SAIYUKI
NOVELS 32
HOME  - 懐中 -  2000.9.21
SANZO×HAKKAI
 八戒は自分が住んでいるところではないのにもかかわらず、すでに何度も通っているこの廊下をみんながいる部屋へと向けて歩いていた。
 昨夜は結局帰宅しなかったのだ。
 悟空が可愛らしくおねだりをしてきたのと、三蔵からの初めての夕飯の催促に、朝食までも作ってあげたくなったのと。
 悟浄も何も言わずに一緒になって泊まってくれそうだったので、三蔵の許可に甘えて久々にここに泊まり、そしてこれまた久々にこの面々で朝食に向かうことができる。
 今回も我侭を言って厨房を借り、4人の中で誰よりも早く起きた八戒は、朝っぱらから人の数倍食べる悟空のおかげで作る量も半端ではないのでとても大変なお仕事ではあるが、みんなの「美味しい」といってくれる顔を想像しながら一生懸命に朝食を作った。もちろん、食後の一服である飲み物も忘れない。
 それを大事そうに抱えて、こうして向かっているのだ。
「おはようございます」
「おはよ、八戒っ。わーいっ、メシだ〜っ」
「はよっ」
 うんうん。みなさんちゃんとご挨拶が行き届いていますね。
 と保父さんの気持ちのままにっこりと笑って、テーブルの上に置かれた朝食に伸びてくる手を眺めていたが。
「…あれ。三蔵は?」
 ただ1人姿がないことに今更ながら気がついた。
 彼のことだから、テーブルに座っていなくとも、ソファに座って読書をしていることが多いのに。
 それなのにソファにも姿がなかった。
「ああ。奴ならどっかにでかけたぜ」
「…そうですか…」
 せっかく久しぶりに朝食を作ったのに。
 久しぶりの朝食をみんなで食べたかったのに。
 自分からはめったにここにこれるはずがない。絶対に悟浄は気にしないだろうが、自分は気にしてしまうのだ。なんとなく彼に申し訳なくて、ここに来たいとはあまり言えない。
 自分は彼の家に住ませてもらっている身なので。
 まして三蔵だって、旅から戻ってずいぶんと経つがそれでもまだ公務が残っていて、そう易々と悟浄の家に足を運ぶことができないことぐらい八戒にもわかっている。
 だからこそ。
 次はいつ一緒の時間を過ごせるかわからないからこそ。
 朝から幸せな暖かいときを、と思っていたのに。
(…そんなことを思っていたのは自分だけだったんですね)
 少々寂しくなる八戒だった。
 どこに行ってしまったんだろうか、こんなに朝早くから。確か昨日も悟空と散歩に出かけている間に用事で出かけてしまったらしく、戻ってきたのもそれなりに遅い時間だった。
 しかし。
 激しく戸が悲鳴を上げて。
「サンゾーっ、おせーよっ」
 綺麗な髪を少々乱しながら三蔵が戻ってきた。
「すまん」
 八戒の瞳を見て発する謝罪。それは完全に八戒のみへと向けていた。
 結局のところ、三蔵も八戒を主に動いているようである。
「…いいえ」
 彼はちゃんと戻ってきてくれた。
 食事のことを気にしてくれていたのだろう。
 自分が一番で、自分の思う通りにしか行動をしない三蔵は、やはりめったに急ぐことをしない。というか、つまりは疲れるような面倒なことを一切しないのである。その彼が自分の髪が乱れるくらい急いで戻ってきてくれたのだ。
 それだけで八戒には充分だった。
 懐かしいこの光景。
 彼らは今、取り戻した昔の時間を満喫していた。





 相変わらずの大家族のような騒がしい食事を終え、食後の一時を楽しんでいたときだった。
「八戒」
 名を呼ばれて顔を上げれば、三蔵の視線とぶつかった。
 くいっとあごをしゃくって外へと促す彼の瞳がとても鋭いものだったので、もしかしたら何かあったのかもしれないという緊張が八戒の体を突き抜けた。
 三蔵の後に続いて外へ出るときも、昨日と今日の彼の行動を振り返ってみる。
 昨日の夕方まではいつもの彼だった。それともすでにそのときから何かが起こっていたのかもしれない。だから夕食の献立のとき考えに熱中していて、つい上の空で「ハンバーグ」などと彼らしくない注文をしたのかもしれない。
 たしかによくよく思い出してみると、あのときの彼は相槌もどこか上の空だったような気がする。
 そう考えると、今朝の行動だって納得のいくものだった。
 いつもの三蔵なら「早起きは三文の得」ということわざを鼻で笑うほど、朝から行動するということには縁遠い彼。そんな彼が外出をしていたのだ。
 自分のことを「内に秘めてしまう奴」とか「考え込みすぎ」とか色々と言っているが、そういう三蔵だってあながち人のことは言えなかったりするのだ。
 何かあったとき、彼はほとんど内々ですませる。もしくは、自分だけでは足りないとき、人の手があった方がことが上手く運ぶとき、そういうときだけ他の人に知らせて、関わり合いのある本人の知らないうちに解決へと話しを進めてしまうのだ。そして三蔵は知らぬ存ぜぬで、いつも通りに日々を過ごす。
 それが彼の不器用ゆえでもあり、優しさでもあった。
 今回は自分に知らせるということは、悟空が悟浄に関わることなのだろうか。
 行けども行けども何も話してはくれない三蔵。
 こちらに向けている背が問いかけを拒んでいるようで。とても重大な重々しいものを秘めているようで。
 いつになったら話をしてくれるのか、待っているこっちが気が気ではない。
 もうすでに宿屋を出てから結構経っていて、昨日三蔵と偶然であったあの森の入り口まで来ていた。
 しかし三蔵の足は留まらず、そのままスタスタと森へと足を踏み入れる。
 さすがの八戒もここまでくると我慢できずに。
「あの…三蔵?」
 その呼びかけに答えてくれたのか。彼は足を止めた。
「どうしたんですか、いったい…」
「ここをどう思う?」
 森の入り口にほど近いところ。ここだけちょうど木々が生えていなかった。
 案外広々としている空間なので、悟空などが遊んでも大丈夫だし、ピクニックにもいい。
 なんといっても、小鳥のさえずりが心を和ませてくれるのが、とてもいい。
 春は小動物が楽しげに動き回り。
 夏は大樹が照りつける日差しをさえぎり、心地よい風を運んでくれる。
 秋には様々な種類の実がたわわに実り。
 冬には心にぐっとくる銀世界を演出してくれる。
 そんな印象を受ける、素晴らしい森。
「とてもいいところですね」
「ここに家を建てようと思ってな」
「えっ」
 三蔵という最高僧が寺院を離れるなんて、突拍子もないことをいうものだ。
 本気かと一瞬疑ったものの、彼が下手な冗談を言うわけがないという事実に気付いて、改めて三蔵を見つめる。
 どこを見つめているのだろうか。八戒からは三蔵の横顔しか見えなかったが、それでも瞳が真剣なのは伺えた。それにしても少々戸惑っているような、落ち着きがないような、そんな感じがするのは、自分の気のせいだろうか。
 ああ、そうか。彼だって不安なのかもしれない。完璧な人間なんていないのだから。
 三蔵だってわかっているのだ。本来ならば寺院から出ることなどあってはならないことを。それでもあえて出ようとしているのに、身内に否定されたのであっては、いくら三蔵でも落ち込むことだろう。どうせ彼のとだから、1度口にしたことは何がなんでも、三蔵という名の権限を使ってでも実行するはずなので、今回も自分がとやかく言ったとしてもどうにもならないのだ。それならちゃんとうけとめよう。
 せっかく旅から帰ってきたのに、相変わらず悟空のことを影でこそこそ言っている、ねちっこい奴らがいることを八戒は気付いていた。
 今回の件はそのためだろうと八戒は予想した。
「そうですねえ…」
 キョロキョロとあたりを見まわして考える。
「デメリットが大きそうなところですが」
 先ほどとは声音が違う気がした三蔵は、ゆっくりと八戒を正面から見据えた。
「それ以上にメリットの方が上回る、素晴らしいところだと思いますよ」
 その笑顔があまりにも優しくて。
 今の三蔵の不安を暖かく包み込んでくれているようで。
 正直、昨日した決心が揺らいでいたのところだったが、すっと何かが吹っ切れて、八戒から視線をそらさないまま、躊躇する間もなくするりと言葉が口から出た。
「一度しか言わん」
 三蔵の瞳が八戒の瞳を射る。
 お互いに絡み合い、そらすことを許さない。
「一緒に住んでくれ」
「えっ」
 優しげな仏の笑顔が消えた。
 大きく目を見開らいて、信じられないという表情をしている。
「つまり」
 三蔵は懐から白いハンカチをとりだした。
 小さく折りたたんであるそのハンカチを丁寧に広げて行く。
「これをはめてほしい」
 それは細いシルバーリング。
 細工も何もないシンプルなそれは、世間でいう2人を縛り付ける鎖代わりのものではないだろうか。
「お前の近くにいるのが俺じゃないと胸クソ悪くていかん。まして俺の近くにお前がいないなんざ、もっての他だ」
 八戒は動かない。
 三蔵の言葉が耳に届いてるのか危惧するほど、ピクリとも動かなかった。
 ハンカチの上にあるリングを凝視したまま。そこから視線を外すことさえもしない。
 どうしたものかとうろたえていたとき。
「…あなたが…はめてくれますか?」
 細々とした声。それはかすかではあるが震えていたようだった。
 表情を伺ってみても視線は変わらずリングに置いたままで。しかし右手が何かを離さないよう、ぎゅっと力強く握られているのを、三蔵は瞳の端に止めた。
 三蔵は右手で、左手の手のひらの上に白いハンカチごと乗せてあるリングを取る。
 木漏れ日がそのリングを反射させ一瞬キラリと輝いたのに、まだ視線をそられないでいた八戒は瞳を細めた。
 左手で八戒の左手を取り、躊躇することなく指輪をはめるのは薬指。
 八戒は三蔵のその流れるような作業をただ見つめている。
「よし」
 ちょうどいい大きさ。
 いつ自分の指のサイズなど知ったのだろう。いつこんなものを用意したのだろう。
 そして思い立つ。
 昨日と今日の用事はこのことだったのかと。
「本当にあなたには…」
 そこで声は途切れた。
 三蔵はその続きの言葉を聞きたくて、視線を指輪から八戒へと向けた。
 きゅっと口の端を引き締めている唇は細かく震え。
 瞳からはすっと涙が流れた。
 その涙を三蔵は優しく拭ってやる。
 八戒は左手を目の高さまで持っていくと、もう一度、今だ信じられない色を宿したまま見つめた。
 そんな八戒に対して自分を主張するように、指輪が陽に反射してまたキラリと輝く。
 そしてまた流れた涙をも陽は反射させる。
「泣くな」
「泣いていませんよ」
 言った傍からまた涙が流れる。
 さきほど拭った涙はとても暖かいものだった。それをわかっていても、やはり涙は涙である。三蔵は八戒の涙を止めたくて、目元に口付けた。
 やはり彼には笑っていて欲しいから。
 作り笑顔ではなく、心からの笑顔で。
 そして唇を重ねあう。
 八戒の頬に触れた三蔵の手に、八戒は手を重ねる。
「僕を幸せにしてくれますか?」
「お前がそうしてくれるならな」
「んー。それはどうでしょう」
「いや、心配はいらんな」
 お前が傍にいるだけで。
 そう呟いた三蔵の声がとても嬉しそうだった。
 左手を飾る1つの指輪はまだ指になじまないが、これが体の一部となったころ、三蔵とはどういう暮しをしているだろうか。
 現実問題として悟空と悟浄にはどういうふうに報告をするかが問題だが、それよりも今はもしかしたら今までで一番幸せなひとときに浸ろうと、三蔵の首に腕を回してもう一度八戒はキスをねだった。
 風が葉をなびかせ。
 風が小さな花を乗せ。
 2人の上に降りかかる。
 そして陽の光りが演出をするきらびやかなその空間は、小さな2人だけの結婚式のようでもあった。






END