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本来なら青いであろう空が、今日は完全に雲に覆われてしまったために、白い海と化していた。このまま曇ったままなのか、それとも晴れてくれるのか、想像するのには難しい空模様である。それでももうすぐ陽が暮れることだけは、白い空がだんだんと闇の黒へと変化しているので理解できた。
だんだんと気温も低下していく一方のこの時間。八戒は三蔵から言われた通りの場所を目指していた。
宿屋には戻らず、少々重量のある紙袋を抱えたまま。
その茶色の袋の中には今にもこぼれてしまいそうなほど、たくさんの品々が身を縮めてしまいそうなほどひしめきあっていたが、中でもリンゴ・みかん・バナナなど多種の果物が大半を占めていた。いつも多方へと気にかけては買い物をする八戒だったが、今回こんなに多くの果物を購入したことにはちゃんとした理由があった。
実は最近三蔵が風邪ぎみのようなのだ。
のどの調子が悪いのかよく水分を補給していたり、たまにコホンと小さく咳をしたりしている。あまりにもそれが気になった八戒が、先日本人に風邪を引いたのかと尋ねてみたものの、彼からの返事は案の定否という一言だけだった。本人は頑なに否定するがどう考えても風邪気味というものだし、それ以上追求しようものならばかえって不機嫌になるだけなので、八戒はいつものことだと諦めて何も言わないでいた。
別に風邪を認めたからどうこうと思わないのだから、素直に言ってくれてもいいのに、必ず彼は否定する。まったく素直じゃないんだからと、そのときのことを思い浮かべてくすくすと笑いながら、八戒は1歩1歩足を進める。しかしそんな八戒も結局は人のことは言えず似た者同士なのだが、それを本人はまったく気付いていないようだ。
とにかく、旅はまだ続くし、この先何が起こるかわからない。風邪は軽視していると死に至るものなので、なるべく多くのビタミンをとって早く治してもらいたいと、こうして果物を購入したのだった。同じものでは飽きてしまうだろうと、種類も多くしたりして。
袋の中には一番上に置かれたみかんが、歩く度に袋の中でコロコロと遊ばれている。それはほんの少しでも躓いたら落ちそうな危険性を帯びていた。たまにその様子を伺いながら、弾んで落ちてしまわないよう慎重に歩を進めていく。
初めて訪れる街なので通りすがりの人に場所を尋ね、たまに立てられてある標札を頼りにして、やっとたどり着くことのできた先は1つの寺院だった。
白い石段が何段も重ねられ、山の頂上を目指している。その麓から八戒は上を見上げた。
この上にある寺院の中に、今三蔵がいるはずなのだ。
いかにも寒そうな階段を踏みしめるように、一段一段三蔵のいるその場所を目指して昇って行く。
途中設けられた踊り場では重い荷物を置いて、冬に咲く花々をしばらくの間観賞する。そしてまだまだ続いている石段をまた昇り始め、最後の一段を昇った八戒を出迎えたのは、年代を感じさせる太い幹と重々しい木でできた門だった。
「………」
分厚い両扉の入り口は、気軽に入ってくれというように開いてはいる。それでも八戒は手前で立ち止まったまま、門を上から下まで視線でなぞり、そしてまた上へと戻して、そのまま数秒間凝視する。
『多分お前の方が早いはずだ。中で待っている』
三蔵はそう言った。そしてその言葉に頷いた自分がいた。
それでも。その三蔵の声が頭の中で響いても、この中で三蔵が自分を待っているとわかっていても、この目前にそびえたつ威圧的な門をくぐることさえできずにいた。
元来、八戒は寺院が好きではなかったのだ。
お花見やら紅葉狩りやらは好んでいくのだが、それ意外ではできることなら入りたくない場所の1つだった。まして、いかにもお寺といわんばかりのその重々しさが、さらに八戒の足をこの場に留ませてしまうのだった。
「………」
突然八戒はくるりと体の向きを変える。
寺院を守る塀にそって3歩、歩を進めると、そこでピタリと足を止めた。
やはりここで待つことにする。
自分は寺院には一切関わり合いのない者だ。たとえ三蔵がああ言ったとしても、勝手に入って三蔵に迷惑が掛かるかもしれない。それならここで待っていた方が、自分にも、そして三蔵にも良いような気がする。
それに。
視線を空へと向ける。
相変わらずの重い雲。それで太陽はすっかり遮られているので空が赤くなることはないが、かなりさっきよりは暗くなったような気がする。
このまま自然が闇と同化してしまうと、今まで昇ってきた幾重もの石段を降りることが苦労するのは、目に見えていることだ。そのことをあの三蔵が気付かないわけがない。だから彼は自分が来なくとも、暫く待てば出てくることは間違いない。
すれば、ここなら三蔵が出てきてもわかるし、彼だって自分のことを難なく見つけてくれるだろう。
八戒はずっしりと重さを感じさせる荷物を置きもせずに、両手で持っていた荷物を片手に持ちなおすと、空いた片手を口へと運び、はあーと暖かい息を吐き出した。
真っ白い息が手にかかる。
暖かい風が手を温める。
しかし暖まった体温はすぐに奪われる。
それは一瞬のこと。ただの子供だまし。
だけれど、その一瞬の暖かさでも少しは違うような気がして、八戒は何度か同じことを繰り返した。そして今度は荷物を反対へと持ち直すと、同様に同じことを繰り返す。
だんだんと寒くなる外気。
だんだんと冷たくなる景色。
真っ白い息が遠く感じるようになるのはなぜだろうか。
自分が作ったものではなく、どこからか流れてきたものに感じるのはなぜだろうか。
その作られた白いもやを溶けていくまで追っていき、そんなことを考える。
他人ごとのように。ぼんやりと。
考えが外気に触れたように痺れてきそうになったとき、八戒の耳にざっと土を踏む音が入った。
生気のない視線でそちらを見ると、そこには見なれた輝く色があり、八戒を現実へと戻してくれた。
太陽のような輝かしい姿。
寒さなど忘れ去せてくれる、暖かさを感じさせる。
「…三蔵」
どこか儚げに微笑んで、愛しい人の名を呼ぶ。
しかし八戒とは対照的に、三蔵は眉間にしわを寄せている。
そして流れる空気の冷たさと、なんら変わりない声で。
「行くぞ」
そのたった一言で、彼は石段を降り始めた。
なぜか不穏な空気を背負ったまま。
やはり中に入って来いと言った彼の言葉に従わなかったことを怒っているのだろうか。
「三蔵」
八戒の呼び止めも、今の三蔵には意味がない。いつもなら歩を止めなくとも緩めることくらいはしてくれるのに、それさえもしてくれなかった。
そこまで怒らせてしまったのだろうか。しかし所詮「そんなこと」ですまさせることだ。だからそれだけで怒る彼ではないはず…と思うのだが。
「三蔵」
もう1度呼んでみる。それでも彼は拒絶している背を自分に向けたままだった。
こんなに機嫌が悪くなるならやはり中に入いればよかったと、八戒の心に後悔の色が強まったころ。
やっと長い階段を降り切って、三蔵が振り返った。
「…三蔵、怒ってます?」
「ああ」
「すみません。ちゃんと今度は約束を守りますから」
「そんなことじゃねえ」
ゆっくりと伸ばされる三蔵の腕。
こちらへと向かって伸びてくるその腕を見つめていると、頬に彼の手が優しく触れた。
暖かい。
じんわりと失った体温がしみ込んでくるような感覚。
そこで初めて、いかに自分が冷たくなっていたのかが伺えた。
三蔵の手は、次に八戒の前髪をかきあげ、そして寒々しい手を握ぎる。
「こんなに冷たくなるまで、あんなところにいるんじゃねえよ」
想像以上に冷たい指先。
腹立たしさが沸きあがる。
何も考えない八戒に。
そしてもっと早く寺院を出なかった自分に。
その感情のまま、氷のような指先を力強く握り締めた。
「行くぞ」
そうしてそのまま彼は歩き出す。相変わらず、怒ったままの背を向けて。
しかし今なら違えることなく八戒は理解できる。
彼が約束を守らなかったことを怒っているのではなく、冷たい空気のもとで彼を待っていたことに対して怒っているということを。
「三蔵。あなたの手が冷たくなってしまいます」
「うるせえ」
「でも…」
「黙れ」
三蔵は手を離すつもりはないようである。
無言の優しさ。
冷たいようで、暖かい彼。
それがとても嬉しかったが、それと同時に申し訳なさが募ってきた。
「…すみませんでした」
「何に謝ってんだ?」
三蔵にか、八戒自身にか。
約束を破ったことにか、体を気遣わなかったことにか。
謝罪なんていらない。そんな言葉を欲しいわけではない。
周りを気にかけ、自分の体のことなど後回しにしてしまう八戒に、何よりも自分の体のことを大事にしてもらいたい。ただそれだけだ。
しかしその願いを…希望を…心の言葉を、三蔵が口にできるはずがなく。
形となって出た言葉は、俺にだったらなぐるぞ、というまったく違うものだった。
八戒の耳に届いた不機嫌極まりない低い声。
仏頂面を連想させるそれに、八戒の顔に自然と笑みが浮かんだ。
不器用すぎる彼が。
とても優しい彼が。
口にしたくとも、できなかった言葉。
それが想像できたから。
八戒は三蔵の背中から視線を手へと移動させた。
体温を取り戻しつつある自分の手。
いまだぎゅっと握られた三蔵の手。
めったにないこの行為に甘えていたくて。
いつもなら冷たいはずの彼の手が今もなお暖かく感じるのは、風邪が悪化して発熱したためでなければいいと願いつつ、八戒もまた彼の手を強く握り返すのだった。
END