SAIYUKI
NOVELS 56
求めた腕は道標 2001.8.11
SANZO×HAKKAI
 秋になれば八戒が喜んで足を運んで行く栗林を両脇に従えている道を、悟浄は1人帰路に着いていた。
 もう通い慣れたその道は、たとえ栗林がどんなに暗くても、たとえ今が丑三つどきだとしても、たとえ街灯の電気がついたりきえたりしていたとしても、まったく恐くもなければ道を通ることに躊躇ることもなかった。
「ふ〜。今日はずいぶん勝たせてもらったなあ」
 久々のボロ勝ちだった。こういう気分のいい日は美人のいけてる女のところにでも行きたいところだが、反対にこういうときだからこそ早く帰ることにしたのだ。
 とはいうものの、今はそう丑三つどき。こんな時間に帰っても、八戒が起きているわけではないのだが。
 案の定、灯りの着いていない真っ暗な自分の家の鍵を、音をたてないよう細心の注意を払って解除すると、これまた音をたてないよう、ゆっくりと扉を開けた。
「ただいま」
 もちろん返事があるはずがなく、それはすぐに空気にとけ込み、小さく消えていった。
 帰ってくる声がないとわかっているのに、言ってしまうくせは八戒と同居してから身についたものだった。
それまでその手の挨拶はしていなかったのだ。だってする必要もなかったから。帰宅しても出迎えてくれる人物などいないのに、言っても空しいだけだったから。
 だから、その言葉はもうずいぶんと長い間言っていなかったので、八戒と同居を始めてからもしばらくは同じ状態だった。八戒が「おかえりなさい」と言ってくれたとき、やっと思い出したかのように「ただいま」とは言うものの、毎度扉を開けてからすぐに口にするということを忘れていたのだ。八戒の方もそのことに関して言葉を要求することをしなかったから、余計にいつも言葉を言い忘れてしまう。それでも八戒と同居したことを忘れているわけではない。実際、家に帰って人の気配があり、おかえりと迎えられることが、こんなにも嬉しく、暖かい気持ちになることを知ることができて、とても良かったと思っていたのだから。
 だからこそ、悟浄は慣れという壁を乗越えることに、努力をしたのだ。そしてその努力との賜物により、今ではこうして返事がなくとも「ただいま」を言わないと、どうもしっくりとこない状態にまで変っていた。
 忍び足でバスルームに向かい、シャワーをあびる。
 今日の汚れを洗い流し、さっぱりとそしてどこか涼しく感じるようになった悟浄は、安眠をとるべく寝室へと向かった。
 ところが。
「………」
 八戒の部屋の前でピタリと足を止る。中から苦しげな声が聞こえてきたからだ。
 その場で身も心も固まっていた悟浄だったが、次に唸り声が耳に届いたとき、やっと真剣に考え始めた。
 いつも寝つくのが遅い八戒。それなのに可哀相なことに眠りがとても浅いのだ。そんな彼がつい先ほど寝ついたばかりのようであることを、リビングから冷たい空気が廊下へと流れてきたことで知ったからこそ、起こさないよう音をなるべく立てないようにしていたのだ。だから、彼がたとえ今悪夢を見ているとしても、一応眠っていることにかわりはなく、睡眠がとれるならこのまま寝かせておいた方がいいのかもしれないとも考えてしまうし、悪夢を見ているからこそ、起こした方がいいのかもしれないとも考えてしまう。そのどちらをとった方がいいのか、悟浄は八戒の部屋の前で考え足掻いていた。
 ところが結局考えがでぬまま、室内からはベッドの軋む音と衣擦れの音、布団のめくれる音が聞こえてきて、八戒が起きたことを知らせてくれた。
「………はあ」
 聞こえてきたのは、長い長い溜め息。
 八戒が起きたことに安堵したものの、その溜め息は起きてしまった彼をまた眠りへと誘ってはくれそうもないものだったので、悟浄は複雑な気持ちのまま八戒には声をかけずに自室へと向かった。
 その後もしばらくは気にはしていたがいつの間にか寝てしまっていたようで、シャッという音が遠くから聞こえてきたとたんに、頭の中に光りが入ったように白くなった。
「悟浄。そろそろ起きて下さい。こんな暑いところにいたら、脳がとけてしまいますよ」
 その八戒の言葉でやっと起きたのだった。
(なんて俺ってはくじょーモン…)
 シャワーでさっと汗を流してリビングへと向かう。彼もちょうど食事をするつもりだったようで、食べずに待っていてくれていた。
「あれ、八戒顔色悪ィぞ?」
「そうですか?昨夜も熱帯夜だったんで、睡眠が浅かったのかもしれませんね」
「…大丈夫か?」
「ええ」
 八戒はやんわりと笑ってそう言うが、絶対に案の定、昨夜はあれから眠れなかったのだろう。
 そういえばいつだったか同じような場面に遭遇したことがあるような気がする。
 記憶を掘り起こして探ってみれば、昨年の同じころだった気がしてきた。
(ふ〜ん。お盆ねえ…)
 悟浄は八戒を見つめた。
「悟浄。僕の顔を見ていても、お腹はふくらみませんよ」
「はい」
 睡眠不足でもやはり八戒は相変わらずで、彼が不機嫌になる前にちゃんと食事をすませてしまおうと、悟浄は考えることを後回しにして、食事に専念することにした。





「八戒ーっ!」
 ぎゅっと音が聞こえてきそうなほどの勢いで、突然悟空が抱きしめた。
 背後にいる三蔵がとげとげしい空気を出していることにも気付かないようである。
「いらっしゃい、悟空、三蔵。お待ちしてましたよ。それよりどうしたんです?突然」
「いや」
 いつも彼が家を訪れるときには、支度をする八戒のために必ず数日前に連絡をいれてくれる。だから今回のように、当日に連絡をいれてくるのはとてもまれなことだった。
「悟空。お菓子の用意できてますよ?」
「わーいっ」
 あまり時間がなかったので、こったものは作れませんでしたけど、という彼だが、リビングに続くドアを開けてみれば、プリンの甘い香りが漂ってきた。突然でもちゃんと容易すをするところが彼らしかった。
「…迷惑だったか?」
 それは三蔵らしくない言い方。
 いつもなら唯我独尊で、相手のことなとおかまいなしというところがあるのに、なぜか今日は様子を伺っているふうだ。視線もどこか八戒の動向を探っているようでもある。
「いいえ」
 一瞬瞳を大きく開いてとても驚倒していた八戒だったが、すぐに瞳を細め少し照れたような感じが含まれた笑みを見せた。
「とても…嬉しいです」
 そう。それはもう、とてもとても。彼がわざわざ会いにきてくれたことも嬉しいし、彼の近くがやはり一番安心できるから。
 最近よく見る夢がある。
 妖怪たちが不気味な雰囲気で、ずっと後を追ってくるのだ。何度か応戦してみるものの彼らの数は一向に減らず、結局八戒は諦めて逃げることにする。そうして一件の家の中へと入っていくのだが、逃げ切れるはずのそこにまで、彼らは足を踏み入れてくるのだ。
 いつもいつもその場面で目が冷める。
 どうしてこんな夢を見るのか。何かこの夢に意味があるのか、それは未だまったくわからず、どうすることもできないまま、その夢は幾度となく繰返される。
 身体を休めるはずの睡眠は、八戒の神経を蝕んでいく。
 おかげで八戒の身体は休まることなく疲れが溜まっていく一方だったが、悟空も一緒にきているのだからそんなはずはないのに、三蔵の隣にいるだけで、たとえ少しの時間でも疲れがとれていくような気がした。
 おしゃべりをし、夕食をとり、時間は刻一刻と過ぎて行く。
 闇は深まり、星々は降り、綺麗に瞬いていた。
「おい、悟空。そろそろ帰るぞ」
 楽しい時間にピリオドを打ったのは、三蔵のその言葉だった。
「もお〜?」
 悟浄は清々しているようだったが、悟空はとても淋しげだった。しかし一番淋しいと、この瞬間感じていたのは、多分八戒だっただろう。
 そう、長く続くはずはないのだ。
 この暖かい空気がいつまでも傍にあるはずがないのだ。
 わかっていたはずだ。限られた時間であることを。
 彼には別の場所があり、それはここではないのだから。
 それでもせめて今夜一晩だけは傍にいて欲しいという思いが、時間をおうごとに強くなっていくことを止めることができなかった。
 何日間も何日間も休められない八戒の身体が、彼の暖かさと優しさを求めていた。
 一度触れてしまったそれらを、強く求めていた。
 彼の香りをかぎ、彼の腕につつまれ、彼の吐息を感じながら眠りにつけたら、そのときこそ悪夢など見ず、安らかなものになるだろう。
 そう思っていたのに、思いとはうらはらに八戒の口はなぜか動かなかったのである。
「世話になったな」
「…お気をつけて」
「ああ」
 遠ざかって行く足音。
 遠ざかっていく背中。
 行かないで。
 傍にいて。
 そう言いたかった。心の中では叫んでいた。
 しかしどうしても言えなかったのである。
「………」
 悟浄が見つめていることを八戒は気付いていた。何を言いたいかもわかっていた。それでも八戒は気付かなぬふりで、2人の姿を見つめたまま違うことを口にする。
「有難うございました」
「は?オレ?」
「他に誰がいるんです?ここにはあなたと僕だけですよ?」
 呆れたような表情を露骨に乗せて悟浄へと顔を向けた八戒だったが、すぐにそれは消え、ほんわかと暖かい笑顔を見せてくれた。
「僕のために読んでくれたんですよね」
 三蔵たちを。
 悪夢にうなされているのを言っていたから。
 夜は悪夢をみ、日中はそれを気にしている。そんな八戒にゆとりがないものだから、少しでも気分が軽くなれたらと、悟浄はわざわざ手を尽くしてくれたのだ。
「まあ、お前のシケタ面はあまり見たくないし。しかし…本当によかったのか?」
「ええ…。さ、悟浄もお風呂入っちゃって下さい。いくら夏で暑いからって、こう毎日毎日シャワーだけじゃ身体に良くないですよ」
「はいはい」
 本当に悟浄には感謝している。確かに気持ちが楽になったようだ。
 あらためていかに自分にとって三蔵が必要な人であるか、理解できた八戒だった。
 雨戸を閉めに1つ1つの部屋に入っていく。最後の1つを閉め終えたとき。
「八戒ーっ!」
 ぎゅっと音が聞こえてきそうなほどの強い抱擁。
 その声は帰ったはずの悟空のものだった。
 それは本日に度目のものであるだけに、後ろに控えていた三蔵は今度こそハリセンで響くほどの音を立てて、悟空の後頭部を狙った。
「っつー…」
「八戒の邪魔してんじゃねえよ」
「ご、くう…」
 信じられないものを見るように八戒は振り返って悟空を見つめる。そしてその視線はそのまま三蔵へと移動した。
「さん、ぞう…?」
「橋が壊れててな、渡れなかったんだ。今夜は泊まっていく」
「…何が橋だよ」
 悟浄がタイミングよくバスルームから出てきて、1人愚痴っている。
 橋を渡るルートなんて、三蔵が帰るときには使わないのだ。そんなこと、言い訳なのは百も承知。ただ八戒のことが気になって戻ってきたのだろう。
「おっ、そうだ。悟空、お前に渡すモンがあったんだ。ちょっとこいよ」
「うん」
 2人が消えていく姿をまだ信じられないような瞳のまま、八戒は呆然と見送った。そしてゆるゆると三蔵に視線を向けて、弱々しい声で言う。
「帰ったんじゃあ…」
「あんな瞳されちゃあ、放っておけねえからな」
「瞳?」
「気付いてねえのか?重症だな」
 呆れたような表情をしたがそれも一瞬こと。
 1つ溜め息を吐くと、真剣な眼差しで八戒を見つめた。
「すがるようだったぞ」
「………」
 口にはできなかったが、態度に出てしまっていたのか。だから悟浄が自分がはぐらかしたのにもかかわらず、再度「大丈夫か」と聞いてきたのだ。
 我慢して、我慢して。いつもなら態度になどだすはずがないのに、今回は今のこの緊迫した状態のときに、安心できる三蔵の存在を感じてしまったものだから、隠し通すことができなかったようだ。
 三蔵は眼差しは真剣なまま、右手を心持ち上げて八戒の前髪を心持ち持ち上げた。
 両方の瞳が露になる。
 そしてその深い緑色の瞳を見据えて。
「あのとき。本当は何て言いたかったんだ?」
 正直に言えといわんばかりに問いてきた。
「………」
「言わないつもりか?」
 右手はそのままに、左手は八戒の顎のラインをなぞる。
 優しく、そしてゆっくりと。
「また、我慢するのか?
「…『行かないで』……」
「…それから?」
 飲み込んだはずのその言葉は、一度口にしてしまうと、そのままするりと出てしまう。
「…傍に…いてっ」
「ああ。今夜はここにいてやる。ずっとな」
「三蔵…」
 八戒は三蔵の首へと腕を回す。
 まるで温もりを求めるようなその仕草に、三蔵は優しく抱きしめ、そしてすぐに力は込められた。
 残っていた力がだんだんと緩くなっていく気がした。
 疲れが和らいでいく気がした。
 三蔵が強く抱きしめてくれればくれるほど、それは小さくなっていくようだった。
 求めていた人の腕、温もり。
 それはやはりとても暖かく、安心できるものだった。
 最近いつも見る夢。それは不気味な雰囲気を持つ妖怪たちに追いかけられる夢。
 繰り返し繰り返し同じ場面が流れるそれを今夜は久々に見ず、安らかで暖かい夢へと変るような、そんな予感がした八戒だった。






END