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カサカサと葉を踏む2種類の足音がしている。
たまに聞こえてくるのは子供の声。しかし大抵は一種の少々高めの声しかせず、それよりほんの少しだけ低めのもう一種の声は、思いだしたように聞こえてくるだけだった。
「あの奥に例の花があるそうですよ」
そう言って、小さな指を一本以外すべてを折り残った人差し指で差し示す先は、木で茂って先が見えない奥の方のようである。さすがに子供の金蝉でも、少々先に見える茂みだとは思っていない。
「…おい、本当に行くのか?」
「行かないんですか?」
くるりと振り返ると、天蓬はくりくりした瞳でぱちくりと瞬きして問いてきた。
それは確実に心外だ、と言っているようで金蝉は次に言おうとした言葉を一瞬飲み込んだ。確かに自分もその花を一緒に取りに行くことを約束してしまっていたから。
しかし天蓬が指差すそこへ行くには…。
「…それ、渡るんだぞ?」
そこには川が流れていた。
川幅は狭く、流れも緩やか。見る限りではさほど深くもないだろうその川は、泳いででも川を歩いてでも渡れるほどのものだった。そんな安心の川は、大人から見れば透明度が高く心和ませてくれるものではあったが、金蝉と天蓬はまだまだ子供なのである。背が低く、無力な彼らにとっては、どんなに安心できるものでも、危険度の高い川に変わりはなかった。
しかしそう思っていたのは、もしかしたら金蝉だけかもしれなかった。
「当たり前でしょう?」
それが何か?と、またまたぱちくりと瞬きしながら、あっさりと答えられてしまったのである。
「橋があるんですから、何の問題もないじゃないですか」
たしかに橋はある。しかしその橋は金蝉にとって安心しきれるものではなかった。
だって、それは丸太だったから。
今2人の前に立ちはだかっている川を渡るためには、その丸太を通るしか方法はないのである。もし、これが岩がいくつも並んでおり、飛び跳ねて向こう岸まで渡るというのであれば、まだ何とも思わなかったことだろう。しかし丸太はその名の通り、丸いのだ。少しでも足を滑らせてしまったら、そのまますてんと川に落ちてしまうと考えると、やはり躊躇してしまうのは仕方がないだろう。
「…金蝉はいいですよ、先に帰ってても」
天蓬は後ろで手を組むと、表情は何の変化もなかったものの、その手をきゅっと握り締めて言った。
他人が見たらどう感じるかわからないが、実のところとてもとても仲のいい2人だった。
待ち合わせ場所は少し離れた桜の下。
待ち合わせ時間は昼食を終えた午後の1時。
いつの間にかそれが暗黙の了解で。
毎日のように、何かするときでも何もしないときでも、2人はそこで待ち合わせ。
それほどいつも一緒の2人だからこそ、天蓬は本当は1人で先に行くのが嫌だった。
少しだけ恐いとは思う。
静まり返ったこの森に、聞こえてくるのは自分たちの声と足音。その他にはたまに鳥の鳴き声と葉が風に揺られて掠れる音が聞こえてくるだけで、ところどころにしか入らない日光がさらに恐さを煽っていた。
でもそれくらいはまだ平気。それよりも何よりも、ただ金蝉が一緒にいないという寂しさが、天蓬が1人になりたくない1番の理由だった。
そう、それだけである。それさえ我慢すれば、少しくらい恐くても先に進むことはできるのだ。
仲のいい金蝉。大好きな金蝉。その彼が嫌だというのなら、無理強いはしたくない。
だから天蓬は何でもないことのように言った。
「……行く」
ぼそりと金蝉は行った。
「でも…」
「いいから、早く行け」
金蝉は体を少しずらしすと、天蓬の背中をトンと軽く押した。
その勢いで一歩を踏み出すと、天蓬はくすりと口元に笑みを浮かべる。
「やっぱり優しいですね、金蝉は」
「ふん」
後ろから聞こえてくる彼の声。それが彼の照れだということがわかっている天蓬は、手を口に当ててさらにくすくすと笑った。
彼のその態度が楽しくて。
彼が付き合ってくれることが嬉しくて。
ついつい天蓬は足元から注意を逸らしてしまい…。
「あ…」
「っ、天蓬っ」
金蝉はゆっくりと瞳を開けた。
思考を働かせていくうちに、自分が机の上で寝ていたことに気がついた。夢から覚めたのはきっと辛い体勢のおかげで、背骨と首が悲鳴をあげたからだろう。
「ずいぶん古いな」
それは一昔という2文字でくくられてしまうほどの昔話。いや、それから更にさかのぼることになるほどだ。
忘れていたと思っていたのに、実のところ記憶にはちゃんと残っていたようである。
「ったく何で今更…」
そして目についたのは、机の端の落ちるか落ちないかというギリギリのところに置いてある写真だった。
「クソババアのせいか」
それは数時間前。
「相変わらずつまんなさそーだな、金蝉」
そう言いながら入ってきたのは、面白そうな表情を惜しみもせずに満面に現した観世音菩薩だった。
てめえの方こそ暇を持て余しているだろうが、とは口にはしないものの常々金蝉が思っていることである。
「何の用だ」
「お前に面白いモンをやろうと思ってな」
ポンと机の上に投げられたのは1枚の写真。そこにはびしょびしょに濡れた小さな天蓬と、憮然とした表情の小さな金蝉が写っていた。
「これで少しは退屈しのぎになんだろ?」
「なるか」
などと言いながらも、その懐かしすぎる写真を見て久々にあれこれと考えていたおかげで、最近では思い出しもしなかったころのあの夢を見たようだった。
「……それでも少しは退屈しのぎになったか」
「どんな楽しいことがあったんですか?」
ひょっこり姿を現したのは天蓬だった。
いつもの白く長い白衣の裾をたなびかせている彼は、右手に紙袋を手にしている。
遠慮なくスタスタと何知る顔で部屋へと入ってくると、きょろきょろと室内を見まわした。
「悟空はいないんですね。せっかくお土産を持参したのに」
「奴なら、捲簾とかくれんぼをするって、はりきって出かけた」
「ああ、そういえば捲簾もいませんでしたね」
「ちなみにおやつは3時だ。それ以外に餌はやるなよ」
「もう3時回ってるんですけど……おや?」
空いている左手で、机の上に無雑作に置いてあった写真を手にする。
「懐かしいですねえ…」
そう。このときは確か花を取りに行ったのだ。
当時、今と違って自分たちはよく外に出かけていたから、あれほどよく会い仲がよい方であったとしても、お互い部屋にはあまり行き来していなかった。おかげで金蝉の部屋にはこのときまでで、たったの一度しか入ったことがなかったのだが、最初感じた寂々たるものがずっと忘れられないでいた。いつまでも強く天蓬の記憶に残っていたそれは、たまたまよく声をかけてくれる軍人が恋人にあげるのだと言って手にしていた花を見て、これだと思ったのだ。
これなら少しは色がつくと。
これなら金蝉の部屋にもよく合うだろうと。
そう思ったらいてもたってもいられなくて、天蓬はその花を取りに行くことに決めたのだった。
本当なら1人で取りに行って金蝉を驚かそうとも考えてみたが、いつも一緒の彼と離れるのが嫌で、理由は口にしなかったものの、結局彼にお願いして花摘みにつき合わせることにしたのである。ところが途中、遮るようにして流れている小川を渡るために丸太の上を歩いていたら、つい足が滑って天蓬は川に落ちてしまい水浸しになってしまった。
「結局、あのとき花取れなかったんですよね。でもあなたの珍しい姿、見れましたからね」
「珍しい姿?」
「覚えてないんですか?」
ホラ、ここです、と天蓬が指を指したのは、まだ幼い金蝉の右腕だった。
よく見てみると、赤い色がついているような気がする。
「僕が川に落ちたのを心配して人を呼びに行こうとしてくれたのはいいんですけど、あまりにも慌てていたようで、あなたすっ転んだんですよ。そのときに背の低い木に引っ掛けたんです」
そう言えば。
あのときは無我夢中だった。天蓬が川に流されてしまったらどうしようとか、溺れてしまったらどうしようとか、そんなことしか頭になくて、とにかく彼を助けるために大人を呼びに行こうとしたのだ。ところが足元まで注意がいかなかったものだから、そこが偶然にもぬかるんでいたために、それに足を取られてそのまま転び、手をついたところが運悪く小枝が出ていて引っかいてしまったというわけである。
そのとき自分より冷静だったのが落ちた本人の天蓬で、深さがあまりないことに気付いた彼は、足をつけて胸まである水を掻き分けながら、急いで金蝉の元へと近付いてきた。
そして向き合った2人が同時に発した言葉が。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫か?」
天蓬は金蝉が転んだことに。
金蝉は天蓬が川に落ちたことに。
それぞれ自分のことよりも、相手の心配をしていたのだ。
「そういえば、これが最初で最後でしたね。あなたが手を繋いでくれたのは」
そう。写真にはしっかりと2人の手が握られている。
お互いに、自分は大丈夫だと相手に伝えるように。
思えばあのときから、相手を守りたいと、見守っていきたいと、そう思い始めたのかもしれない。
「金蝉。この写真くれませんか?」
「いまさらだろうが」
「ええ、でも欲しいんです」
「……好きにしろ」
「有難うございます。まだ、あなたの子供のころの写真は持ってなかったんですよね」
にっこりと微笑んで、その写真を胸に抱くように抱え込む天蓬だった。
それはそれはとても嬉しそうな微笑。
短気で怒りっぽいがあまり感情の起伏を見せない金蝉でも、見ていて心の奥がほんわりとしてくるそれは、普通の人が見ていれば多分つられて自然と微笑んでしまいそうなものだった。
その笑顔は、金蝉が好きな天蓬の一部分。
しかしそれでも彼は見逃しはしなかった。
「子供のころの写真『は』?」
「あ…」
しまったとばかりに、天蓬はそっぽを向く。
「おい。俺はお前の今の写真すら持ってねえぞ」
「えーっと…」
「なのになぜお前は持ってる?」
「……実は…隠し撮りしちゃったんですよね」
「いつの間に…」
「たとえ金蝉だって見せませんよっ。僕の宝物なんですから」
「見たかねえよ」
まったく、と顔をそむけた金蝉の口元に突然笑みが浮かんだ。
それが人の悪そうな笑みだったのだが、案の定…。
「…黙って撮るのは見過ごせねえな」
「えっ?」
カツンと、金蝉が履いているサンダルが音を立てる。
その音と同時に席を立った金蝉は、机に右手を付き左手で天蓬の胸倉を掴むと、ぐいっと手前に強く引いてそのまま唇を彼のそれに合わせた。
「こっ…」
今までも幾度となく触れた唇。
柔らかく。暖かく。
それをお互いのそれで、相手のそれをしっとりと、そして熱いものに変えさせる。
少し離れては角度を変え、まだ足りないというように再度唇を味わう。
貪るように。じっくりと。
「罰金だ」
「…もう、悟空がいないからって」
「関係ねえ。ところでカメラは没収するぞ」
「…隠し撮りは罰金なんでしょ?」
「望むところだ」
シニルに笑みを浮かべる金蝉に、天蓬は苦笑するばかりだった。
彼はやりかねない。いや、絶対にやるだろう。
そしてその写真を見せ、彼は言うのだ。「罰金はいいのか?」と。
だがそのときを待つ自分がいることにも気付いている天蓬だった。
(次はぜひまた手を繋いでもらいたいですね)
それは一生ムリな相談かもしれない。ましてやこんな大の大人が男同士で手を繋いでいたら、端から見れば気持ち悪い絵柄だろう。
それでも。ほんの少しだけでも、この希望が適うときがくることを夢見てもいいかもしれないと、漠然と考える天蓬だった。
END