SAIYUKI
NOVELS 64
偽宮内異種族 2 2002.5.27
SANZO×HAKKAI
  子猫は慌てて逃げだしました。ところがあまりにも慌てていたためでしょうか、三蔵に未だ尻尾を踏まれたままだということをすっかり忘れてしまっているようです。おかげで逃げ出そうと前へ進もうとしているのですが、もちろんそれはかないませんでした。
 ところがひっぱられる尻尾でやっと思いだしたのか、子猫は三蔵の顔はまったく見ず、ひっくひっくとはんべそをかきながらも、一生懸命恐怖と戦いながら尻尾を引っ張り始めました。
  そんな子猫の姿を無言で見ている三蔵。結果はどうであれ、彼には悪気なんて少しもなかったのです。だから子猫が自分の尻尾を力一杯引っ張っている姿が可愛かったとしても、泣きながらのそれがあまりにも気の毒だったので、三蔵は足をすっとどけてあげました。ところがタイミングが悪いというのはまさにこのこと。たまたま子猫が力を再度入れ直したときだったものですから、子猫は勢いあまってコロコロと転がってしまいました。
「いたた…」
  起き上がった子猫は小さな体を丸めてさらに体を小さくすると、同じくとても小さな手で頭をさすっていましたが、すぐに尻尾を掴むと、踏まれていた箇所にふーっふーっと息を吹き掛け始めました。
近くに畏怖の対象だった三蔵がいるというのに。
「どうしてこんなところにいる?」
  その低い声にはっと顔を上げれば、射るような強いまなざしがありました。
「…うっ…」
  だんだんと子猫の目が涙でいっぱいになっていきます。瞳はうるうるとゆらいでいき、愛らしい顔が歪んでいきます。
「泣くな」
  突き放したような冷たい声音。言われている意味は確実に理解できているのに、涙が止まる気配はありません。
「泣かないと約束するなら、お前を食わない」
  元々三蔵は食べるつもりなどこれっぽっちもありません。それなのにそんなことを口にしたのは、そうすれば泣きやむかもしれないと考えたからです。その思惑は見事に的中したようで。
「……本当?」
  震える声を出しながらも、子猫は小首を傾げて尋ねてきました。
「ああ」
「…わかりました」
  子猫はぐっと奥歯を噛むようにして口の端を下げると、小さな口を一文字に結びました。この一見大きく怖そうな豹の言葉の通りにするために一生懸命なのですが、それでも急に涙が止まるわけではありません。恐怖心は未だ残っているのですから。その証拠に垂れた子猫の耳は小さく震えたままです。
「……俺は泣くなと言ったはずだが?」
「泣いてなんかいません」
  それが虚勢であることは明らかでした。目には涙が溜まっていて、声も涙声だったからです。ですが三蔵はそれに対しては何もいいませんでした。こんな小さな子供が見知らぬ土地で一人きなのは心細いでしょうし、目の前には自分より遥かに大きく、口を開けば凶器である鋭いの牙が挨拶をするのです。それなのに頑張って泣くのを堪えているのだから、子供にしてはそれで上出来だと思ったのです。
「ここで何をしている?」
  さきほど回答が得られなかった質問を再度繰り返しました。相手はまだ物心もついていない子供なのですから少しは物言いを考えればいいのに、彼はそんなこと関係ないというように、それはいつもとなんら変わらないぶっきらぼうな声音で、視線はずっと子供に向けたままでした。それなのにさきほどまで震えていた子供の体は今はすっかり収まり、三蔵の物言いにや鋭いまなざしにも慣れてしまったのか、ただ三蔵の瞳をじっと見返すだけでした。
「おいっ」
「はいっ」
「何をしてるのか聞いてるんだ」
  どこかぼーっとした感じでしたが今度こそ言葉の意味をしっかりと理解したようです。
「おさんぽをしていたんです」
  それはもう嬉しそうににっこりと笑顔を向けてきました。
「………」
  初めて見た笑顔。それはその子供本来のものかもしれません。無垢で暖かく柔らかなそれは、今まで見たことのない、初めて出会った笑顔でした。
  さきほどまで脅えていた子供。畏怖の対象だった自分に笑顔を向けてくることにとても驚きましたが、それよりもこの笑顔をずっと見ていたいと一瞬でも思ってしまった自分の感情にも、三蔵は驚きました。
  ところが。
「ここはお前みたいなのがくるところじゃねえ。さっさと家に帰れ」
  三蔵の口から出た言葉は自分の気持ちを否定するものでした。
  三蔵は今まで常に一人でした。別に誰とも接触をしていなかったわけではありません。悟空や悟浄とは話をしたり出かけたりしています。それでも大体は向こうから来ることが多く、自分から出向くことはあまりありません。そんな感じなのに、ましてやたとえ同族とはいえど、見知らぬ人とともにいるはずがないのです。だから一瞬でも浮かんでしまったその感情に狼狽するとともに、自分でも呆れ、嫌気がさし、そんな言葉を発したのでした。それにこんなに小さくか弱そうな子供が園内をうろうろしたら、すぐに目を付けられて、食べられてしまうでしょう。それほど、狂暴かつ驚異的な者がたくさんいるのですから。
「でも……」
「でももくそもねえっ!さっさと行けっ!」
  最後に脅すように罵声に加え、子供とは違う長く鍛えた尻尾で、地面を一つばしっと叩きました。その音で子供はびくりと体を震わせます。そしてまた潤んできてしまった瞳を揺らしながらすがるように三蔵を見つめましたが、三蔵の強い瞳に適うはずがありませんでした。
  本当はもう少し、この広い草原を歩いてみたかった。
  本当はもう少しこの目の前にいる綺麗な人を見ていたかった。
  ですが子猫には許されなかったのです。
  あまりにも体が小さすぎることと、危険というものはとても身近に存在することをまだ知らなさすぎましたから。
「………」
  子供はくすんと小さく鼻をならすと、やっとあきらめたようでそろそろと振り向き、重い足取りで来た道を戻り始めました。
  途中一度だけ振り返って三蔵を伺い見ましたが、子供がここから去るのを見ていた三蔵が再度尻尾を大きく振って強く地面を叩き威嚇すると、子供は仕方なさそうに帰路につきます。そのとぼとぼと歩く後ろ姿をいつまでも三蔵は見つめていました。






続く