瞳のままで三蔵を見つめる。
「三蔵が膝を貸してくれるのなら別ですけど…」
 それはいつもならしないような願いごと。
 一瞬、本当に寝ぼけているのだろうかと疑いたくもなったが、反対に正気じゃないからこそしてきた願いごとだと、三蔵は思い直した。
 そう。こんな願いごとなど、彼がそうやすやすとするわけがないのだから。
 同室になったときでも甘えなど口にしてこない彼。彼が甘えたいと思ったときは、そっと三蔵の身体に触れてくることくらいだ。
 背中にコツンとおでこを当ててみたり。肩にそっと頭を乗せてきたり。実態のない影にでも触れるように、優しく腕に触れてる。
 あまりにもさりげなく少々控えめにも感じられるそれらの行為は、近くには三蔵がいて、だからこそ自分1人ではないのということを確認しているようにも、そしてそのことを自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。
 だからこそ、今回のような甘えはとても嬉しかったりするのだ。
 くしくも今日は八戒の誕生日。それならこの願いくらい、かなえてやってもいいのではないだろうか。ましてや寝ぼけるほど疲労度の高い、八戒の身体を休ませることにもなるのだから。
 またもや降ろされていく瞼を押し留めるように、三蔵は八戒の名を呼んだ。
「八戒」
 身体がだるい。瞼が重い。眠たくて、眠たくて。
 もう何も考えずに早く眠りにつきたい。
 そう思考も身体も訴えているのに、それを邪魔する声が聞こえる。
 しかしその声はとてもよく耳にするもので、ましてや大好きな人の大好きなそれ。
 だからといっていい。
 八戒はその声に導かれて瞼を持ち上げると、再度三蔵を見つめた。
 三蔵は八戒の瞳を、いつもの射るような眼差しで見つめるている。
 そして。
「こい」
 その有無を言わさぬ語調。
 逆らうことのできない言霊。
 三蔵の投げ出された左足。三蔵の立てられた右足。それは先ほどとはちっとも変っていないが、しかし彼の前に堂々と居座っていた新聞だけが、今はもうなくなっている。見れば綺麗に畳まれ、脇に置かれていた。
 八戒のためだけに差し出された場所である。
 そう。先ほどの願いのために。
「………」
 八戒の顔は笑顔へと変っていく。優しさから暖かさへ、だんだんと。
 それは蕾がゆっくりと花開く、そんな瞬間によく似ていた。とこが、今回はそれだけでない。ほんのりと甘さ含まれていた。
 それは昔見た、何かを彷彿させた。
 一瞬浮かびそうになった映像は、形にならないまま消えてしまった。
 何だっただろうか。
 白く。大きく。それでいて、どこか儚く…。
 ああ、そうだ。あれは確か、以前八戒と2人で偶然見かけた、月下美人という花だった。
 大輪の花なのにも関わらず、夜にしか咲かないそれ。誰にも見つからないようにひっそりと咲くその花は、しかしそれでも存在を主張するように甘い芳香を漂わせていた。
 そう。その花に似ていると思った。
 三蔵が見つめる中、八戒はゆっくりと近付いてくると、座り込んでそっと左足の上に頭を乗せくる。
 ちょうどいい位置を探していたのか、しばらくの間小さく頭を動かしていたが、それもとある位置で止むと、彼からは安らかな寝息が聞こえてきた。
 このように触れ合って眠るのは、夜同じベッドで寝る以外は初めてのことだった。暖かな太陽の光が降り注いでいる日中の、ましてや青い空が自分たちを見下ろしている外で、こんなことをする日がこようとは考えもしなかったこと。
 右手を眼の位置に上げて太陽を遮り、空を仰いで物思いに耽っている三蔵の髪を、爽やかな風がさらっていく。ふと視線を八戒に向ければ、彼の前髪がなびいていて、いつも隠されている右目がちらりちらりと見え隠れしていた。
 三蔵はなびいている八戒の前髪に手を添えると、優しく払う。
 もう慣れてしまった自分以外の体温も、こういうときに感じるとどこか感じが違うものだと思ってしまうのは、いつもと環境が違うせいだろうか。
 暖かい…。
 八戒も同じことを感じていたのか、三蔵の手にそっと自分のそれを合わせてきた。あまりにもいいタイミングで触れてきたことに、もしかしたら起こしてしまったのかもしれないと、自分の呼吸など普段耳に入ってこないくせに、さらに音を出さないように慎重に呼吸して、八戒の様子を窺った。
 ……大丈夫のようだ。
 ふうと溜め息を吐くと同時に、三蔵は苦笑した。
 他人など、どうでもよかった。何をしているのか、何をやるのか。起きいても、寝ていても、自分に関わり合いがなければ、そんなこと本当にどうでもいいと思っていた。それなのに常に傍にいないと気がすまない、自分の同じくらい大切だと思う人が出てくるとは思いもよらなかった。安眠を妨げず、こうして自分の膝までをも貸して休ませてあげる。この男がそんな存在になろうとことも。
 彼が安心して身体を休められるのは、自分の元。
 そして自分が安心して身体を休められるのもまた、八戒の元しかもうないのだから。
 三蔵は八戒の手を優しく握り返した。
 何があってもこの手を離しはしない。絶対に。
 最愛の人の温もりに引かれるように、三蔵もゆっくりと瞳を閉じる。
 聞こえてくる八戒の寝息は、さらなる深い眠りへと誘っていく。
 空から降り注ぐ暖かな日差し。
 手とそして足から感じられる暖かな体温。
 それらすべてに包まれて、三蔵もまた夢の中へと足を踏み入れていった。





 森の住人のおかげなのか、はたまた動物の勘なのか、悟空はたくさんの果物を両手に抱えて戻ってきた。
 今日は八戒の誕生日。彼が欲しいと言って甘えてくれたそのものを早く渡したくて、少し離れたところから距離などお構いなしに、大声で八戒を呼ぼうとした。
「はっ…」
「待て、悟空っ」
 それを慌てて遮ったのは悟浄だった。
「なんだよ」
 振り返る悟空を追い越すと忍び足で近付き、様子を見るように少々遠巻きで2人を監察する。
「ん?あれ、三蔵と八戒、寝ちゃってんだ?」
「まったくこんなトコで無防備に寝ちまってよ。相変わらず、仲のよろしいこって」
 八戒だけでなく、三蔵すらも寝ているとは。それはあまりにもなんとも珍しい光景で。
 だからだろう。こんなに堂々と寝ているとはいえども、もし三蔵のうたた寝図を2人が目撃したことを三蔵にちらりとでも知れてしまったのなら、きっと彼は怒り狂うに決まっている。
 それなら三蔵が起きる前に、1度退散した方がいいだろう。
「出直すとするか。行こうぜ、サル」
 くるっときびすを返すと 悟浄は悟空を脇を通り、促してその場を離れて行く。もちろん2人を起こさないよう、足音を立てないよう細心の注意を払っての忍び足で。
 空は青く、雲は白い。照らす太陽は暖かく、流れる風は滑らかだ。
 今日の天気は散策日和。
 いく先々で邪魔をする敵も、今のところ現れる気配はない。
 いつどこで、また危険が待ち受けているかわからない。
 それは明日かもしれないし、反面5分後かもしれない。
 そんな先のことなどわからないからこそ、今この休めるときにゆっくりと休ませてあげてもいいのではないだろうか。夢を見させてもいいのではないだろうか。
 きっと見ているであろう、幸せな夢を。
「なんてお優しいんでしょうね、俺たちってばさ」
「だよなー」
 2人の寝顔は安らかで、そしてどこか嬉しそうで。
 まるで2人から幸せを分けてもらったような、そんな暖かく優しげな笑みを口元に浮かべて、そして悟浄は手にしていたものを肩へと乗せた。そのときとても重そうな音が立ったが、それもそのはず。その枝にはたくさんの蕾がついていたのだった。
 まだ花を咲かせていない、月下美人の赤い蕾。先だけが白くなっているところを見ると、もしかしたら今夜が開花なのかもしれない。これから咲き誇るそれらの蕾が、彼の歩調に合わせて優雅にゆらゆらと揺れていた。






END