SAIYUKI
NOVELS 65
この空のように 2003.6.23
SANZO×HAKKAI
 誰もいない室内。それなりに大きめの四人部屋は、おかげでとても静かだった。
 三蔵は寺院へ、悟浄は賭博場へ、そして悟空は散策へとそれぞれでかけている。
 それはいつものことで、本当は八戒もいつものように買い出しへと出かけるはずだったのだが、最後に残った八戒が宿屋を出て向かう最中に、頬に頭にと冷たいものが落ちてきてしまったのだ。降り始めはいつものようにまだポツリポツリと当たるていどで気にすることもなかったのだが、それもほんの少しの時間だけで、しばらく歩くうちに雨脚は強くなってしまった。
 空を見上げれば雲は厚く、すぐやむという兆しは見えなかったが、豪雨というわけではなかったので、そのまま買い物を続けようと思えばできないこともなかった。ところが傘を持っていなかったのと、なぜか沈み込みそうになる気持により、買い物をすませないまま、八戒は宿屋へと戻ってきてしまったのだった。
 外は雨。以前より目に見えて克服したそれでも、実際は完全ではないようだ。こうして室内にはただ一人。静寂の中誰かを待つというのは、昔の苦い記憶に重なるものがあった。まして強い雨脚はいつの間にか弱まり、今ではさーっという音が聞こえるだけだったが、その静かな雨音の方が、かえってたちが悪かった。
 雨ならまだ豪雨の方がよかった。あの激しい音が八戒の体や心に振動を与えてくれるから。沈んでしまいそうな気持ちを叱咤してくれているようだから。しかし音のない雨は、落ち込んでしまいそうな心や考えを邪魔することはしない。それよりも余計なことを考えなくていいぶん、さらに深みにはまっていくだけだった。
 だから雨は雨でも、このように静かな雨はもっと嫌いだった。
 無駄だとわかってはいたものの、何もしないよりはマシとでもいうように、八戒は読みかけの本を開いてみた。それは今八戒がとても気にいっているお話で、引き込まれるような何かを感じる物語だったから、もしかしたら没頭できるかもしれないという淡い期待もあったことは事実だった。
 ところがそんなにうまく、物事が運ぶわけがなく。やはり期待は淡いままに消えてしまった。
 浅く息を吐くと、八戒は本を閉じる。
 気をまぎらわせられる何かがしたいのに、それさえも見付けることができない。もどかしい思いと、沈み込む気持ち。その感情が表れるように、いきどころのない両手は、無意識のうちにテーブルに肘をつき、うつ向いている八戒のそれぞれの耳へと当てられた。
 多い被さるように。雨音を消し去るように。聞こえない何かから逃げるように。
 どうしてここまで気持を落としてしまうのか。
 あのときとはまったく違っている環境の今、ただ雨音だけが同じというだけなのに。
 彼らが八戒の前から消えたわけではなく、彼らが誰かに捕えられているわけでもない。ましてやこの旅を阻む何かがあるわけでもないというのに、これほどの静かな雨の中、一人でいるというただそれだけで、なぜこんなにも奥底に風が入り込むのだろう。
 どうして誰も帰ってこないのか。
 誰でもいいから早く帰ってきて。
 こんな中、一人にしないで。
 絶対に口にはしないその言葉で、今の八戒は一杯だった。
 しかしそんな八戒の思いは届かず、誰一人として戻ってはこない。
 そろそろと顔を上げると室内を見渡す。誰もいるはずがないことはわかっているのに、それでも誰かしらの存在を求めて、瞳をさまよわせた。もちろん八戒の瞳には誰の姿も映し出すことができなかったが、最後に映ったカーテンから瞳をそらすことができなかった。
 それはしっとりした涙のようにも見える雨を見たくなくて、戻ってきた早々閉めてしまったカーテン。
 八戒はゆっくりと立ち上がると、現実に立ち向かうようにしてそっと開けてみた。
「…ああ。だからこんなにも…」
 静かすぎるほどの雨音。
 当たり前だ。降っていた雨はいつの間にかやんでいたのだから。
 直接光りが隙間から入ってこなかったので気付かなかったが、空は以前悟空がオレンジジュースと比喩していた夕日に染められ、見事な橙へと変色していた。
 室内は怖いくらいの無音。
 誰もおらず、この四人部屋にただ一人。
 小さなものなれど、まだうずいているものを胸に秘めたままこの部屋にいる八戒には、外のその空がなんだかとても暖かく感じられてならなかった。
「………」
 しばらくの間、引き付けられるように空を見つめていたが。
 パタン。
 八戒は何も持たずに部屋を出て行った。





 三蔵は考えていた。
 浴室は確認した。
 下の食堂も確認した。
 しかしそのどちらにも八戒の姿が見当たらなかったのだ。
(ったく。どこに行きやがったんだ)
 本堂の奥の方で説法をしていた彼は、雨が降っているのに気づくのが遅れてしまったのだ。説法は途中だったが、それからすぐに戻ってきたというのに、彼の努力は空しく、宿屋には八戒の姿がなかったのである。
 今は雨もやみ、空には夕焼けが鮮やかだったが、先ほどまでは小降りとはいえども雨が降っていたのにはかわりがない。
 三蔵も雨は苦手である。しかし過去のことから、どちらかといえば大雨の方が苦手だった。対して八戒はといえば、今まで彼が見せてきた姿からいって、小雨の方が苦手のようなのだ。それは雨を克服できたようでいて、まだ完全ではないことを意味していることであり、彼も克服できるように努力はしているようだった。
 しかし過去のトラウマを、そう簡単に完全に克服できることなど、強い人間だって難しいことだ。とくに八戒にいたっては、自分自身は強い人間だと思っているようだが、実のところは諸刃の剣なのだから。
(久々にでたか?)
「…ちっ」
 三蔵は小さく舌打ちする。
 窓の外は静かな雨。広くもない室内だが、それでもただ一人、その苦手な状況を耐えていたのだ。
 今まで彼が見せてきた表情が簡単に思い浮かぶ。
 何の感情も浮かばない硬い表情。それは何かを必死に耐えようとしているであるのに、三蔵から向けられる視線に気づくと、それでも彼は三蔵に心配をかけまいと、うっすらと笑みを浮かべるのだ。
 今にも壊れてしまいそうな、儚い笑みを。
「………」
 三蔵はきびすを返して扉へと向かう。
 八戒を一人にしてはおけない。
 彼は雨が止んだ今でも、きっと心細い思いをしているだろう。
 そんなことを口にせず、一人で耐えてしまう彼だからこそ。
 すぐにも探しに行こうとした。
 すぐにも傍にいてあげたかった
 しかし。
「あれ。ずいぶんとお早いお帰りじゃないの。お得意の説法、ちゃあーんとしてきたんだろうなぁ、三蔵サ、マ?」
「そういう貴様こそ、こんなに早く帰るとは珍しいな。ああ、だから雨が降ったのか」
「テメっ。明らかに雨のが先だろーが」
 そんな軽口を言い合いながらも悟浄の視線は室内をさ迷っていることと、三蔵を見たときの安堵した表情から、きっと雨が降ったことを知り、八戒が心配で戻ってきたのだろう。三蔵が寺院へと行くときすでに悟空は出かけた後だったし、悟浄もまた出かけようとしていたから、室内には八戒ただ一人という可能性も考えられたから。
「どこ行くんだ?」
 悟浄と入れ違いに戸口をくぐろうとしている三蔵にそう問いかけてくる悟浄の口外に、八戒を置いていいのかと言っている。彼も又、小雨が八戒が一番苦手な天候だということを知っているからだ。
「八戒がいねえ」
「何だって?…遅かったってことか…」
やはり三蔵のもくろみどうりのようだ。
「どこに行く?」
「さあな」
「さあなって…。これから人探しするセリフかよ。ンじゃあ、こっちは勝手に町の中、探してみるわ」
 相変わらず冷静沈着な態度を見せ続けようとする三蔵だが、彼がそもそも一人で人探しをしようとするところが、すでにもう彼らしくないということに彼自身は気づいていないようである。それほど、やはり三蔵は八戒のことが気がかりのようだ。もちろんその気持ちはとてもよくわかるだけに、悟浄は何も言わずにわからないフリをしてあげようと思った。
「見付けたら町までつれてこいよ」
「きさまこそな」
 二人の間に小さな緊張が走った。
「ハラへった〜」
 ところが一瞬にしてその緊張は、戻ってきた悟空の一言で打ち消されてしまった。
「………」
 じっと悟空を見つめる悟浄の視線の先では、三蔵が強くハリセンで頭をはたいているところだ。
「ってー。何で殴るんだよっ」
「うるせえっ」
 短く一喝すると、三蔵は一人さっさと宿屋を出て行った。
「何だよ、三蔵ってばさ」
「ま、わからなくもないけどな」
「俺には全然わかんねえっ」
「いいから、いいから。ホラ、行くぞ、サル」
 悟浄は納得いかないような表情を浮かべたままの悟空の肩に腕を回すと、強引に宿屋から連れ出した。





 ベンチに深く腰をかけ、八戒は飽きもせず空を見上げていた。
 暖かくもあり寂しくもある夕日は徐々に沈んでいき、今では濃い紺とも暗い黒ともいえないような微妙な色へと、空は変わってしまっている。
 広めの公園には誰もいない。きっと雨が降ったからだろう。それは宿屋の室内と変わらないほどどこか寂しげで孤独感を強くさせていたが、それでもつい先ほどまでは包みこむような暖かな夕日が空から見下ろしていたために、まだ宿屋よりもマシだと言えるだろう。
 それなのに。
 八戒は力なさげにうつ向くと、ゆっくりと両耳を手で覆う。
 サーッ。
 耳の奥の方で雨の音が聞こえる。
 まただ。
 雨など降っていないのに。音だけが鮮明に響き、八戒を縛りつける。
 これは幻聴。そんなことわかっているのに。
 そう簡単に逃げ出すことができないのはなぜだろうか。
 何かに助けを求めるようにゆるゆると顔をあげる。視線の端に映ったブランコをしばし見つめたあと、八戒は呼ばれるようにそれへと近付いていった。
 片方の太い鎖を持つと、ゆっくりと揺らしてみる。
 きーっ。
 きーっ。
 その懐かしい音は、昔、ずいぶん大人になってからではあったが、ブランコで得られる感懐を思い出させた。
 腕に力を入れて動いていたブランコを止めると、足をかけて立ち乗りをし、器用にこぎ始める。
 強く。早く。
 その願い通り、弧は広がり大きくなっていく。
 景色の流れも速く、耳元には風を切る音が強くなる。
 もっと。もっと。
 この風の音で、雨の音が消されるように。
 もっと早く。
 あまり得られないスピード感を子供が欲するように、八戒はがむしゃらにブランコをこいだ。
「子供を教えてたやつのやる行為じゃねえな」
 雨音も消されそうなほど耳元では風の音がしていたのに、三蔵の静かで低いその声が二つの音をかきわけ、突然八戒の耳に届いた。
「………三蔵…」
 雨の後。濡れることもかまわずに、彼は滑り台に寄りかかってゆっくりと煙を揺らしているところだった。
 いつからそこにいたのか。あまりにもがむしゃらにブランコを漕いでいたからか、八戒は気づきもしなかったが、そんな姿を彼に見られていたかもしれないと思うと、なんだかとても恥ずかしくもあった。
 腕に力をいれて揺れるブランコを制御していくと、煙草を口にしたまま近づいてきた三蔵は、まだ揺れているブランコの鎖を掴み強引に動きを止めさせた。
「わっ」
 それに逆らうように大きく動く足元に、急いで足を地につけると、すぐさま抗議の声をあげた。
「そんな、強引に。危ないじゃないですか」
 彼は三蔵の予想に反して雨の影響は出ていないように見うけられる。しかし先ほどの彼のらしからぬ行動を考えると、きっとまだ影響下にいるのだろうと思える。ただ、八戒の身体は濡れていないようなので、今回はまだ比較的雨の影響は少ないようなのが救いだ。
「こんなところでガキの遊びか?結構余裕じゃねえか」
「子供心に帰るのもたまには必要でしょう?ところで何に対しての『余裕』です?」
 三蔵が何を言いたいのか八戒にはわかっているはずだった。それなのに何を言っているのかわからないと、自分の状態を隠そうとする。それが八戒の強がりであり、八戒のプライドでもあり、それでいて八戒の弱さであるということも、三蔵はよくわかっている。だからこそ、あえてここで指摘したりはしない。
「さあな」
 それでも言いたいことはある。
「別にわからないなら、それでかまわん。ただ我慢と虚勢をはきちがえるなよ」
 誰もいない室内にただ一人。苦手な小雨の音を聞きながら、静寂と孤独に耐えていた時間。それを耐えられていたならばまだよかったのかもしれないが、我慢強い八戒がその場から逃げ出してしまったのだ。それほど彼にとってはその時間が耐えられないものだったのにもかかわらず、せっかく三蔵がきたというのに、恋人にさえも弱さを見せはしない。
 彼が見せたくないのならかまわない。しかし耐えられないものを、心が悲鳴をあげるまで我慢する必要もないのだ。
「…まいったな……」
 八戒はそう呟きながら、脱力したようにブランコに座り込んだ。
 うつむいた彼からは、表情を伺うことはできない。それでも彼が発したその言葉は苦笑の色をにじませているように、三蔵には感じられた。
「あなただって苦手でしょうに…」
 雨が苦手なのは三蔵も同じ。それなのにどうしてここまで八戒と三蔵との差があるのだろう。
 たしかに人間の心理状態によって、それぞれ違ってはくる。とても気になるときと、気にならないとき。耐えられるときと、耐えられないとき。たとえ苦手だと言っても、それくらいの差は毎回でてくるようなものなのだが、本当に二人の差がそんな程度の差なのか、八戒には疑問だった。
 三蔵が強いからなのか。それとも八戒が弱いからなのか。
「そんなこと、言った覚えはねえな」
 ざっと、土を踏む音が聞こえると。
「もしそうだとしても、気になることがあるからな」
 そして八戒の肩にポンと手を添えた。
 それは、気になってしまうほどにが弱い、ということだろうか。
 気にならないほど、頼りにならない存在なのだろうか。
 先ほどから八戒は三蔵と自分との違いというものに考えさせられてしまっていた。
 三蔵にも抱えているものがあるのに、彼は先を見つめるまっすぐな目を持っている。それはすぐに揺り動かされてしまうような自分とは大違いで。
 ずっと強くなりたかった。彼の足手まといになどなりたくはなかった。
 彼の性格上、口ではいろいろと言っているが、足手まといになったとしても、きっと彼は自分の身の危険を知りながら、手を差し伸べてきてしまうだろう。自分たちが何を言おうとも、自分の意思を曲げずに。
 それでは何の意味もなかった。
 だからこそ、強く。彼が見つめるその先に彼がちゃんとたどりつけるように。周りを気にしなくてもいいほどに、強くならなければならないというのに。雨などに翻弄されている場合ではないのに。
「気になるものがあるからこそ気にならないものがある、ということだ」
 はっと、八戒は三蔵を仰ぎ見る。
 八戒を見つめる三蔵の視線は、大好きな強くまっすぐなものだった。
 口ほどに物を言う、その視線。
 つまりは、八戒がいるからこそ、雨など気にならないということ。
「……たしかにそうかもしれませんね」
 ずっと気になっていた雨音。その雨音がいつまでも止まないものだから、風の音で消そうとしていた。それなのに今ではすっかりとその雨音が消えている。
 そう、三蔵がいてくれたからこそ。
「本当に。あなたは『三蔵法師』ですね」
 三蔵が強いのか、八戒が弱いのか。そこまでの答えは未だわからない。それでも彼がこのまま彼でいられるよう、ずっと見続けていきたいと思う。そのためには。
 やはり強くならなければならない。
「何を今さら」
 三蔵は口の端をあげて笑みを形をうかべると、唐突に八戒の唇を奪った。
「   この角度もなかなかいいな」
 いつもなら八戒の内にある優しさが瞳には浮き出ているが、今こうして見上げるようになると、内の温かさの方が強く浮き出てくるようだ。
「本当に『三蔵法師』ですよ」
「どういう意味だ?」
「さあ?」
 八戒が立ち上がるのを見通していたのか、三蔵は既に歩き出しており、後ろを振り返ることさえしない。それは八戒という人間を理解しているからか、それとも信頼してくれているからか。
 強くなりたい。強くならなければならない。
 彼が後ろを任せてくれているのだと、そう自身を持っていえるほど、強く。
 八戒は空を見る。
 雲は流れ、今では綺麗な星空が見えるだけの空からは、雨が降った形跡など微塵も感じられなかった。
 そう、いつか雨はあがるのだから。
 この空のように。






END