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八戒はニコニコと笑みを浮かべながら歩いていた。
もちろん道すがら、他の人とはすれ違わない。だからこそ自然に出てしまう笑みをこらえないですんでいた。
落としてしまったら壊れるというものでもなければ、割れてしまうものでもない。
使いものにならないわけでもなければ、味わえないものでもない。
貴重品でもなければ、人からの預かり物でもない。
それなのに八戒は、まるで大切なものがあるかのように、その物が入っている茶色い紙袋を腕に抱え込んでいる。
突然道の真ん中で立ち止まったかと思うと、顔からは笑みが消えている。
ガサガサという音をたてて紙袋を開け、中を確認する。
…ふふ。
またこみ上げてくる嬉しさ。
八戒がずっと待ち望んでいたものが、やっとさっき手に入ったのだ。
ここらでは珍しい、その店にもめったに入荷されないというもの。
以前マスターから教えてもらったときに、分けてもらえるようお願いしていたものだった。
八戒をお気に入りのマスターはもちろん即刻OK。
待ちつづけて早1ヶ月。
さきほど入手できたと連絡が入り、すぐ伺ったというわけだ。
値段は少々高め。それでも彼に飲ませてあげたかった。
そう。三蔵に。
悟空はご飯。悟浄はお酒。これが2人の些細なわがまま。ところが三蔵はそれがないのである。
唯一うるさいのがコーヒーだが、それもほとんど八戒が用意するので、彼のいれるコーヒーを好きな三蔵は、どんな品でも文句を言わずに飲んでくれる。
だからこそ、たまには小さな贅沢をしてもらいたかった。
彼はこの豆をどう思うだろう。
もったいないというだろうか。無駄な物とは言わないと思うが。
三蔵がこの後みせる反応が楽しみで、早く三蔵に飲ませてあげたい八戒の足取りはとても軽く、そして自然に足早になっていた。
「ただいま」
「待ってましたーっ」
そう言った悟空は本当に八戒のことを待っていたようで、声をかけてドアを開けた八戒の目の前で、どうしようという顔をしながら返事をしてくれた。
悟空のことだ。悩んで、でもいい考えが浮かばなくて、部屋の中をウロウロとしていたのだろう。
「おおっ、救世主っ」
神様仏様と信じてもいないくせにその言葉を口にしながら、八戒に近寄ってきた悟浄の顔にも、安堵という文字が大きく書いてあった。
「…何?”きゅうせいしゅ”って」
「言うなれば、今の俺たちにとって神様ってことだ」
「そうかっ。救世主〜っ」
嫌な予感がした。というより、それだけで大体のことはわかってしまう。
この分だとまた三蔵を怒らせてしまったのだろう。
95%の確信だったが、残りの5%のために、一応聞いてみる。
「どうかしました?」
「岩戸隠れ」
「またですか?」
やっぱり。怒った三蔵が自室にこもってしまったのだ。
家の内では三蔵は絶対に銃を撃たない。なぜなら、八戒のこわーい笑顔が待っているからである。
以前宿屋と同じように、キレた三蔵が銃をぶっ放したときのこと。
「…あーあ、誰でしょうねえ。こんなところに穴を開けて」
その場を目撃してなかった八戒が、後から壁に小さい穴を発見して言った。
実際のところ、その前から何気なく見つけて知っていたのだろうが、これみよがしに今初めて見つけましたといわんばかりに彼は言った。わざと全員がそろっているときに。
しかもその穴にはまだ銃丸が込まれたままだ。だからその穴の原因も理解しているだろうし、誰が犯人かもわかっている。ましてこういう状況を作った元凶が誰なのかも、すべて八戒は承知しているはずだ。
もちろん八戒のその言葉にギクリとしたのは、残る3人全員である。
「困りましたねえ。これじゃあお客様をお呼びすることができませんね」
客なんてほとんどこないくせに、そういうときだけ口にする。
つまりはこれを直すか、見栄え良くしろと言うことだ。
「…直せばいいんだろ」
八戒の、わざとすぐばれるようにしている芝居じみた言い方に、三蔵は降参した。
「あれ?そんなこと言ってませんけど?でもせっかくのお申し出ですから、お願いしましょうか」
ニッコリと笑って言う八戒は、結局自分の思い通りに人を動かしたのだった。
それ以来、一度も家では銃を撃っていない。
しかしそれでいて、悟空と悟浄の激しくうるさいスキンシップがなくなるわけではなく。
おかげでその代わりといってはなんだが、三蔵は自室にこもってしまうようになった。
どんなに悟空と悟浄がドアの前で謝っても、返事もなければドアを開けてもくれない。
あまりにも一生懸命な彼らの姿に見かねた八戒が、2人の助け舟を出してドアの前で声をかける。するとあんなに拒んでいたドアが、すーっと開かれるのだ。
こんな、悟空と悟浄にとっては自業自得であんまりな、しかし三蔵にとっては自分に正直な反応に、絶対八戒の気を引くためが半分はあると、常に悟浄は思っている。
「今日は何したんですか?」
「お前が悪いんだろっ、馬鹿ザルっ」
「なんで、俺なんだよっ!人のせいにするなよなっ、河童っ!」
「あっ、あのっっ」
八戒をアウトオブ眼中にして、また始まりそうな不毛な喧嘩を止めるべく、いつもより大きめの声で八戒は2人の意識を自分へと向ける。
「どうしたんですか?」
「ああ。こいつがさ、八戒の分のお菓子、全部床に落としちまったんだよな」
「でも踏み潰したのは悟浄だろっ!」
「…お菓子…ですか?」
どうして?僕の分のお菓子なら、別にかまいはしないのに。
三蔵の激怒の意味がわからなかった。
「三蔵がな、疲れて帰ってくるお前に少しは糖分分けてやれって、お前に残しとくよう猿に言ってたんだけど」
「…三蔵が?」
「ごめんっ、八戒っ」
食べ物の怨みは大きいという定説がそのまま悟空には当てはまるので、彼は必死に八戒に謝っている。
「そんな。気にしてませんよ、悟空」
「マジ!?」
「ええ」
「よかったー」
明らかにホッとしている悟空に更に笑みを返して、いつも通り八戒は三蔵の自室へ向かう。
それが自分の役目なのをわかっているから。
「三蔵、有難うございました。確かにいただけなかったのは残念ですが、でもいいかげん許してあげてください。こんなに2人とも反省してるじゃないですか」
「そんなバカコンビの反省なんざ今だけだ。数十分したらまた同じこと繰り返してるぞ」
よほど根は深いようである。
ピシャリと言い捨てる三蔵に八戒は苦笑を隠せない。
敵も痛いところをついてくる。
今の一部始終を聞いていたであろう悟空と悟浄を振り返ってみると、犬が叱られたときにしょんぼりと耳をたらす姿が想像できるほど、肩を落としていた。
しかたがない。こんなときには出したくなかったのに。
まるで機嫌直しのために入れたように思われてしまうが、今のこの状況ではそんなことは言ってられない。
たちきったように未練なくくるりと三蔵の部屋に背を向けると、テーブルの上に置いておいた紙袋をひったくって、台所へと無言で足を運ぶ。
八戒怒ってる?
さあ。
小声で話している悟空と悟浄には目もくれず。
とにかく三蔵の機嫌を直したい思いで、八戒は一杯だった。
このままじゃあ、彼の喜んだ姿を見れない。1ヶ月も前からの準備だったのに。
三蔵のために買った豆。三蔵のために入れるコーヒー。
三蔵が自分のためにお菓子をとっておけと言ってくれたその一言に感謝をしながら、少しでも彼が自分のことを考えてくれてたことを喜びながら、彼に想いをよせながらも手際良く進めて行く。
少しするといい香りを漂わせながら、八戒は4人分のカップを持ってリビングへと戻ってきた。
「三蔵。あなたのためにコーヒーを入れたんです。飲んでいただけます?」
控えめの言葉。めったに聞けないものである。
いつもなら三蔵が飲みたいと思って自分から要求するか、リビングにきたときに三蔵の表情だけでコーヒーを欲していることを察知していれてくれる。
いつもはそれが定番なのに。
今回は八戒から「飲んでくれ」という珍しい要望である。
カチャと小さく音をたててドアが開けられた。
小さな隙間から、コーヒーのいい香りが漂ってくる。
それがいつものものとは違うことが、三蔵にはすぐわかった。
八戒が前に気を聞かせて違う豆も買おうかと聞いてきたとき、お前がいれるならなんでもかまわんと返したから、まだここにある豆は1種類だけだったはずだ。ということは、この豆が三蔵のために買われたものだということが簡単に想像がつく。
コーヒーにうるさいのはただ1人、三蔵だけだから。だから三蔵のためだけに買ってきたもの。
機嫌直しのためにわざわざ買ってきたわけではない。それは確実に言える。今の少しの時間で買い物をしてコーヒーを入れる芸当がたとえ八戒でもできるわけがないし、他の2人がいれたと仮定しても、こんなに豆を引きたてる香りが出せるはずがない。
やっと出てきた三蔵は、2人には目もくれずテーブルを目指す。
三蔵が座ったいいタイミングで、目の前にカップが置かれた。
一口含んで見る。
口の中に程よく残る酸味は自分の好みそのものだった。
「…三蔵、僕に免じて2人を許してくれませんか?」
「……ああ」
八戒が自分のためだけにしてくれた全ての行為。これが選られたのだから、今は他のことには大目に見れるという自信があった。
チラリと八戒が2人を見ると、ここで大声で喜ぶとまた機嫌が悪くなるかもと、声を出さずに手と手を取り合いって喜んでいる。
八戒の視線に気付いた悟空と悟浄がそれぞれ感謝の意を態度でしめしていたが、顎をしゃくって違う部屋に行って欲しいと八戒が促すと、いち早く意図を察知してくれた悟浄が悟空を連れて別室へと消えて行った。
カップを口元に持っていく、優雅に繰り返される三蔵の動作。
八戒は静かにそれを見ていたくて、三蔵の前に腰をかける。
決してうまいとは言わない三蔵だが、おいしく飲んでくれていることはすぐわかる。
寄り好みの激しい彼は、まずいコーヒーは断固として飲まない。
どこかのコーヒー専門店に行っても、一口飲んでみてもしそれがまずいと思ったのなら、例えマスターに失礼なうえに機嫌を損ねることになろうとも、その後は口にしないのが三蔵だった。
カップの中身を見ると、もう少しでなくなるところだ。
「もう一杯いかがですか?」
「ああ、いただこう」
悟空と悟浄のおかげで、八戒は三蔵とのんびりした時間を過ごすことができそうだ。
彼らには感謝しなくては。
彼のために買ったコーヒーを、彼は今満足しながら飲んでくれている。結局のところこれでいいのだ。彼のためにしてあげたかったこと。彼がおいしく飲んでくれれば、それでもう。
八戒の想いを感じとっている三蔵に気付いているのか、いないのか。
八戒は、これも1つの幸せという奴ですね、と今の幸福感に浸っていた。
END