SAIYUKI
NOVELS 39
HOME  - 新興 -  2000.11.24
SANZO×HAKKA
I
 三蔵の1日は煩い猿に起こされることから始まる。
 その猿が「腹へった」と騒ぎたてるのを、無理やり引きずって寺院へと向かい、そこで野放しにして夕方まで過ごし、帰りは街へと出かけて夕食を取って自宅へと戻る。
 それが新しいあの家で生活するようになってからの、三蔵の1日のリズムだった。
 そして今日もまた、いつもと同じ1日が始まる……はずだった。
 今朝まではそう思っていた。
 …本当にいるのだろうか。
 それは朝から何度となく繰り返される1つの疑問。
 その疑問が頭をもたげるたびに、三蔵の手はいつの間にか止ってしまって考えに没頭していた。やらなければならないことは山のようにあり考え込んでいる暇などあるわけがないのに、頭からその疑問を振り払ってもまたふとしたきっかけで出てきてしまうのだ。
 そして今も同じ疑問に悩んでいる自分に気付いて、三蔵はあざけるように笑った。
 そう。それは自分自身に。
 いつの間にこんなになってしまったのか。
 いつの間に彼の存在がここまで大きくなってしまったのか。
「………」
 三蔵は自分の左手でキラリと輝くシルバーリングに目を向ける。
 彼とこれをかわしてからそんなに経ってはいないはずなのに、遥か昔のことのように感じられるのは多分現実でつきつけられていなかったからだろう。
 これが最初で最後ではないかと思われるほどの一大決心をして行動に移した結果、八戒から同居のOKをもらったのが3ヶ月前のこと。次の日から自分の権限と名前とを使い、鋭い眼光での無言の威圧と頑なな態度によって作業を早くさせることにより家が完成したのが半月前。
 寺院の中では三蔵が寺の外で暮すことに異を唱える者もいたが、彼の態度が気にくわない者や彼が自分よりあまりにも年が若いということがいまだ気になっている者などは、彼が旅をしていてここにいなかったあの夢のようなときのことを思うと、一瞬嫌な顔をするが思いのほかあっさりと三蔵の意向を受け入れる者もいた。昼間は寺院にいるのだからそれでいいという言い分で。まあ三蔵からすればどんなに言われようとも、他者の言葉など関係なく寺院を出るつもりだったのだが。
 そしてあの木の薫りに包まれている新しい空間に、たいした荷物もない三蔵と悟空は悟浄と八戒より早く1週間前に引越しを済ませていた。悟浄と八戒は引越しの準備が遅れているとかで、昨日まではやかましい猿と一緒に暮していたのだ。ところが今朝ジープが運んできた手紙には、八戒の丁寧な字で今日引越しできると書いてあったのだ。
 それは待ち望んでいたことで、とても嬉しいことなのだが……。
 別に八戒を疑っうつもりはないし、彼のことだから嘘をつくともとうてい思えない。それなのにまるで第三者になって夢のできごとを傍観しているような、そんな遠い感じがしてしまうのだ。
 2人だけで住む新居はとても寒々しいもので、あの広い空間に悟空の騒がしい声は響き、彼が寝たあとは新聞をめくる乾いた音のみが人工の光に対峙して、衣擦れの音がみょうに大きく聞こえていた。
 それが偽りの家庭のようだと感じるほどに。
 この家にいるはずの人物がまだいないだけなのに。八戒の気配を感じ、足音を聞き、八戒の声が耳をなぞる。それがないからだろうと三蔵は分析した。
 そうしたとたん、ここまで弱い人間に成り下がった自分自身に腹を立て、沸き立つ違和感を無理やり押さえ込んだ。
 そうして過ごしてきた1週間。
 そんな、嫌な自分と対面して、寂しく寒いあの家に帰っていくということは、もう本当にないのだろうか。
 それは帰ってみればわかること。
 家が寒いか暖かいか、そう帰ってみさえすれば。
「………」
 ガタン。
 三蔵は誰もいないことをいいことに大きな音を立てて席を立つと、広い面積がある大きい机に敷き詰められた書類をある程度に集めてひとまとめにすると、机の端に乱雑に置いて部屋を出た。
 誰も寄せ付けない雰囲気を漂わせて三蔵は外を目指す。
「…三蔵さま?」
 外出することなどまったく聞いていない僧は、恐る恐る外へと向かう彼へと声をかける。
「どちらへお出かけですか?」
「帰る」
「待って下さいっ。公務は…」
「今日は終りだ」
「三蔵さまっ!!」
 追いすがる声を無視しして、三蔵は寺院を出た。
 だんだんと急ぎ足になるのを自覚していた。なのにもかかわらずあれほど近いと思っていた自宅への道のりはとても長く感じられ、いつまで経っても最近やっと見なれてきたあの家は見えてこない。
 やっとの思いで見えた自宅のドアを慌てて開ける。
 玄関からすぐ続いている居間には誰もおらず、ましてや引越しにつき物のの箱さえもなくて、そこは三蔵が朝出て行ったときと寸分も変わりがなかった。
 寒々しい偽りの家。
 …やはりな。
 三蔵は溜め息をついた。それには寂しさも込められていたが、気付かないふりをする。
 予想していたではないか、また昨日と同じように今日も1日が終るということを。たった数時間で自分の身の回りが変化するわけないということを。そして。
 見とめたくなかった、弱くなった自分を。
「……ぅ…ゃ……」
 向こうにある台所から悟空の声がぼそぼそと聞こえてきた。それは言葉として三蔵の耳には入ってこなかったが、多分自分がこんなに早く帰ってきたことに不信を抱いているのだろう。あたりまえだ、2時に帰ってくることなどありえないことだったから。
 悟空は今日は1人でこの家に留守番をしていた。悟浄や八戒が引越ししてくることが前提だったのだが、それにしても今ごろになって昼など悟空には絶対ありえないことだった。彼がそこまで空腹を我慢できるわけないのだから。もしかしたらもうすでに空腹を感じて盗み食いをしているのかもしれない。
 三蔵は苛立ちを募らせながら台所へと向かう。だが三蔵よりも先に向かうはずの扉が開かれた。
「やっぱり三蔵だっ!」
「えっ!?」
 奥から聞こえたその驚愕の声は、明らかに八戒だった。
 台所から慌ててこちらへかけてくる八戒の姿が目に入る。
「三蔵お帰りなさい。こんなに早く帰ってくるとは思いませんでした」
「……来てたのか」
「ええ」
 にっこりと嬉しそうに、それでいて少し照れくさそうに微笑している八戒。
 ずっと見たいと願っていた姿。ずっと求めていた人。
 その人が今目の前にいる。すでに諦めていたその姿が。
 三蔵が八戒を見つめ、八戒が三蔵を見つめる。
 こうして手の届く場所に2人でいることができる。
 三蔵が八戒へと手を伸ばそうとしたとき。
「……お取り込み中すみませんが」
 三蔵の手はその言葉によって止められ、そして八戒ははっと振り返る。そこには呆れ顔を隠しもせずにこちらを見ている悟浄の姿があった。
 一瞬にして完全に2人の世界をつくっていた彼らは、そのときになってやっと他者の存在に気付いたようである。
 悟浄からすればとても迷惑このうえないことで、目の前で勝手に2人でいちゃいちゃしそうな雰囲気をつくっていたのに、三蔵からは一喝しそうな感じの視線を投げかけられた。だが実際のところこの家には4人の住人がいるはずで、八戒の左側には悟空もいたのである。
「そーいうのは後にしてくんない?」
 三蔵の視線に首をすくめながら溜め息まじりに、覚悟してたんだけどさ、という言葉を付け加えて、ちろっとこれまた意味ありげに悟空を見る。
「まだガキがいることだし」
「別に俺はいいけど?」
「えっ」
「なぬっ!」
 だが悟浄の言葉をよそに、悟空はとても大人らしい言葉をしれっと言ってくれた。
「俺、三蔵と八戒が一緒にいるとこ見てんの好きだもん」
 たまにこういうように、思ってもみない物分りのいいことを言われると、誰が一番子供なんだろうと考えさせられることがある。そんな悟空には以前から驚かされていたが、今回はそれ以上に驚かされた言葉を発してくれた。
「それに俺、三蔵より多く八戒と一緒にいられるじゃん」
「!!」
 たしかに例え夜は自分の部屋に引き込んだとしても、家に人がいるのであれば寺院に悟空を連れて行く必要などなく、悟空は日中ずっと八戒と一緒にいられるのだ。対して三蔵はどんなに早くても帰宅するのが5時すぎである。どう考えても悟空の方が役得だった。
 大好きな八戒とするお買い物やお散歩。それが以前旅をしていたころのようにまたできるのかと思うと悟空にとってはとても嬉しいことだったのだが、彼がそのつもりがあって言ったのか周りが偏見を込めてそう聞こえてしまったのか、その勝ち誇ったような言い方は三蔵の逆鱗に触れてしまった。
「てめーらっ、とっとと上に上がりやがれっ!」
 さすがに銃はぶっ放しはしなかったが、今にもハリセンが飛んできそうな物言いに、蜘蛛の子を散らすように悟空と悟浄は居間を出て行った。
「…ったく」
「ぷっ」
 八戒の柔らかい笑い声を消すように、どたどたと階段をかけ上がる音や、バタンと戸が閉まる大きな音が聞こえてくる。
 それは旅をしていたころと同じようではあったが、しかしここは宿屋ではない。ましてや寺院でもない。
 新しい木の薫り。まだ綺麗すぎるほどの壁。建物内にいるのは自分たち4人以外はなく。
 そう。ここは新しい家。ずっと夢を見て、それでも諦めていた家庭というもの。
「この日をとても楽しみにしてました」
「ああ」
 旅をしていたあの幸せのころと同じようだが、確実にそのころとは違う時間が流れていくだろう。
 もちろん不安がないわけではない。それでもこの先が楽しみなのが上回る。
 この家にいる誰しもが「今が幸せ」といえるようにしていきたい。以前つくった家庭のように無残な終りにせず、たとえ何十年先に終りがこようともそれが幸せなものであるよう、皆が暖かい場所へと帰ってこれるようなそんな空間にしていきたい。
 それが八戒の望みだった。
 三蔵の顔がゆっくりと近付いてくる。
 それに合わせて八戒は瞳を閉じた。
 ゆっくりと重なり合う唇はとても温かくて。
 そして自分を包む空気もとても暖かく感じられた。
 大丈夫。この人がいてくれるのだから。
 自分がこの人の傍から離れず、この人を愛しこの人から愛されれば、それは大丈夫。
 なぜか八戒はそう確信できるのだった。






END