SAIYUKI
NOVELS 54
いつまでも傍にいて 2001.7.9
SANZO×HAKKAI
 さらさらと流れる川。広くない幅から分流だとわかるそれは、そこだけ違う時が流れていてゆっくりと時間が刻まれているかのように、川の水はのんびりと海に向かって進んでいた。
 その川には、寂しくないよう添うように草が生えているが、それはさほど伸びていないおかげで足に絡むこともなく、以外にもとても歩きやすかった。その草のほどよい香りは空気を吸えば体内全体に行き届き、心地よいものへとなっていく。
 忘れたころにやってくる緩やかな風は草の上を伝って行くが、ごくたまに強いものになることもあり、それはか弱い草までをもまき込んで、さーっという涼しげな音楽を奏でるが、それもまた耳に心地良い。
 そんな自然一杯の川岸に、八戒は一人腰を下ろして、川の流れを目で追っていた。
 何か特別なものがあるわけではなく、ただ川が流れているだけしかないそこは、普通なら見ていても飽きてくるだけだろうが、彼は違うのか、それともただ視線を向けているだけで心ここにあらずなのか、そこから視線を動かすことはなかった。それでもたまに思い出したかのように、うちわを持った右手がパタパタと動くところを見ると、どうやらやはりただのんびりと川の流れを見ているだけのようである。
 空には白・青・赤などの石が点在していて、とても素晴らしいキャンバスを作り上げている。たまに空を見上げては、昔見た天体の本で記憶している形を線で結んでみたり、やはりこれ又昔読んだその形にまつわる悲しい伝説などを思い出してみたりしていた。
 今日は七夕。
 梅雨のこの時期のことだから、仕方がないと言ってしまえばそれで終りなのだが、ここ近年では毎年のように天気が悪く、夜がこんなに快晴なのはとても久しぶりだった。梅雨明けを想像させるほど晴れて暑い日が連日で続いても、七夕当日には突然雨が降ったり。日中晴れていたのにもかかわらず、夜になれば雲が空全体を覆ったり。八戒が記憶を掘り返してみても、「晴れた日の七夕」にたどりつくことはできなかった。
 そのおかげで、七夕はいつも天気があまりよろしくないという想像をしてしまうのだが、今日はそれを裏切って珍しく快晴である。
 晴れた日にしか会うことのできない織り姫と彦星。
 だからこそ、その二人を見るためと、そしてこの素晴らしい夜空と、加えて三蔵のお迎えにということで、こうして八戒は外にでてきたのである。
 八戒がこの川岸についたときには、まだうっすらと青と紫のグラデーションで芸術的な空を演出していてくれたのだが、今ではすっかり闇色へと変わってしまっている。月も出ていない今夜は、だからこそ1つ1つの星々がはっきりと見えるのだが、それ以上に賑わう町から少し外れた場所にあるこの川には、空からの光りを邪魔する灯火さえもないので、とても綺麗に見えるのだろう。
 それらもここで最初見たときよりも、少し傾いているようだ。
「……三蔵遅いですねえ…」
 七夕にはご馳走を作ろうかと、以前さらっと程度に口にしてみたところ、それを聞きのがさなかった悟空は、とても今日という日を楽しみにしてくれていた。だからこそ、三蔵が出て行くときに帰りの時間を尋ねてみれば、日没までには帰るようなことを言ってくれていたのだが…。
 視線を橋の向こうに向けてみるが、三蔵らしき人影は見えてこなかった。
「ま、悟空には申し訳ないですけど、こんな日にこの空の下で待つというのも、いきというものでしょう」
 そうして八戒はごろんと横になった。
 背中に感じるのは草のジュータン。おかげで背中が痛いということはなく、とてもよい寝ごこちである。
 耳をくすぐる柔らかい草が風に寄られて奏でる音が、より身近くに、そして大きく聞こえる。その音をただ耳に流し込んでいるだけで、八戒は輝いている夜空を見つめているのだった。





「おい、何してる」
 八戒は待ちに待った彼のその声に、即座に反応してそちらを見てみれば、三蔵は木でできた橋のちょうど半ばの手すりに手をかけて、呆れたような声音を裏切らない表情で八戒を見下ろしていた。
「ちょっと童心に返りまして」
「何を今更」
「はは。そうなんですけど…」
 人差し指と親指を立てた以外は指を折って、それぞれの手でL字型を作り、左手のみ少々捻って、右手の人差し指と左手の親指の先を、右手の親指と左手の人差し指の先を合わせた長方形を、顔から少し外した位置でその形を保たせたまま、八戒は苦笑いをしている。
 それは昔読んだ本。今はもう題名も思い出せず、あらすじさえも忘れてしまっていたが、その中で主人公がやっていた行為で、毎日見る何ともない光景。それが即席につくったこのフィルターを通して見てみると、まったく違ったものになるというお話だった。
 たしかにそのころ、その物語が絶大な人気を得ており、主人公がやっていたそれも当時はとても流行っていて、そのフィルターを覗く子供の図というのをよく目にしていたものだが、背が低く届きもしないくせに届くものだと信じて一生懸命背伸びした当時の自分は、やってみたいと沸きあがる感情を無意識のうちに抑え、冷めた目で同世代の楽しげな子供たちを見ていたために、まだ一度もやったことがなかった。
 今回空を見上げながらふと当時のことを思い出した八戒は、そのことに行き当たり、本当に今更であるが、こうして腕を伸ばしてそのフィルターで星々を眺めていたのである。
 三蔵は小さく溜め息をつくと、寝ながらまたフィルター越しで空を見つめる八戒の元へと、歩く速度を速めることなく近付いて行った。
 橋を渡り、土手沿いを歩き、川岸にいる八戒までの下り坂をゆっくりと降りて行く。
 乾いた草を踏んだ音はだんだんと近付いて、気配も三蔵のものだとわかっているのに、八戒はそのフィルターから覗くことをやめることはない。
「今日は晴れてよかったですね」
 八戒まであと数歩というところ。
 空を見上げながら語る彼が何を言いたいのかは、今の彼の行動からしてすぐに察しがついた。
「どうだかな」
「…どうしてです?」
 思ってもみなかった答えに、八戒はやっと視線を三蔵へと向けると、立ったままくわえ煙草をして煙くゆらし八戒と同様に空を見る三蔵を、きょとんとした表情で見つめた。
「やっと会えたのはいいが、また離れねばならん」
 残りの数歩を近付いて八戒の隣に腰を下ろしながら、三蔵は言葉を続ける。
「それは仕方がないことだが、本人同士はやり切れないだろうからな」
「……悲しいですね…」
 織り姫の彦星。空にある2つの星は今はまだ離れているけれど、今宵天の川は流れ、2つの星は動き出して距離を縮めるのだろうか。
「まあ、俺なら…」
 突然八戒の両手が強い力で束縛された。両手はそれぞれ三蔵の左右の手で握られ、頭より少々高い位置で地面に縫い付けられている。そして視界にあった満天の星空は、それを背負った三蔵の綺麗なアップに変わっていた。
「やっと手に入れたものをそう易々と離すことはしないがな」
 徐々により大きくなってくる三蔵の顔に、反射的に瞳を閉じた八戒は、自分の唇にそっと柔らかいものが触れるのを感じた。
 ただ柔らかいとしか感じられなかったそれ。
 次の瞬間には、緩やかに流れる風を感じていた。
「…そうですね。それは僕も同じです」
 そっと両手を動かしてみれば、三蔵は完全に束縛するつもりはなかったようで、すぐに手を離してくれた。その手をゆっくり彼へと伸ばしていけば、八戒の意図を悟ってくれたようで、体を近づけてくれる。そんな彼の首に両手を回すと、少しだけ腕に力を込めてより近くに三蔵を誘い、そして囁くようにお願いした。
「もう一度…キスしてください」
 それはそれは、そっとそっとお願いした。
 しばらくののち、だんだんと三蔵の顔が近付いてくると、その願い通り再度そっと唇に触れられた。
 いつもの彼の強引さからは想像できないほどのその優しい口付けは、今度こそ彼の体温をも感じることができた。
 心地よい彼の温もり。彼の薫り。
 更に腕に力が込められたことで三蔵は薄く瞳を開くと、うっとりと瞳をとじている八戒を認めて、目元を緩ませ彼を見つめるのだった。





「2人とも、おせえなあ。もう腹減って死にそーだよお…」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ元気もないのか、悟空は机に突っ伏してくぐもった声で弱音を吐いた。
「だねえ」
 椅子に座り煙草をくわえながら、久々に星が輝く七夕の空を眺めていた。
「ま、もうすぐ帰ってくるでしょ?織り姫と彦星に免じて許してやれよ」
「んー…」
 少々涙目になりながら、悟空は顔を横に向けて机の木の冷たさを片方の頬で感じている。
 視線の先には一本の竹があった。それは宿屋の主人が知り合いから譲って貰ったもので、今夜は七夕だからと一室一室竹を置いてくれたのだ。勿論短冊も忘れずに。
「あれ?」
 悟空はたくさんの短冊をつけ重そうにしている竹へと近付いていくと、とある1枚の短冊を手にした。
「これ八戒だ。八戒も書いたんだ」
「ん?どれどれ…」
 カタンと音を立て、椅子を引いて立ちあがると、悟空へと近付いてきた悟浄は彼の手にある紙を覗き込んだ。
「…なんだかねえ。八戒らしいっつーか、なんつーか…」
 悟空の手にしている、その短冊。
 そこには『いつまでも傍にいれますように』と、少し斜めの細い線でそう書かれていた。
 何ごともなく、彼らと一緒に旅ができますように。
 誰一人欠けることなく、、無事に旅が終えられますように。
 笑顔を乗せた彼ら傍にいつまでもいられますように。
 そして…いつまでも三蔵の傍にいられますように。
 八戒が書いた1枚の短冊には、そんな意味が込められたいたのだった。






END