|
|||||
家の中をすべるように移動している空気に乗って、食事のいい薫りが届いてきた。
それを察知した鼻はそのまま脳へ、そして胃へと指令を送り、やがて三蔵はゆっくりと覚醒した。
カーテンの隙間から朝陽が漏れて、大きいサイズのベッドのちょうど1人分空いた空間を照らしていた。
やってきた朝。それは必ず訪れるもの。そして今日もまた1日が始まるのだ。なのに、なぜか今までの朝とは違って思えるのは、この2人の家で、2人で向かえる初めての朝だからかもしれない。
三蔵だって2人の生活を楽しみにしていたのだ。
柄にもなく、色々と考えてたりして。しかしその中には今日のように、「朝食の薫りで目覚める朝」というものは含まれていなかった。よくよく考えてみると、この体験はもしかした初めてかもしれないということに気付いたが、これが案外気持ちいいものだと三蔵は実感した。
たとえ今、このベッドにいるのが、自分ただ1人だとしても。
時計を見る。
まだ起きるには少々早いようだが、また寝るには時間がない。
「………」
三蔵は1人ではあまりにも寂しすぎるキングサイズのベッドから出ると、ゆっくりと窓へと近付いて、シャッという軽い音を立ててカーテンを開けた。
解放された光は、暴れるように室内へと入ってくる。
あまりにも突然の、あまりにも激しく眩しいその朝陽に、三蔵は一瞬くらみそうになった瞳を細めて手でかばう。少しだけそうして瞳が明るさに慣れてくると、今度は窓を全開にした。
注がれる日差しと広大に広がる青々とした空は、今日も暖かくなりそうな予感をさせるが、それでもまだ朝だけあって冷たい空気が室内へと流れてくる。
1つぶるりと震えると、テーブルへと戻って椅子にかけてあった上着を手にし、ついでにテーブルの上に置いてあった煙草と灰皿を持って、こりずにまた窓へと戻る。そして自分の胸くらいまである窓のサンに背を向けて寄りかかると、左手で灰皿を持ち、朝の喫煙タイムに入った。
煙がゆらゆらと揺れながら、自由をもとめて外界へと旅立って行く。
何気なしにその煙を目で追っていたのを中断すると、先ほどまで自分が横になっていたベッドへと視線を向けた。
自分が目を覚ましたときにはすでに愛しい人の姿はなかったけれど、しかしこの薫りを作り出しているのが彼だと思うと、外から入ってくる冷たい風が心の中をも支配していたが、その風が瞬間にしてやんだのがわかった。それでも朝、鳥の泣き声を聞きながら彼の寝顔を見てみたいという気持ちだけは変わらず、いつか必ずしてやろうと三蔵は決心する。
床に灰を落さないよう細心の注意を払いながらベッドへと近付き、煙草をくわえて右手を開けると、そっと八戒が眠っていた場所を手で触れてみる。
すでに冷たくなっているそこには、あの暖かい彼の温もりは微塵も残されていなかった。
いつごろ彼は起きたのだろうか。
自分のために早起きをし、自分のために朝食をつくる。
以前旅をしていたころも、この始まった生活と似たようなことは多々あった。まして同室だったことは数え切れないほどで。
彼と関係を持ったことだって数え切れない。
だからこそ同じベッドで寝て、彼の寝顔を見、朝は1人で目を覚ます。それも数え切れないほど。
彼が朝食を用意してくれるときは、今日のようにとても早く起きている。何度か同様にベッドに触って伝わった温もりを確かめたが、毎度それは冷たいものだった。
彼が朝食を用意してくれなかったときでも、ほとんどを自分より早く起き、何かしら色々と準備をしているようだ。
そして必ず自分は彼の優しい声で目を覚ます。
『三蔵、朝ですよ』
その声で。
「…三蔵…」
カチャッと、ドアが開いて八戒が姿を現した。
「なんだ。起きてたんですか。せっかくあなたの綺麗な寝顔を拝めると思っていたんですけど」
役得がなくなっちゃいました。
にっこり笑ってそんなことを言う八戒だったが、そう思っているのは自分だと、三蔵は心の中で呟いた。
旅のときは同室になるのは賭けだった。
もちろん作為的にするときも多々あったが、でもこれからはそんなことをしなくていいのだ。
当たり前のように毎日同じベッドに寝て、当たり前のように毎日彼の温もりを感じることができる。
「妙なことぬかしてんじゃねえよ」
三蔵は気付いていないのだろう。今まで何度か彼に直接言ってきたはずなのに。
どんなに綺麗な姿で体を休ませているのかを。それとも彼は信じていないだけだろうか。
この2人の新生活最初の朝。
昨晩は高揚感で一杯になっていたので眠れないかもしれないという不安があったが、さすがに疲れていたようで、不安なんぞなんのその、すぐ眠りにつくことができた。そのかわり八戒は朝とても早く目が覚めてしまったのだ。本当はもう少しの間三蔵の温もりを感じて、そしてこの幸せをかみ締めながら、うとうととしていたかったのだが、すっかり頭は冴えてしまったようでいっこうに眠りにつく気配がなかった。
何気なしに三蔵のへと視線を向けて、そして外せなくなった。
今までだって彼の寝顔は幾度となく見てきた。
綺麗な金髪。
あのときたま冷たい色を浮かべる瞳が閉じられると、綺麗な姿がいっそう輝きを増す。
案外まつげが長いんだなと、今まで何を見てきたのかわからないが、今更ながら新発見をしたりして。
その幸せをまた味わえると思ったのに。
「本気だったんですけどねえ…」
ちょっとばかり悲しくなる八戒だった。
「朝食できてますから、降りてきてくださいね」
せっかく作ったのだから、冷めないうちに食べてもらいたかった。
しかし。
いつの間にか三蔵が八戒へと近付いてきていた。
まだ半分以上も残っている煙草を灰皿へと押しつけ消すと、ぐいっと八戒の腕を掴んで自分の方へと引っる。
「うわっ」
予想していないのに体の力を入れられるはずがなく、いとも簡単に八戒は三蔵の胸へと頬を寄せていた。
「…さん…」
「何か忘れてんじゃねえか?」
「え?」
なんだろう。八戒は考える。
朝食は作った。法衣の埃はすでにはらってある。新しい煙草だって出してあるし、部屋の空気の入れ替えは……三蔵が先ほど窓を開けてくれたようだ。
八戒は視線を窓へと向けたまま、明らかにクエッションマークが飛び交っているような表情を、小首をかしげながらしていた。
その八戒の様子にてんで考えている方向が違うことに気付いた三蔵は、はあと大きな溜め息を吐いて早々に降参する。
顔を近づけ、八戒の柔らかい唇に己のそれを軽く触れさせた。
「これだ」
「あ…」
寝顔は見れなかった。だからこれくらいの幸せは頂いてもいいだろう。
三蔵がそう思ってもう1度口付けると、時間を少しずらして八戒も同様のことを考えていた。
そして3度目の口付けはどちらからともなく交される。
どれもがそっと優しく触れるもの。
ただ本当に挨拶程度の軽いもの。
それでも相手の温もりを感じ、相手の薫りを嗅ぎながらのそのキスは、心が暖かくなるものだった。
それはまるで春の日差しのような…。
「三蔵?」
小さく呼びかけてくる彼。
視線を八戒のそれと合わせることで返事代わりにする。すると彼は春に咲く花のように、暖かくそして柔らかい心和む笑顔を、だんだんと満面に浮かべた。
そして。
「おはようございます」
「…ああ」
ゆっくりと抱きしめ合う。
窓からは日差しが入って2人に光の雨を降らせている。
それはそこにだけ春が訪れたような、そんな印象を感じさせるのだった。
END