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最近は冬とは言えどもとても晴れ渡っていて、真冬なのにもかかわらず春がもう時期訪れるのではないかと勘違いさせるほどの晴天が続いていたのに、今日はうってかわったとても厚い雲が朝から空を覆っていた。
太陽が顔を出さない日の冬のこの時期はとてもこたえるものがあって、案の定、気温が少々低めだった。
「う〜っ、さみーっ」
心なしかあの元気な悟空でさえ、声が震えているような気がする。
「悟浄っ、ひっぱんなよー」
膝かけがわりにしている毛布の左端をぐいぐい引っ張って文句を言う。
悟浄のところにある毛布の反対側の端はあまりにも余裕で、悟空の膝が見え隠れしているのとは大違いだった。
「ガキは体温たけーから必要ねーんじゃねーの?」
「年よりは冷え性でこまるよな」
「んだとーっ!」
「何だよっ!!」
「てめーらっ、いいかげんにしろっ!」
「相変わらずですねえ」
たとえ寒くとも暑くとも。悟空と悟浄の喧嘩は変わらず、三蔵の不機嫌も八戒ののほほんとしたものも変わらない。だが。
今日はいつになく三蔵の機嫌が悪いような気がするのは気のせいだろうか。ましてや八戒も心なしか元気がないような気がする。
その理由を悟浄は理解していた。
悟浄は右腕をドアのところに、頭は後ろのシートにのせ、寛いだ体勢で空を見上げる。
どんよりとした空。あやしい雲行き。
今にも雨が降りそうなこの天気。このせいだ。
ルームミラーごしに八戒を見る。
ふう、と悟浄は溜め息をついた。
雨が降り始める前にぜひとも宿屋に着きたいものである。
町は目の前だった。
パタン。八戒は部屋の窓をしめる。
雨の薫りがしだしたから。しかし匂いだけではそれがいつごろなのかは計り知れない。
だからこそ、今からいつ降ってもいいように先に部屋へとこもってしまった。
考えないようにしようとしてもいつの間にか考えてしまうこと。そのために暗い表情になってしまうことを心得ている八戒は、皆の前でそんな自分を見せたくなかったから。でも…。
ベッドに腰掛けて、もう1つのベッドを見る。
2人部屋のこの部屋に人影は1つ。
まだ来ぬ主人を待ちわびているようなそのベッド。
こういうときだからこそ、1人でいるのも寂しいような気がするのは、やっぱり我侭からだろう。
前髪を掻き分けて1つ溜め息をつく。
情けなさで一杯になる気持ちをあざけるように口の端を少し上げた。
こんなことではいけないと、テーブルの上にある読みかけの本を手にとる。
そのとき階下からドタドタと慌しい足音が聞こえてきた。悟空が帰ってきたようだ。
相変わらずの元気さに八戒は笑う。
くすくすと室内に響く笑い声はとても小さく、そして寂しげであった。
そんな八戒と対照的なのが悟空だった。
バタンと室内の客が全員ドアを開けた主を確かめてしまいそうな、あまりにも大きい音を開けて入ってくる。
「ハラ減ったーっ」
例え外が暗かろうとも、今にも雨が降りそうなほど厚い雲が青い空を隠していても、そんなこと悟空には関係ない。自分の気の赴くままに、1人で遊びに出かけてしまうのだ。
そして今回もやはり例に漏れず、散歩に出かけ満足げに帰ってきた。空腹というお土産を持参して。
さっきから悟浄が女性の店員に誘い文句を言っているのを耳に入れないようにするだけで結構大変だったというのに、それにうるさい万年空腹猿が加わるとなればもう読書どころではないのは、今までの経験からして明白なことだった。
こんなことなら、八戒同様自分も部屋にこもればよかったと後悔する。
しかしなぜそれをしなかったかというと、八戒の意図がわかったからだった。
本人も自覚しているのは定かではないが、いつもの彼の笑顔がこういうときだけ曇ることを三蔵と悟浄は理解している。そのとても辛そうな笑顔を自分たちだって見たくはないし、彼だって見られたくないだろう。そう思って反論はせずに八戒の意のままにしてやったのだが。
外を見る。
すでに暗く、いまだ厚い雲が空を覆っているのだろうか。
いつか降る雨をこのまま何もせずに待ち、降ったら降ったで彼が1人で思い出に涙を流すのを見てみぬふりをしろというのか。
それしか方法はないのだろうか。
窓を凝視したまま考え込んでいる三蔵を悟浄は見つめる。そして彼の隣に座る悟空を見れば。
「お姉さーんっ」
大きく手を振って店員を呼ぶと、悟空はメニュー片手に「ここからここまで全部ね」と、豪快に注文をしている。
暢気でいいよな、お子様はよ。
三蔵が何を考え、そして自分も同じことを考えていただけに、お気楽そうな悟空が少々憎らしく思えてくる。
そう。三蔵も多分同じことを考えているだろう。
1人で部屋にこもっている彼のことを。
そんなに心配なら近くにいてやりゃいいのにと悟浄は思う。そういうなら自分だって同じなのだが、三蔵という恋人がありながら自分がしゃしゃり出てはまずいだろうと、悟浄は悟浄なりに2人のことを思ってのことだった。
八戒だって三蔵が近くにいて2人の時間を過ごしていれば、もしかしたら雨に気付かないかもしれないじゃないか。
そうして思い立ったこと。
八戒に雨が降っていることを気付かせなければいいのだ。
簡単なようでとても難しいとは悟浄も重々承知しているが、やってみる価値はある。
それなら…。
ニヤリと人が悪い笑みを浮かべると。
「悟空。八戒の部屋に行って、思いっきり遊んでこい」
「え?」
タイミングよく注文した料理が運ばれてきた。
「八戒が他のことを気にしなくなるくらいな。んで、八戒の傍から離れるな。ホラホラ、早く行けって」
今日の部屋割りは、悟浄と八戒、三蔵と悟空だったが、そんなことはこの際どうでもいいだろう。八戒が1人で暗くなるくらいなら、生臭坊主と同室になることだってかまわない。
「えーっ」
目の前には美味しそうな料理が3品。いい薫りを漂わせているほかほかしたそれは、空腹を強く刺激する。
じっと見つめること30秒。
「わかった」
そう言うと悟空はその3品を持って八戒の部屋へと向かった。
そして。
「お姉さんっ。さっき注文したもの、全部上に持ってきてねっ」
意地汚さが引き出したその行動に、悟浄は頭が下がる思いがした。
「……なるほどな」
「ナニが?」
「雨が降っているのを気付かせない、か」
「できると思う?」
「さーな」
とにかく、ここは悟空にまかせるのみ。
続々と八戒の部屋に運ばれていく料理の品々を見ながら、三蔵と悟浄の脳裏には一抹の不安がよぎるのだった。
そして1時間後。
「あれ?八戒、悟空はどーした?」
部屋から1人で出てきた八戒。
あれほど八戒の傍を離れるなと言っておいたのに、どういうことだろう。
「ああ。悟空ならお腹一杯になって寝ちゃってますよ」
「…あんの」
「バカ猿がっ」
2人とも同時に心の中でしたうちをし八戒には聞こえないように悪態をつくものの、さすがにオーラだけは隠せないようで、「起こさないで下さいね」と先手を打たれてしまった。
「おい、八戒っ。どこ行くんだよっ」
「台所ですけど…。ちょっとお借りして、飲み物でも入れようと思って」
「あ。そ」
今にも降りそうな天気の中、外出でもされたらたまったものではない。
まったく心臓に悪いぜと冷や汗をかく悟浄だったが、八戒は見当違いなことを思ったようで。
「大丈夫ですよ。ちゃんと悟浄の分も入れますから」
「いつもすみません」
「いえいえ」
台所へ向かう八戒の後姿を目で追っていたが。
「八戒、俺もたまには手伝う」
何があるかわからないから、やはり台所とはいっても1人にしない方がいいだろう。
そう思っての行動だった。
席を立ち、三蔵を見る悟浄。
お前もたまには手伝ったら?と。
しかし返ってきたのは。
「俺の分は、キサマが入れるなよ」
あまりなセリフだった。
そればかりではなく。
「はい、三蔵」
「ああ」
左手で新聞を広げて視線はそのままに、八戒が運んでくれたカップを右手で持って口に運ぼうとしたが、ピタリと突然それが止まった。そして視線がカップの中身へと注がれる。
「これは誰が入れた?」
「僕ですけど?」
「そうか」
そしてコーヒーを口に含む。
その一連のやり取りを遠巻きに監察していた悟浄は。
「イイ性格してんじゃねーか」
(やっぱ、いつかゼッテー殺す)
殺意が芽生えた瞬間だった。
せっかく2人きりにしてやろうと思ったのに。
それならと小さな三蔵イジメを実行することにした。
「八戒。カードでもやろーぜ」
「……いいですけど…」
「あっ、今『どうせ負けるくせに』とか思っただろ」
「いえ、そんなことは」
「間が証拠なんだよ。くそっ、ぜってー負かしてやる」
三蔵イジメはどうしたのか。悟浄は意気込んで八戒とともにもう1つの部屋へと戻っていった。
そしてまたまた1時間後。
トントンと階段を降りてくる足音に、三蔵は顔を上げる。
「…役たたずが」
いつもの彼の言いようには慣れているはずなのだが、ボロボロに八戒に負けた後ではさすがにカチンとくるものがあった。
「なっにーっ!じゃ、テメーはちゃんとやれるんだろうな。こんのくそ坊主っ!!」
「当然だな」
読んでいた新聞をたたんでテーブルの上に置くと、悟浄と入れ違うようにして部屋へと向かっていく。
もちろん見下した視線と馬鹿にしたような笑みを忘れずに。
「八戒」
部屋のドアの前で愛しい人の名を呼ぶ。
大きくもなく、小さくもなく。だがドアという大きな壁が声をさえぎり、もしかしたら八戒の耳には届かないかもしれないと、声を出した三蔵自身が心配してしまうほどには大きくないものだった。
だがそれでも八戒はちゃんと三蔵の声を聞きとってくれたようだ。
カチャと音を立てて入り口を開放する。
「…まったく、今日は慌しいですねえ」
ゆっくり本も読めませんよと、嬉しそうな顔をしながら愚痴っているのは、三蔵に少し甘えているからだろうか。
悟空も悟浄も失敗はしたものの一応少しはちゃんと役割を果たしてくれたようで、八戒の顔に暗い影は見られなかった。
「読書をしたかったのか?」
「ええ。あと少しで終るので、読んでしまいたかったんですよ」
「そうか…」
見るとテーブルの上にはカードとコーヒーが入っていたであろうカップの他に、開いたままの本が1冊。多分そこまで読んでいたのだろう。
「だが、残念だったな」
突然八戒の腕を掴むと、三蔵はベッドへと押し倒す。
「そんな時間、あると思うなよ」
「…ん……」
性急過ぎる口付け。
三蔵からすれば早く八戒を快楽に没頭させて、雨のことなど忘れ去ってやろうと思ってのことだったが、三蔵に振りまわされる八戒にすれば何が何だかわかるはずがない。
三蔵の言葉が嘘ではないと知らしめるように、八戒の意志を聞かずして八戒の服を脱がしにかかる。
「三蔵っ。隣には悟空がいるんですよっ!」
「俺はかまわんが?」
「僕はかまうんです」
「そんなもの捨ててしまえ」
どんなに抵抗しても結局は今夜も三蔵の言葉通りになってしまうのだろうと、霞がかる頭で考える八戒だった。
「ん…」
ゆっくりと開いた瞳に三蔵が映る。
まったく本当に隣のことなど考えずにやってしまうんだからと思いながらも、それに没頭してしまった自分も自分だと苦笑いする。
「少し寒くなってきましたね」
窓を閉めただけで、そういえばカーテンを閉めていなかったことに八戒は気付く。
こんな寒いときは、カーテン1枚でずいぶんと室内温度が違ったりするのだ。
だからと、八戒は暖かい布団と三蔵の腕から出ることには何の躊躇もせずに、近くにあった上着を羽織ると窓へと近付いて行く。
「!」
三蔵が慌てて八戒の腕を取って引き戻そうと思ったのだが、ほんの少しだけ遅かった。三蔵の手は空を掴んだだけだった。
そして、窓から外を見た八戒が固まった。
「ちっ」
せっかくの今までの努力が水の泡だ。
これでは悟空や悟浄のことは言えないと、自分を責めていたとき。
「三蔵っ、見てくださいっ」
八戒の声が暗いものではないことに気付いた。
とても嬉しそうなその声。嬉しそうな笑顔。
「?」
三蔵がベッドを立ったのを見ると、八戒は視線を外へと戻し、冷たい窓ガラスへと手のひらをつける。
吐く息が窓ガラスを曇らせるほど顔を近づけて、見入られるように外を眺める。
「…雪か」
どれくらい八戒とベッドにいたのかはわからないが、その間に雪が振り、あたかも世界を銀世界へと変えていた。
「これじゃあ、寒いはずですよね」
「ああ」
バタンと隣でした大きな音に続いて、階段を駆け降りる激しい音。
外を見ると、悟浄がいち早く出ていてどこかを眺めている。
それに続いて悟空がかけ出ると、嬉しそうに新しい雪の上に新しい自分の足跡をつけて楽しんでいる。
「雪が降って嬉しそうにするのは犬だけだと思ったんだがな」
猿もだったか。
その呟きは、それでも優しげで。八戒は素直じゃないなと、三蔵を見て微笑んだ。
悟浄が三蔵と八戒を見上げて笑う。
悟空が2人を見上げて、大きく手を振る。
それは降ったのが雪でよかったと言っているようだった。
2人の声なき言葉に、三蔵はフッと笑うことで返すと。
「風邪をひくぞ」
カーテンを閉めた。
冷たくなった八戒の手にキスを振らせながら、今回のことは取り越し苦労だったが結果良ければすべて良しという言葉通りだなと、八戒のくすぐったそうな顔を見ながらそう実感して、ゆっくりと八戒の唇へと自分のそれを触れさせた。
瞳を閉じれば、映る世界は今目にしていた銀世界。
体温を分け与えてくれるように冷たい自分の指先を手で包んでくれながら繰り返される口付けは、雪の中で行われているような錯覚を八戒は受ける。そしてそれはとても神聖なものに感じるのだった。
END