SAIYUKI

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頼りなげな雛 2000.9.3
GOJYO×HAKKAI
「なあ、八戒…」
 いつもの調子で元気に話しかけた悟空だったが、ポロッと口にしたその名前に言った本人がハッとする。
 そうだ。今、ここにはいないんだ。
「ごめん」
「…いいえ」
 ゆっくりと微笑して八戒の姿をした少年は言う。しかし、あるかないかのほんの少しできた間が、彼の心情を現しているようだった。
 空気は重くまとわりつくような不快なものへと変わっていく。
 悟浄は堪らなくなって席を立つと、少年の肩をポンと叩いた。
「ジュースもらいにいこうぜ」
 この空気がとても嫌だったのと、何となくこの場に少年をいさせたくなかったからだ。
「はい」
 彼が席を立ったのを確認した後チラリと三蔵を見てみれば、ばっちり視線が合ってしまった。三蔵も彼の様子の変化に感づいているようだ。
「………」
 しかし口には出さずに、悟浄は先だって部屋を出て行った少年の後に続いた。
 彼の背中を見つめて歩きながら、気付かれないように静かに深い息を吐く。
 悟空がつい八戒と言ってしまうのも無理はない。
 同じ姿。同じ声。
 自分だってたまに間違えそうになるときがあるがそれでも間違えないでいられるのは、今回のことは自分が原因で起きた事故だからだ。
 誰かが彼を八戒と呼ぶたびに、それに対して少年が悲しそうなそれでいて寂しそうな顔を一瞬浮かべるのを見るたびに、悟浄は罪悪感で一杯になる。
 ことの起こりは数時間前。
 パタンと軽い音を立てて八戒は部屋に足を踏み入れた。
 悟空は今日も元気にジープとお散歩。
 三蔵は近くの寺院に出かけている。
 悟浄は先ほど嬉々として街から帰ってきたところを見ていたので、部屋にいることはわかっていた。
 宿屋にわがままを言って井戸を借りて先ほど洗濯を終えた八戒は、一服入れようと悟浄の分とともにお茶を入れてきたのだった。
「ご……」
 カップをテーブルに置いて、八戒は凍りついた。
 悟浄が読書をしているなんて…。もしかして先ほどの嬉しそうにしていた理由は読書!?
「悟浄っ!」
「んー、な〜に?」
「困りますっ。明日の朝、悟空と森へ散策に行く約束をしてるんですからっ!」
「…それ、どーいうイミよ」
 真面目な表情で何を言うのかと思えば、侮辱されたような感じがするそのものの言い方に、悟浄は本を閉じて項垂れた。
「…『マジック』…ですか?」
 悟浄が読んでいた本の表紙にはでかでかと「マジック」と書かれてある。
「そ。さっき街に行ったら、街頭でやっててさ。すげー面白かったんだぜ」
 先ほどのそのマジックを思い描いているのだろう。夢見ごこちで話すその姿は、まるで子供のそれに似ていた。
「そうなんですか。僕も見てみたかったですね」
「だろ?だと思って、お前に見せてやろうと買ってみた」
 これで悟空と遊べるぜっ!、という悟浄の心の声が八戒は聞こえたような気がした。
 なんだかんだ言っても、結局のところ悟空をおもちゃにして遊べることを、とても楽しみにしているのではないだろうか。
 どちらにしろ先ほどのその嬉々としたものの理由が読書でないことに、深く安堵してしまう八戒だった。
「んでさ…」
 閉じた本を再度開き、きらきらとした眼差しでめくっていく。
「これなんか、どお?」
 まもなく悟浄が指をさしたのは。
「『催眠術』……やめた方がいいんじゃないですか?」
 それはコインを糸につるして揺らすことにより暗示をかけるというものなのだが。
「難しそうですよ。まだ初心者には無理じゃないんですか?」
「大丈夫。俺、天才だから。それに面白そーっしょ?」
「はあ…」
 八戒はそのとき一抹の不安を感じていた。
 それに対して悟浄は自信満々。
 しかし「人生いろいろ」とこの後悟浄が実感したのは、もしかしたらこれが初めてかもしれなかった。
 いざやってみると予想に反して悟空にはまったくの効果がなく、一緒にさりげなく見ていた八戒に暗示がかかってしまったようだった。突然眠りについてしまった彼を悟空と悟浄は心配し、帰ってきた三蔵には予想していなかったあまりのできごとに殺されそうになった。
 そんな三蔵の「悟空悟浄殺獣未遂事件」から1時間後。
 目を覚ました八戒の様子が変なことに冷静な対応で応じた三蔵が引き出した答えが、彼が八戒ではなく悟能という15才の少年であることが判明したのだった。
 確かに初めて見る自分たちと環境に戸惑っているのと、視界の高さに瞳を輝かせて喜んでいる姿は、姿形はいつもの八戒でも、少し幼さがあるとても可愛らしいものだったのだが。
 もう一度悟浄は小さく息を吐く。
 いつになったら元に戻ってくれるんだろうか。
 未来はわからないから人生は楽しいものなのだが、こういうときは先がわからないことがとても悔しく感じるのだった。
「悟能。悪ィな」
「何がですか?」
 突然の謝罪がどのことに対するものなのか悟能はまったく見当がつかないようで、階段を降りている途中なのに立ち止まって振り返ると、きょとんという表情で悟浄を見上げる。その子供らしい仕草に元は22才の八戒という青年なのにもかかわらず、少しは幼く見えるのが不思議なところだ。
 めったにお目にかかれないその可愛らしい姿にキスしたい衝動がわきあがるが、ぐっとこらえて我慢する。何せ彼にはまだ話していないことだったから。
 八戒という青年のこと。自分たちのことと八戒との関係。旅をしているという現状などを、ある程度のところまではさきほど話してあるが、悟浄と八戒が恋人であるということはまだ伏せていることだった。
「悟空だよ。さっきまた間違ってただろ、あのバカ」
「…悟浄さんって、優しいんですね」
「まーね。美人には無条件に優しいのよ、俺」
「『美人には』?」
 ぷっと軽く吹き出すように笑って聞きなおす。そこからは先ほどの寂しげなものは伺い取れなかった。
「そっ。限定」
 大丈夫のようだ。
 自分たちの分だけじゃ可哀相だからと、悟能が4人分の飲物を用意するのを待って、行きと同様静かに部屋へと戻る。
「なあ、三蔵」
 ドアの向こうから聞こえてくる声。
「明日、八戒と散歩に行く約束してんだけど、行けるかなー」
「さあな」
 タイミングの悪さに悟浄はめまいを起こしそうになったほどだった。
 どうしてよりにもよってこのタイミングにこの会話なんだ。
 悟能を伺い見る。
 彼は俯いていた。前髪で隠れてしまうその表情までは伺うことができなかったが、自分の姿を隠してしまおうとするような感じを受けるほど縮こまった肩とお盆を握り締めているその手から、このまだ子供の域から脱していない少年がどれほどの思いを内に秘めて今を耐えているのかが想像できた。
 小さく舌打ちすると、何も言わずにがっとお盆を奪い、行儀悪く足で豪快にドアを開けた。
「三蔵。煙草切れたんだわ。ちょっくら出かけてくるな」
「悟能も連れてか?」
「ああ」
「じゃあ、マルボロもな」
「………」
 たまには自分で行けよ、と口に出せないかわりに1つ睨むことで小さな抵抗をすると、悟能の肩を抱いて外へと促した。
 せっかくの気分転換なのだが、悟能の足取りはとても重いようだった。まあ確かにさっきの今でそう簡単に忘れろと言うほうが無理な相談なのだが。
 悟浄もそれがわかっているだけに、もう下手ななぐさめをしないようにしている。ただ近くにいて、同じ歩調で歩き、いつでも彼が声をかけられるようにする。
「…僕…」
「え」
「僕、悟空さんに嫌われてるんだと思いますか?」
 歩くのをやめてしまった悟能は、考えるのもやめたようだ。
「いや」
「でもっ」
 どう考えたって、あれだけ色々と言われれば嫌われていることくらい、子供の自分だってわかる。
 顔を上げたそれは今にも泣き出しそうなものだった。泣きたいはずなのに子供じゃないからと強がって我慢しているような、そんな姿。
「大丈夫。たまに混乱するだけだ。悟空だけじゃなくお前を嫌う奴がいるわけねーだろ」
「…それは僕が『八戒』だからですか?」
 2人の会話がかみ合っていないことにようやく気付き始めた悟浄だった。
「僕が八戒だから嫌わないんですか?そうですよね…みなさんは八戒だけを見ていて、僕を見ることがないですものね…必ず僕を見ていながらどこか違うものを見ている…。でもっ…でも僕は悟能です。八戒なんて人知りません。ちゃんと僕を見て欲しいんですっ」
 悟能は何度か瞬きをする。それは溢れてくる涙がこぼれ落ちないようにするときの苦肉の策だった。泣くなんてそれだけは嫌だったから。なんとなくこの人は泣いた人にとても優しくしそうだから。
 泣いたから優しくなんて、してほしくない。
 偽物の優しさなんていらない。
 気を引くようなそんな行為。絶対にしたくない。
 だからこそ、悟能は目頭が熱くなってきてたまりそうになる涙を、少々瞳を大きくすることで引っ込めようとしていた。
 その密かな努力は、しかし誰が見ても明らかなものだった。
 悟能は多分涙を必死にこらえていることを悟られているなどと思ってもいないだろう。
 そんな子供らしい行為をすることもあれば、大人の自分たちが気付いていないことを簡単に見破る瞳を持つ面をも持っている。
 子供のころから恐ろしい奴だったんだな。
「悪かった。俺たちはそんなつもりはなかったんだけどな。他には?他にも言いたいことがあるんじゃねーのか?」
 優しく暖かい手のひらで前髪をかきあげられ、優しい色を秘めた瞳でまっすぐ覗かれて、優しい声音で尋ねられれば。
「……もう1人にしないで」
「1人じゃねーだろ。俺たちはいつもお前とともにある…」
 悟浄は優しく悟能を抱きしめた。
 小さな頃。縁日などで売っていた小さくて可愛らしい、ふわふわしたひよこ。そのひよこの細かく震える体が寒さのためだと勘違いして、小さな体に負担が掛からないように優しく暖かい布をかけてあげたことがある。
 その光景を一瞬思い浮かべてしまったほど、今の状況はそれに似ていた。
 ということは、悟能は小さな何も知らないひよこということになるなと、結構似合うかもと思って心の中で悟浄は笑った。
「…僕は居場所を見つけられたんですね」
「居場所か。そう思ってくれると嬉しいね。この先、お前には色々なこと待ってる。辛いこと悲しいこと。楽しいこと憎いこと。お前の意志に反しても、何かしら事はお前に近づいていく。でもそれを1つずつ乗越えていけば、いつか俺たちとお前は出会うんだ。必ず俺が見つけてやるよ」
「…悟浄さんの腕は暖かい」
 そうして悟浄の体温にひかれるように、ゆっくりと悟能は瞳を閉じていった。慣れない環境で精神的に疲れたのだろう。自分の腕の中で安心しきったように無防備に眠っている悟能を、起こさないように静かに抱きあげて木陰へと移動する。
 ふと先ほどの頼りなささげな姿を想像してしまった。
 たしかに勘違いさせてしまうほどの態度をしてしまった自分たちも悪い。
 先ほどの悟空の言葉はただ自分が気になっていたことを口にしただけで、それを偶然に悟能が聞いてしまっただけなのだから。もし悟能がいるとわかっていれば、たとえ悟空でもそんな無神経な言葉を発したりはしない。
 三蔵と自分だってあまりかまってしまうと、変なところで気をつかう八戒だったからそれは悟能になっても同じだろうから、かえって悟能の精神面が辛くなってしまうだろうと考えて、いつもと変わらず何でもないように接してきただけなのだ。
 子供と大人の感じ方の違いを実感するとともに、悟能が今まで感じていた淋しさを拭ってやりたくて、悟浄は自分の腕で抱いたままそっと寝かせておいていた。
 多分10分ほどだろう。
 その腕の中で大人しく眠っていた体がかすかに動いた。
 顔を除き込み、状況を判断する。
「悟能?」
「…あれ。眠ってしまってたんですね」
 ぼんやりと悟浄の顔を見つめてから言葉を綴る。
 自分が束縛されていることに気付いた彼は、ゆっくりと体を起こして周りをきょろきょろと監察しだした。
「どうした、悟能?」
「あなたが昔の名で呼ぶなんて。悟浄こそどうかしましたか?」
「……八戒?」
「ええ」
 にっこりと微笑むその顔を間違えることはない。正真正銘八戒だ。
 何を考えることもなくそう確信したとたんに、悟浄は無意識に八戒を抱き寄せていた。
 彼の存在を確かめるように。
 八戒の肩に自分の頭を乗せ、ぎゅっと抱きしめる。
「変な悟浄ですねえ」
「変か?」
「ええ」
「そっか」
 同じ姿。同じ声。でも確かにこの腕の中のぬくもりは悟能ではなく八戒だ。
 悟能はあれからどうしただろうか。大丈夫だろうか。
 どこにも彼はいないし、現実にはすでに大人になった人物がここにいるのだが、それでも悟浄は心の中で祈らざるを得なかった。
 何があっても頑張れ。負けるな。と。
 ほんの少しの時間だった。
 その少しの時間に自分たちはどれほど彼に淋しい思いをさせ、彼を傷つけてしまったことだろう。
 それでも。
 僕は居場所を見つけたんですね。
 最後に嬉しそうに言ったその言葉に悟浄は救われるような気がした。






END