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いつの日か見た光景だった。
いつだったかはっきりとは覚えていないが、まだ自分が八戒への気持ちを自覚していないころ。
たしかあの日は、夕飯のために山菜取りとりに行く途中だった。
広がる花畑。それは茎の高さが腰くらいまである、名も知らない白い小さな花。
隠れるようにしてある獣道を、ちゃくちゃくと進んで行く。
悟空を導くようにして先頭を歩く悟浄。その後に三蔵を導くようにして八戒が歩いている。
「お花が可哀想ですから、獣道以外は踏まないように注意してくださいね」
その八戒の言葉を忠実に守ろうとしている悟空の足取りは、悟浄の後ろをぴったりつけているのにもかかわらずぎこちないもので、対照的に悟浄は八戒同様まっすぐ前をみて悟空に軽口を言う余裕さえある。
それだけで悟浄と八戒がよくここを訪れていることが伺えた。
そんなことをちらと考えた三蔵は、胸になんとも言えないものを感じて、それが何なのかもわからずに、無意識にピタリと立ち止まってしまう。
足音が聞こえなくなったためだろう。八戒も立ち止まり、三蔵を振り返る。
「どうしたんですか?三蔵」
三蔵の後ろに、まだ少々高めにあった太陽の光りが、八戒の目に直接突き刺さる。
目を細めて、それでも三蔵から瞳をそらさない八戒。
加えて強めの風が吹く。
さーっと音を立てて花々の上を風が走る。八戒の髪をなびかせる。
顔にかかる髪が邪魔なのだろう。八戒は右手で髪をかきあげて途中で止め、髪を押さえている。
「………」
「…三蔵?」
「…いや」
「??…そうですか。もうすぐで着きますから」
「ああ」
動揺を知られてしまうのではないかと三蔵は焦った。
太陽の光線でいつもより白く見える肌。目を細めて少し俯き髪をかきあげる、ゆっくりとした一連の仕草。
その光景を目にした、一瞬の動揺を。
また見たいと思ったのか。それとも自分の頭に強く焼きついていたのか。
そして今またその光景が色鮮やかに再現されている。
しかし今この映像を見ても動揺は起きなかった。そのかわり悟浄に対する醜い気持ちがみょうに強くなっていた。
八戒との時間をあまり共有できない三蔵。1日中八戒と行動をともにできる悟浄。
あまりにも三蔵と悟浄との差が違いすぎて。
それが苛立たしくて。
「…三蔵」
八戒が自分を呼ぶ。
その声に突き動かされるように、三蔵は八戒に近寄る。
「起きてください、三蔵」
起きる?何をほざいているんだ、こいつは。
「ちょっ…三蔵っ」
あれだけ八戒が悟空に花畑を踏まないよう注意していたのに、三蔵はそんなことはお構いなしで、ちょうどいいとばかりに八戒をその上へと押し倒す。
「うわっ。…三蔵っ…。待ってっ…」
必死の制止を無視して、三蔵はゆっくり八戒へ顔を近づける。
「さん……んっ……」
まだ暖かい眠りに浸かっている体は三蔵の思考をも麻痺させていたが、みょうにリアルな夢だと、そんなことだけは考えられた。
さすがオンボロの宿屋である。隣の部屋で眠る悟空のいびきを、壁があるのにどうしてここまで盛大に聞こえるんだ、と反対に感心するくらいダイレクトに流してくれる。
これじゃあ同室とかわらねー、と三蔵は昨夜頭を抱えていた。
そのことと今までの疲れもあってか、おかげで珍しく起きてきたのは昼頃だった。
体も気分もすっきりとしている。
「あれー、さんぞー、珍しいなっ」
「誰のせいだ、バカ猿っ」
三蔵が起きてきたのをいち早く見つけた八戒が、台所へと向かう。
「なにー?お楽しみしたあ?すみに置けないねえ」
「貴様と一緒にするな」
準備はしてあったのだろう。
コーヒーを入れて戻ってくると三蔵の脇にカップを置いて、小さく「おはようございます」と八戒が言う。
何か引っかかるものがあった。それが何とは言えないし、確信は持てなかったが、何かが引っかかる…。
「おい、悟空。お前が今日買い物に行け。悟浄を連れてな」
「えーっ、何でーっ?俺、ヤダよー」
「俺は別にかまわないぜ。イケてる姉ちゃん、探せるしい」
「…お前の好きな物を買ってこい。そのかわり1つだけだ」
この三蔵の言葉に信じられないと瞳を見開いたのが、悟浄と八戒。
悟空といえば、めったにないお許しに瞳をキラキラさせて、喜んでいる。
「えっ、いいのか?ヤリっ。悟浄、行こーぜー」
先ほどの心底嫌そうな否定を忘失しているだろう悟空は、呆然としたままの悟浄を引きずって、言葉を撤回される前にと言わんばかりに、慌てて街へとくりだして行った。
「………」
「どうした」
「…は?」
「何かあっただろう?」
三蔵の意図がやっと掴めた。あれは自分と2人きりになるために、仕組んだものだったのだ。わざわざ悟空に餌付けをさせてまで。
「何でもないですよ」
「なら、なぜそんな態度をする」
目線は合わせない。行動の隅々に、ちらりと見せる怒気。
「それは、あなたのせいでしょう?」
「俺のせい?」
「…っ。もしかして三蔵、覚えてないんですか?」
「覚えてない?何のことだ?」
「し…信じられないっ」
確かに八戒は少々怒ってはいた。
朝っぱらから無理やりあんなことをされたら、誰だっていい顔はしないだろう。
いつもなら平静を保っていられる彼だったが、体がだるく疲れが奥底にあるため、注意はしていたのだがそれでも少しは態度に出てしまっていたようだ。
もしかしたら気付いていないうちに、悟空や悟浄にも怒りを見せていたのかもしれない。
そう思うと、2人には申し訳なさで一杯になる。
しかし、仮にもその元凶は三蔵で。
その彼がまったく覚えていないとは、どういうことだろう。
確かに三蔵の寝起きの悪さは理解していたし、あのときは半分寝ていたのもわかっていた。でももう半分は意識があって、自分を求めてくれているのだと思ったからこそ、朝っぱらからは嫌だったのに結局許したのだ。じゃなければ、意地でも逃げてみせていた。
これじゃあ、犯られ損ではないか。
どこにぶつけていいかわからない怒りは、そのまま三蔵へと向けられた。
「三蔵だったから許したのにっ!」
めったに見せない八戒の怒鳴る声。その姿。
よく考えれば、彼らしくないその行為から、確かに何かったのだろうとわかるはずなのだが、身に覚えのない三蔵はそんな余裕がなかった。
いうなれば、売り言葉に買い言葉状態だったのである。
「だから、何を!」
「そんなこと、僕の口からは言えませんっ」
「お前じゃないと、わからないだろうがっ」
「三蔵だって知ってるでしょうっ!?」
「さっきから知らんと言ってるだろうっ!!」
「いえっ、知ってますっ!自分でよく考えてくださいっ!」
バタンッ。
八戒の怒りがそのまま現れて、戸が閉まる。
三蔵の言い分を聞かず、八戒はもう言うことはないとばかりに、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
「…ちっ」
なんでこんなことになってしまったのか。
今日は夢見が良かったのに。
ここ最近運転の疲れがたまって、八戒の表情にはたまにちらりと疲労が伺える。それでも彼は我慢をして、いつも笑顔を絶やさない。
そのことが気になっていた。そうして昨夜やっとこの町に入ることができた。これで八戒も安眠できるだろうと、ゆっくり体を休められるだろうと、そう思っていた。
以前見た、穏やかで綺麗な姿を拝めると思っていたのに。
ああ、だからだ。
三蔵は八戒の夢を見た理由がやっとわかった。
昨夜そんなことを考えていたから、あの夢を見たわけだ。
翠色の瞳を軽く細めて少し俯き、太陽の光を浴びて白く見える肌で髪をかきあげる。
その姿から目を離せない三蔵。
そんな自分と八戒とには距離があって。しかし悟浄と八戒の距離は密接で。この差を縮めたくて、悟空と八戒との間があいてしまったことをいいことに、花畑でことに及んでしまった。
首にかかる甘い吐息。
『…三蔵』
自分を呼ぶ淫らな声。
『起きてください』
……ん?
そう言えば、なぜあのとき起きろなどと夢の中の八戒は言ったのだろうか。
『…もう、朝っぱらから。…聞いてます?三蔵?』
『…ん?……ああ……』
『悟空が待ちきれませんから、先にご飯食べてますよ』
『…ああ』
そして三蔵はすべてを思い出した。
はあ。
八戒は大きく息をつく。
宿屋の裏手にある、小さな池。
先急ぐ旅人のためにつくったのか、それともただ単に親父の趣味なのか。真実はわからないが、でもここに池があることに八戒は感謝した。
先ほどまでの怒りは、この池で優雅に泳いでいる魚たちを見てるうちに、少しずつ収まってきていたから。
…やってしまった。
先ほどの喧嘩を一部始終を反芻し、そして八戒は後悔した。
覚えていないことをとやかく言っても仕方がない。
男には朝も夜も関係ないことも当然で。
でも朝からのあの行為はまさしく獣のようで嫌だったし、何よりも終ってから食堂に行ったときに見せていた悟浄のあの表情。薄く口元に笑みを浮かべたそれは、部屋で起こった出来事を悟っていることを物語っていた。
敏い悟浄である。たとえ部屋から声が聞こえなかったとしても、起こしに行っただけなのにあれだけの時間を費やしていたのだから、すぐ思い立ったのだろう。
平静を保っていたが、時間が時間だけに恥ずかしさは否めない。
だから三蔵が覚えていないと言ったとき、そのときのことを思い出して余計に怒りが爆発してしまった。
はあ、とまた1つため息をついた。
謝らなければ。自分から怒鳴ったのだから。
そう思ってもまだ行動に移せないのは、三蔵への申し訳なさか、自分がなっとくできないからか。
かさり、と後ろから音がした。
草を踏んで歩みよってくる足音は三蔵のもの。
池に体を向けている八戒は、耳をそばだたせて分析する。
「何をしてる」
今が潮時だろう。
あの三蔵がわざわざ出向いてくれたから。
ここで謝らなければ。
立ちあがりゆっくり三蔵に体を向ける。
「すみませんでした、三蔵」
何となく三蔵の瞳を見て話せない八戒は、少し俯き加減で謝った。
「覚えていないものは、仕方ないですものね。なのにぐだぐだ言ってしまって。…少し、いらついていたようなんですよ、僕」
「…猿の馬鹿が移ったんじゃねーか」
「ええ、そうかもしれません」
「…いや、移ったのは俺かもしれんな」
八戒が腰掛けていたその隣に無言で腰をかけ懐からマルボロを取りだすと、1本に火をつける。
ゆっくりと空に上っては消えていく煙を眺めながら、八戒はもとのところに腰をかけた。
それを待ちかまえていたように、三蔵は再び口を開く。
「…夢を見た」
「夢…ですか?」
「人間関係。絆。欲望…。昔の俺をな」
ゆっくりと池に近づいて池を囲っている石に短くなった煙草をこすりつけると、また新しい1本に火をつけた。
「たまたま起こしにきた奴が夢に出てた奴だったんでな」
「…それって…」
八戒に背を向けたまま話しをしていた三蔵は、振り返って自分を見つめる彼と視線を絡める。
「欲望のまま動いてしまった」
右手に持っていたまだ長めの煙草を足元に捨て、靴でもみ消す。
そして右手をそのまま八戒の顎に持って行くと、心持ち顔を上げさせて口付けた。
「お前だからだ。お前じゃなきゃ、あんなことはしない」
遠まわしに朝のことを思い出したと三蔵は言っている。それと、忘れてしまったことと朝の行為の、謝罪のつもりなのだろう。
でも、何よりも八戒が嬉しかったのは、自分だから行為に及んだという、三蔵の告白。
三蔵でも殺し文句が言えるんですね、と冷静にそんなことを考えられる今の自分と、さっきの怒りにまかせた自分とのあまりのギャップの激しさに、笑いがこみ上げてきそうだ。
そんなことを言われては、すべてを帳消しにしないといけない。
めったにない三蔵の告白だから。
「相思相愛って奴ですね」
「ヘドが出るな」
「…僕も、三蔵だったから、あの行為を許したんですよ」
ニッコリ笑って嬉しそうに言う八戒は、夢に見たあのときの光景とはまったく違うものだったが、それでも久々に見た晴れ晴れしい表情だった。
今度はどちらからとなく顔を近づけ、口付けをかわす。
深くなってくいその行為にだんだんと熱中する2人。
すると遠くからぎゃいぎゃいと騒がしい声が聞こえてきた。
「帰ってきたようだな」
「そのようですね」
平和な日常がまた今日も訪れそうだ。
「そう言えば、三蔵ご飯まだでしたね。じゃあ、悟空のおやつと一緒に作りますね」
今日はいつも以上に心を込め、腕によりをかけてご飯を作ろうと、八戒は思った。
心が暖かくなるものをくれた、彼のために。
END