SAIYUKI
NOVELS 30
HOME  - 思惑 -  2000.9.17
SANZO×HAKKAI
 今日はあれだけ自分で賞賛できるほど頑張っていた公務を、一切やらないことにした。
 飽きたからではなく、面倒だからでもなく、疲れたわけでもなく。
 ただ八戒が来ているから。
 でもそれは三蔵にとって、とても重大なことだった。だって、あれだけ望んだ者だったから。
 その八戒が近くにいる。それなのに、公務なんぞに時間を割いていられるか。
 この貴重な今を大切にしなければとばかりに三蔵は自室にはこもらず、客間と言うにはおこがましい部屋に、悟空、悟浄、そして八戒とともにいた。
 今この少しの時間だけ、あのときに戻っている。
 もう過去となってしまった、西域へと旅をしていたあのころに。
 ソファに座って新聞を広げる。そうしても少し高めの声が耳に届く。
 視線を上げて八戒を見る。その視線に気付いたのだろう。八戒は三蔵を見ると、はんなりと微笑んだ。そして、スレンダーな体が自分の前をすべるように移動する。
 漆黒かと思いきや陽の下へ出ると少しだけ茶が混じっている、彼のそのさらさらな髪が歩調に合わせてリズムよく動き、なびく。
 その髪1本までもを逃さないように、じっと彼を見つめる。
「悟空。今日の夕飯は先ほどのきのこを使いましょうね」
「わーいっ、八戒がつくってくれんの?」
 八戒の近くをうろちょろしている悟空は、その声だけで満面の笑みを浮かべているだろうことを安易に想像させてくれるほど、喜んでいるようなものだった。八戒が来てくれたことがとても嬉しかったのだろう。
『八戒いっしょにとんぼみよう』
 それは昨日、悟空が八戒宛てに書いた手紙。実際それを読んで、八戒はわざわざ来てくれたのだ。もちろんジープの二日酔いという偶然が重なってのことだったが。
 その悟空の字から、言葉から、彼がどれほど寂しがっているのかが伺い見れたと、さっき2人でここにくる途中、八戒は言っていた。
 だから今日の夕方、八戒と悟空は散歩へとでかけるらしい。どこまで足を運びましょうかと、2人で相談しているのを耳にした。
 八戒の姿を見れて、八戒の作るご飯を食べれて、八戒と一緒に散歩ができる。
 どんなにそれが幸せなのか、悟空もこの離れている間にわかったようだった。
 以前4人で旅をしていたあの危険極まりない旅が、反対にどれだけ幸せなものだったかを。
 そういえば悟浄が三蔵にしか聞こえない声で、悟空のことを言ってきたのを思い出す。
 さきほど。さすがに恥ずかしかったのか手をすでに離して三蔵と八戒が戻ったとき、八戒の姿を見た悟空の顔を忘れることができない、と。
 さきに来ていた悟浄は、今日は八戒と一緒にきていて、八戒が悟空と散歩に行きたがっていたということを悟空に言っておいたという。それを聞いた悟空はすぐ部屋を出ると、八戒と三蔵が戻ってくるのを待っていたらしい。
 一点を凝視して、ただひたすら2人を待つ。いつ戻って来るかわからない、大好きな2人を。
 そして悟浄も悟空に付き合って、外に出て彼らを待つことにした。
 本当は久しぶりに会った彼らだ。どうせすぐには来ないだろうとわかってはいた。しかしそれを口にすることが、とうとうできなかったのだった。
 悟空の態度を見てわかってしまったから。いかに淋しかったかを。
 必死だった。すがるようだった。
 それはまるで母親と引き離された子供のような印象を受けたほどだ。
 それなのに止められるわけがない。「行くな」と冷たく言えるわけがない。
 悟浄は階段に座って煙草をくわえながら、少しでも遠くが見えるようにと木によじ登り森からの1本道を見つめている悟空をぼーっと見ていた。
「きゅ〜」
 先に姿を現したのはジープ。
 そしてガサガサと音がして…。
「八戒っ」
 三蔵の少し後ろにひっそりと歩いてくる八戒を悟空は目に留めると、ぶんぶんと大きく手を振って自分の存在を主張する。
 そのときの、一点を見つめる寂しそうなその表情がだんだんと嬉々とした表情へと変化していく悟空の顔を、忘れられないと悟浄は言うのだ。
 その姿を見てしまったら、いつも軽口を言っては悟空をからかっている悟浄でも、さすがに可哀相に感じたほどだった。
 だからだろう。
 今日はいつになく、八戒にべったりの悟空だった。
 目は八戒を追い、八戒が微笑めば嬉しそうに笑い返す。
 八戒に言われてテーブルに座った悟空の足がプラブラと落ち着きがないのは、八戒が散歩に行く前に腹ごしらえに食べ物を持ってきてくれると言ったうからだろうか、それとも八戒に会えて嬉しいと逸る気持ちの現れだろうか。
 三蔵は自分も本当は悟空と同じような気持ちになっていたはずなのに、すでにゆっくりと2人だけの時間を満喫したせいだろうか、いつもの冷静な目で今のことの状況を分析していた。
「三蔵は何が食べたいですか?」
 その突然の八戒の台詞。
 最初に自分の名を呼ばれなければ、自分に話しかけられたことすらわからなかったことだろう。
 今まで一度たりとも聞かれたことのないことだけに、驚きをかくせない。
「ああ…そうだな…」
 にっこりと微笑んで夕食のメニューを尋ねてくる八戒。
 いつもこんな表情を悟浄は1人占めしているのだろうか。
 いつもこの笑顔でこう聞かれているのだろうか。何が食べたいのかと。
 とても羨ましいと同時に、嫉妬心が芽生える。
 どうして恋人関係の自分がそんな羨ましい光景を味わえないのだろう。
 八戒が近くにいたら、こんな気持ちにはならないのだろうか。
 愛しい人を思って重い心のまま、森へと向かう自分。
 見にくい嫉妬心に燃える自分を忌々しく感じてしまったり。
 そんなことがなくなるのだろうか。
「……ハンバーグ」
「えっ…」
 してやられたのは八戒だった。まさか三蔵からそんな返事が返ってこようとは。
 そう感じていたのは自分だけではないようで、悟空は固まっているし、悟浄においては激しいせきをしている。煙を吸い込みすぎて蒸せてしまったようだ。
 三種三様に三蔵の言葉で驚倒したものの、やはりいち早く復活したのは八戒だった。
 しかも、返す言葉ににっこりと笑うことを忘れない。
「わかりました。ハンバーグですね」
 さすがだ八戒っと、すかさず悟浄は思った。
 ハンバーグ…と今の三蔵の言葉を反芻して、心の中で小さく笑っている八戒。こういうところが見かけに寄らず子供っぽいところだと、カッコイイ彼を可愛いと思えてしまうところだろう。
 今日はとても嬉しかった。偶然にもあの森で出会うことができたから。
 葉の隙間から指す太陽の日差しが三蔵の髪に反射して。
 それはまるで神様のようだった。
 手の届かない遠い存在のような三蔵が実は自分の恋人で、そしてたまに見せてくれる可愛らしい一面が自分に対してだけなことがわかっているだけに、自分は彼にとって特別なのかもしれないと思い、嬉しさが倍増する。
 悟空と散歩の帰りにでも材料を買いに行こうとルートを考えている八戒は、三蔵が送ってくる視線が意味ありげのものに変わっていることに気付くことはなかった。






END