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空が涙を流している。静かに、少しずつ。そして雨と化して、地上へと降り注ぐ。
恵みの雨とも言われるくらいなので、それを喜ぶ人もいるが、反対にいやがる人もいる。
そしてここに、後者の意見を持つ人物がいた。
窓にはだんだんと、時間をかけて小さな雨粒がついていく。後から後からやってくる仲間と手と手を合わせて、やっとある程度の大きさの雫となり、嬉しそうにすべり降りていった。
それが八戒にとっては、泣いているように見える。
ゆっくり流れ落ちて行く涙。そう連想させられる。
そして少しずつ八戒を責めたてていくのだ。
どうして気付いてくれなかったの。
どうしてもっと早く来てくれなかったの。
どうてあなたは泣いてくれないの。
そう呟く彼女の声が聞こえる気がする。ひどい人と自分をののしる人の声が聞こえる気がする。
そう言えばあのとき…彼女の命のともしびが消えてしまったときでも、自分は涙1つ流さなかったことを思いだす。
悲しくなかったわけではない。辛くなかったわけでもない。
それでも流れない涙は、枯れてしまっているからだろうか。
否、違う。
八戒はすぐ否定した。
枯れているのではない。自分が冷たい人物だからだ。
どうして自分の都合のいいように物事を考えてしまうのだろう。こんなだから、たった1人の大切な人さえも、守ることができないんだ。
八戒は窓の前に立ち、じっと外を眺めている。
微動だにもせず、ただ一点を見つめているその姿は執行を待つ流刑者のようだった。今、彼に復讐をする人が現れたら、甘んじてそれを受け入れることだろう。
人形のように動かなかった彼が、今ゆっくりと腕を上げた。
窓ガラスを伝っていく雫の後を指でそっとなぞる。
こんな自分でもいつか涙を流すときがあるのだろうか。こんな冷たい心を持つものでも。
両手をガラスにつけてみる。頬をよせる。
そとは雨が降っているために寒い。だから窓だって冷たいはずなのに。
ほら。そんなことも感じない。
自分の心が冷たいという、これが証拠だった。
雨が降る。静かに少しずつ。
すぐやむだろうという三蔵の予想に反して、未だ降り続いている雨は、まだやむ気配を見せない。
そしてここにも1人、眠れずにときを過ごしている人物がいた。
眠ろうと横にはなっていたのだが、悲しくも睡魔は訪れず、かえって静かな雨音が耳にこびりついて昔が思い出される始末。
結局無駄なあがきはやめて、彼は今、本と向かい合っていた。
静かな夜。
となりが悟空じゃなくてよかったと、心底三蔵は思った。でないと読書なんて到底できやしなかっただろう。
悟空のいびきがすごくて。
例え隣の部屋だといっても、今のように神経が高ぶっている日などは、些細な物音でも耳が拾ってしまうものなのだ。だから今日みたいに眠れずにイラついているときに、悟空の豪快で気持ちよさそうないびきを耳にしてしまったら、彼は絶対に銃の安全装置を外してしまうに違いない。
それにしても、異常なほどの静けさである。
三蔵は顔を上げると、壁を凝視した。透視しているのではないかと疑うくらい、じっと。
自分が背を向けている隣の部屋からは、今はやんでいるが小さな物音がしていたのに。
目の前の隣の部屋は、正反対にずっと静まり返っていた。
不自然なほど物音がしない。
しかし、彼がまだ休んでいないことだけは、この雨で理解していた。
パタン。
それは八戒の部屋からの小さな物音だった。
夕食後、各自が割り当てられた部屋に引きこもってから、初めての物音。
だからだろうか。
それとも同胞だからだろうか。…恋人だから?
多分あの音からすると、窓を開けた音だろう。そこまでわかっているのに、三蔵は嫌な予感を拭えなかった。
どうして雨なのに窓を開ける必要がある?
ただの気のせいであることを願いつつ、読みかけの本にしおりを挟むことさえ忘れて部屋を出ると、三蔵は八戒の部屋の扉をたたく。
「八戒」
返事はない。
「…入るぞ」
光が灯された明るい部屋。なのにもかかわらず、暗闇の中で輝く光のように、ある一点にすぐ目がいった。
開け放たれた窓のへりに後ろ向きでよりかかり、両手を脇において体を支え、上体をそらせて外に出している。
「何をしてる。死にたいのか」
その厳しい口調は彼に届いたようで、ゆっくり体を起こすと三蔵を見て。
「まさか、実験ですよ。この雨と僕の心と、どちらがより冷たいか」
ニッコリと八戒は笑った。
「三蔵はどちらだと思います?」
自虐的なその行為に、三蔵は沸きあがる憤怒を抑えるのに必死だった。だが。
「まあ、もうわかっているとは思いますが」
八戒の自分自身を卑下する言葉に、理性は耐えられなかった。
「…実験といったな。俺が手伝ってやろう」
三蔵は怒りのままに八戒の腕を掴むと、有無を言わさずバスルームへと引きずり込む。
「なに…っ」
シャワーの下へ座らせると、断りも入れずに三蔵はシャワーのノブをひねった。
勢いよく出てくる水。下へと叩きつけるような、細かい粒の冷たい水。
それがある日の出来事を思い出させた。
肉を切り裂くときの感触。崩れ落ちる力なき体。奪われていく体温。流れ出る赤い血。
恐怖。絶望。悲哀。苦痛。
「い…いや……やめてください……放して…っ…」
八戒の願いも空しく、水は空から降ってくる。
幻聴を引きつれて。
愛していたのに…どうして泣いてくれないの…。
「いやーっ」
三蔵の腕を振り払おうともがく八戒を、三蔵は容赦せずとどませる。
「止めてっ……三蔵っ」
それは悲鳴に似た声だった。
それでもまだ水は降り続く。
三蔵は止める変わりにと、ぎゅっと八戒を抱きしめた。
ここにいるというように。ここには2人だけだというように。
冷たくなった体に体温を分け与えるように。
「どうだ。冷たかっただろう。だからお前は冷たい奴じゃない。わかったか」
八戒の耳元で囁くと、彼を抱きしめたまま片手を伸ばして、違うノブをひねった。
出てくる水は温かいものへと変わる。
自分が濡れるのも構わずに、三蔵は彼を抱きしめる力を緩めない。
「…でも、僕は冷たいんです」
「なぜそう思う」
「…泣かないんです。あんなに愛した彼女だったのに、亡くなったときだって涙は出てこなかった」
その弱々しい声は、泣いているように感じられた。
彼の心が泣いているように…。
「泣かなかったら、冷たい人間なのか」
「えっ…」
「それだけで冷たい人間だと判断するのは、頭が固い証拠だな」
冷たい体に温水の温かさが浸透していく。
「涙が出るから悲しいわけじゃない。悲しいから涙がでるんだ。お前は悲しんでいる。ただ涙腺とつながっていないだけだ。それに悲しすぎると涙が出てこないこともある。何かが枷となって出てこないこともある。だから涙が出ないからといって、冷たい人間だとは限らないだろう。それに…」
八戒の心にも三蔵の暖かい言葉が浸透していく。
暖かい三蔵の手が八戒の頬を包み、温かい三蔵の指が八戒の唇をなぞる。
「お前が優しいのは俺たちが知っている」
どちらからともなく、唇が寄せられる。
何度も角度を変えられるそれは、いつまでも続きそうな勢いだった。それが終りを告げたのは、三蔵がシャワーを止めたのと同時だった。
八戒の長い前髪が綺麗な顔に貼りついている。それを三蔵は両手でかきあげ、露になった翠色の両目を覗きこんで言う。
「お前は充分温かい」
そう言う三蔵もずいぶんと濡れていて、綺麗な金色の髪が顔に貼りついている。
同じく綺麗な八戒の好きな顔が隠れてしまっているのが嫌で、ゆっくりと手を伸ばすと、お返しとばかりに三蔵の前髪をかきあげ、露になった彼の端正な顔を凝視する。
その八戒の視線で、もう彼が大丈夫だということが知れた。
三蔵がこの部屋を訪れてから、やっと自分をちゃんと見たのだから。
「あなたは、私にはもったいない人ですね」
「お前も俺にはもったいないな。だが、離すつもりはない。その覚悟はしておけ」
「…はい」
彼が近くにいたら、いつかは自分も変われるかもしれない。
雨が降っても大丈夫。そんな強さを持てるかもしれない。
そう変わりたいと、そうありたいと、八戒は思った。
彼のためだけでいい。涙を流したい。
それが今の八戒の願い。
END