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ゆっくりとノブを回し、戸を開ける。
同時にカランと軽い音をたてるベルと、室内から流れ出てくる涼しげな空気とが、体にまとわりついている太陽の日差しの暑さを、押し流してくれるようだ。
少しだけ暗めの照明。
静かに流れる音楽。
落ち着いた雰囲気の店内。
どれもが八戒のお気にいりだった。
「ああ、いらっしゃい。奥へどうぞ」
いつもの窓際の奥の席。
観葉植物にかこまれ、まるで森の中にいるような気分になってしまうこの席が、八戒のいつもの席。
そこに腰をかけ、外を眺める。
窓から見える小さな庭には、木がたくさん植えてあり、野菜から、果物、ミントなどのハーブ系までと、多種多様にそろっている。それらが気持ちよさげに揺れているさまは、外の暑さとは無関係な感じを受ける。
「今日はね、おすすめできるものがありますよ」
「では、それをお願いします」
水を運んでくれて、気さくに声をかけてくれるマスターに笑顔で注文すると、手に持っていた本を広げて、しばしの読書タイムを満喫する。
お湯を沸かす音。食器と食器がぶつかり合う音。
ゆっくり漂ってくるお茶の薫り。
すべてが心を穏やかにさせてくれるもの。
どんなに時間がかかろうとも、ここにいるときは時間が短く感じてしまうのが不思議だ。
まるで、誰かと一緒にいるときのように。
「お待たせしました」
出された琥珀色よりも少し薄い、綺麗な色をした紅茶を口に含む。
口の中に広がる、優しい、滑らかな飲み物は、紅茶とは思えないほどのものだった。
あまり口にしないその紅茶は、もしかしたらマスターが新しく入荷した葉なのかもしれない。
そして一緒に出されてきたタルトを口に入れる。
それは果物をふんだんに使ったもので、見た目も豪華。
カスタードが少し含まれているがほどよい甘さで、味ももちろん絶品だった。
これならカスタードさえ外せば、みんなに食べさせても大丈夫だろう。
もちろん見た目だけでも、充分悟空は満足してくれるだろうし。
悟浄にいたっては、けっこう何でも付き合ってくれるのだ。
問題なのは三蔵である。果物だから大丈夫のはずなのに、彼のためにカスタードをぬかして甘さ控えめにしていても、見た目が甘そうだったら、とても嫌そうな表情をする。
そんな顔はさせたくないのに。
どうやったら、彼に嬉しそうな表情をさせられるのだろう。
そう思って考えるのをやめた。
彼がすんなり、そんな表情をするわけがないのだ。いつも隠してしまうんだから。負の感情はあっさりと表に出すくせに。
今更なことなのだが、たまにそれが悲しくなったりする。
カラン。
軽くドアの開いた音がする。
客に挨拶しているマスターの声が耳を掠める。
たまに紅茶を口に含みながら、外の景色を眺めて考えにふけっていた八戒は、視界の端に影ができるまで人が近づいていることに気付かなかった。
観葉植物で隠れている、こんな奥のしかも端っこ。
誰もこないはずなのに。
「…三蔵…」
ドカリと八戒の前に無言で座る。
紅茶よりコーヒーを好む三蔵は、この紅茶専門店には足を踏み入れないはずなのに。
「どうしてここへ」
「お前がいるだろうと思ったからだ」
こんな暑い日。ここまで来なくても家で待っていればすむことなのに、わざわざ迎えに来てくれたことが八戒にとってはとても嬉しいことだった。
「お迎えですか?有難うございます。ちょっと待っててくださいね。すぐすみますから」
「いや。ゆっくりでいい」
それでは三蔵が手持ちぶたさになってしまうではないか。
これが三蔵の優しさだ。いい方はぶっきらぼうでも、八戒のことを見て、考えて、答えを出してくれる。
「何になさいますか?」
「あっ、この人は…」
「同じ物をもらおう。飲物のみでいい」
「わかりました」
唖然とした。よく紅茶を飲む気に…。
そしてふんわりと八戒は笑う。
これも三蔵の優しさだ。
自分がここで何も飲まなかったら、八戒がのんびりできないという、彼なりの配慮。
まったく。甘やかしすぎですよ。
八戒の考えが読み取れたのか、三蔵はそっぽを向く。
それは彼の照れ隠しの1つだとわかっているだけに、よけいに八戒の笑みは深まるばかりだった。
三蔵は体を横向きにして、外の景色と八戒とを視界に入れている。
八戒は三蔵のその横顔を見つめる。
その2人はどちらとも口を開くことはしなかった。
別に何も話さなくてもいい。
好きな人とともに、穏やかな雰囲気に浸る。
そんな時間が過ごせることだけで…。
ほどなく注文したお茶が運ばれる。
三蔵はちゃんと八戒に付き合って、紅茶を口に運ぶ。
そのさまを先ほどから変わらずに見つめる八戒は、あまりにも優しすぎる三蔵に意地悪をして見たくなった。
「紅茶だけでは物足りないでしょう。このお菓子でもいかがですか?」
タルトを一口サイズに切り、フォークに乗せ、三蔵の前に差し出す。
カスタードが入ったそれは、見た目はすごく甘そうだ。
案の定。彼はとても嫌そうな表情をした。
本当に自分は意地悪だ。でも、あまりにも優しすぎると、反対にいつものこの表情が見たくなってしまう。きまぐれとかではなく、いつもの彼と変わりがないことを確認するために。
ニッコリ笑ってフォークを向ける八戒。
眉間にしわを寄せて睨む三蔵。
蛇とマングースのような緊迫した空気がそこにだけ流れている。
そしてこの勝負に負けたのは八戒だった。
冗談ですと言って、フォークを引っ込めようとした八戒よりいち早く、三蔵は動いた。
予想に反して、三蔵はそれを食べたのだ。
「…甘い」
目をまるくして、フォークを持ったまま、八戒は動かない。
まさか本当に食べるだなんて。
フルーツがたくさんのって、カスタードまで入っているタルト。実際はそこまで甘くないが、しかし見た目は甘そうなそれを、口にするなんて…。
本当に優しいんだから。
花がほころぶように、八戒は嬉しそうな笑顔へと変わっていった。
もう何だってかまわない。嬉しそうな表情をしてくれなくてもいい。
たまに甘やかすように優しくしてくれるから。
たまにこういう風に、自分に付き合ってくれるのだから。
贅沢は言えない。
とても優しくしてくれる、今日の三蔵。だからお礼に…。
笑みを極上の微笑みへと変化させ、八戒は三蔵に言う。
「好きですよ、三蔵」
店内に流れる音楽。落ち着いた雰囲気にあった照明。心なごます植物。
そして優しく微笑む八戒。
うるさい奴らは1人もいない。
たとえコーヒーがなくとも。たとえ甘いものを食べたとしても。
この優しく穏やかな時間を過ごせるのなら、たまには我慢だってする。
三蔵の心は、満足感で一杯だった。
観葉植物があるのをいいことに、三蔵と八戒はだんだんと顔を近づける。
ゆっくりと振れる唇。
初めてのような軽いキス。
それはほんのつかの間の、恋人達の時間だった。
END